2014年3月31日月曜日

20140331 Kに関するメール

Kの死について、何人かメールが来ました。
この中で、ふたつ、要点だけここに引用します。

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1

私もおとといの晩、夢の中で
彼のエネルギ-と「共鳴してしまった」ようでした。
すぐわかって悲しい感じだったから大丈夫?
というエネルギ-を送ったら
向こうが手をガバーと掴んで来たので
怖くなって「私はまだ生きるからやめて!」と怒鳴って
エネルギ-を切って
こっちの世界に戻って来た(起きた)
というのが夜中の2時ごろありました。
怖くてそれ以降寝れなくなってしまった
そこは暗くて怖くて
感情が淀んでいるような場所で
そして向こうは一人のようで
私はいわゆるフォーカス23??
と思ったのですけど・・・
その夢の中で何かできたら
よかったのかなと気になっていたのですが
松村先生の雑記超タイムリー!!
向こうで誰かついてくれている人が
いるようなのでちょっと安心した・・・

亡くなったニュースを聞いてショックだったのですが
そんな夢を見てたり、
松村先生の記事を読んだり、
あと、3月入ってずっと心臓が
ばくばくしていたんだけど
その夢を境に普通になってきたというのもあったり
彼の死の意味が私の中で変容してしまいました。
空いた穴に違うものが、埋め込まれた感じです。
きっと他の人のところでも
いろいろ共鳴現象が・・・・
起きてるんじゃないですかね。

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2

Kさんは、私の傍にもずっといます。隣の時もあるし、左横の時も
右上と感じることもあるし。
先生は荒い感じと書いていたけれど、私は時々寒そうだと感じます。
でも嫌な感じではない。
先生が書いている女性は、私にはわかりません。

実際に2回しか会っていないので、言うのはとても気が引けるけれど、
ここ数日はほかの誰よりも、つながっていることを感じます。
ふだんから人の気配とかそういうのを日常的に
けっこうリアルに感じながら生活していると思うんだけれど、
Kさんは誰よりも近くにいる。

先週月曜の講座中、何か部屋に違和感を感じて
話に集中できず、外や天井に目がいった。
一番目が行くのは、トイレのドアでとても気になった。
誰かがいる、何かあるという感じです。

今年の春分に江の島へ行ったけれど、前日江の島にあるプールに入っていた。
入りながら、色々なことを考えていたけれど、頭上を飛び回るとんびが
とても印象的だった。
あの春分の江の島の雰囲気と、Kさんが重なる。
2回しかお会いしなかった私がリアルに感じ取るのだから
Kさんのエーテル体はすごく強いんですよね。
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31日には、以下のようなメールも来た。

3

このメール書こうか迷いましたが、Kさん来たので送ります。肋骨の後ろが痛いです。
一緒にワークショップを企画していたのですが、実家にいるので延期で、というメールをもらい、内容はただならぬ状況でした。ある日に我を失い、ここ5年の記憶が消えていたということでした。それを先生にお知らせしようと思いつつ、私はなんとなしにぐたぐた見送っていて、まさかKさんが急逝するとは思わず。。
Kさんがこちらで前後不詳になっていた間、私のところにはひどくざわざわした気配があり、山形に行ったという日にそれは消えていたので、あれはKさんが返信気にしていたのかな、でももう実家だし大丈夫だねと思っていました。今思えば身じまいのために山形に帰ったとしか思えません。ただ、結果は同じでしょうけど、先生には言えばよかった。申し訳ありません。
記憶が消えて狼狽し、数日かけて、今何をしているかやっとまだらに思い出したとメールにありました。山形では5年の間にあったことを、Kさんは手元のメールなどをたよりに反芻したと思います。会った時、ずっと小さい咳をしていて、今おもいかえせばそれは肺に水がたまる心不全の前兆で、記憶が飛んだのも血流不足でしょう。先生にずっとお世話になったままでこたえることができない自分が切ない、と彼にしては珍しい個人的な話をして、これから新しいやり方をして行きたいとか、とても熱心に言っていました。Kさんいよいよこれからだね、と楽しみにしていましたが、ロープレ、まさか中間領域でやるとは。

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わたしがKと関わるのは、三年くらいと、はじめにKに言った。
そのあとは、自分で自由にしてくれという感じで。
だいたい2010年から始まったと考えると、2012年か2013年まで、ということになるけど。
とくに体調が悪くなったのはやはり2013年だ。






 

2014年3月29日土曜日

20140329 で、今日は非常に近いところに

数日は、気配がなかったので、その間kは、わたしをサーチしていたのだと思う。そして、通路ができた。物質的には東京の渋谷区にいる、という感じで、探す必要などないけど、そういうレベルではなく、心理・アストラル的なレベルでは、差位性があると、接点をつくるのに時間かかる。

今日は、寝不足だったのでひさしぶりに、ゲートウェイのF12を聞いてみた。寝不足の時に聴くと、体力回復する。つまりずっと使っていなかったのだ。

聴き始めると、すぐに、2メートルひだりに、彼が立っていた。直後に、10センチの距離に来た。まだ、死んだ直後なので、荒れている。少し。たぶん時間の問題。この荒れている感じというのは、まず生々しさがあるのと、ちょっと怖い雰囲気というところ。無理矢理身体から引きはがしたところでできた、ゆがみみたいなもの。調整されていくと、これがスムーズにまとまる。

彼は自分が住むことになっている場所を示した。巨大なツボのようなものの中の、中腹にある穴。あまりにも大きな壷なので、ひとりが入る穴は非常に小さく見える。でも、そのまえに、彼の背後に女の人がいる。感じとしてお姉さんみたいな。これは、だれなんか?

彼は、丸い白い絨毯を見せた。わたしは、なら、中間領域で、展開しなよと言った。しばらくは、エーテル体の世界にとどまるつもりらしいので。
心残りは、わたしが提案した、ゲーム手法のTRPGらしい。それは、これからでもできるね。ここからその中二階にいけば。参加者は、そこにいけばいい。絨毯のサイズからすると、参加者は三人か四人程度しか入れない。

いずれにしても、わたしが異常な数日を過ごしていたのは、もやもやと気配を感じつつ、これ、自分の感情では、ないなーと感じつつ、それに包まれていながら、はっきりとKを、認識していなかったからだ。今日ははっきりと、接触した。なので、すっきりした。これからしばらくは、彼はわたしの、そばにいるらしい。

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で、わたしはモーエンとかに、今後はエノクかモンテーニュのような暮らしをしたいと言ってたのだけど、エノクは特に、死者ないし天使のようなものに囲まれて生きるという意味のことを指している。わたしの土星期には、土星のそばに海王星があり、しかも8ハウスなので、死後の人か、あるいは人になったことのないものが近くにいて、わたしはそれを対象化しておらず、(つまり合なので。)共存している感じ。こういうところでは、Kが十年くらいいても、違和感はない。

問題はわたしの生きている側のバランスの取り方で、関わり続けると、わたしのほうが、半分引きずり込まれている感じになるので、なんとも言い難い異常な精神バランスになること。前にも書いたけど、元気に爽快に生きていて、なお死者と関わり続けるというのはありえんでしょ。現代社会は、というかある時代から、生者と死者は分ち難く分離するという文化、精神の形を作り出してきたのだから。エノクのようになりたいというのは、共存可能だから。
生きた人々のいる社会と、霊・魂・死者・宇宙的な法則の領域には分離があると何度も書いたけど、この分離感が原因で、生きた人々に囲まれてにぎやかに生きている人は、宇宙法則や、霊との接点が薄くなり、霊との接点がある人は、結果的に、生きた人と仲良くない状態になりやすい。両立させようとしても、大きな溝があるので、生きている世界で何かしっかりとやっていきたい人は、いったん霊との関係を切り離したほうがいい場合もある。とはいえ絶対いいとは言い切れない。

雑記に書いたTさんの夫は、昨年死んだのだけど、講座で聞いた話では、その後、小さい娘と一緒に、ドコモタワーの隣のフレッシュネスバーガーに行ったことがあり、帰りに、娘が「いま、お父さんがいた。知らないおじさんと一緒に座ってた」と言ったんだそうです。死者と接点を作りやすい場所というのがあり、これは物質的な意味では、ちょっと良くない場所とか落ち込みのある場所、事故になりやすい場所で、物質的に脆弱なところは反対にエーテル的に強くなりやすい。身体でいえば縫合部で首とか股とか。

で、わたしはまとめて、死者、異次元、そしてUFOの来る場所というものはみな共通していると説明する。
なんとなく、体験的には建物の形が円形とか、螺旋階段があるとか、ぐるぐる回っている感じのものが多い。あのフレッシュネスはそういう構造。なので、わたしの見解としては、死者が来やすい。
いま思い出したけど、シュタイナーは肉体的な運動は直線に運動し、エーテル的な運動は、円形になるという話をしていた。ということは、ぐるぐる回転するような形は、エーテルレベルに接触しやすいということだ。これがわたしの体験と合致する。螺旋階段のある家で、客が異常な体験をたくさんする家があった。昨年行ったタンパのスティーヴのペンションも階段は回転していた。神宮外苑のマラソンは、直線に見えて、結果的に1.2キロの長さの円運動だ。クアラルンプールから飛び立った飛行機は直線で中国に行かず、回転した。

で、今どうして、この話を出したのかというと、死者はわりにひとりで来ない。Kの場合も、姉のような人が背後にいて、それはKの胴体よりも少し大きい体躯。Tさんの夫のそばにいたオジサンとか、この姉みたいな人たちは、案内者の役割でもあると思う。で、いつのまにか、わたしは一人で来る死者はさまよっていることの暗示。ほかに誰かいるのは、通路があり、助けがあることの暗示と解釈することにした。

人が死んで、肉体から離れると、肉体すなわち感覚組織が使えなくなるので、わたしたちが見ているような土地とか、建物とか、机とか、ものを認識できなくなる。なので死者は、わたしたちがものを見ているようには見ることができない。だからKも渋谷に行こうと思っても、行けない。つまり死後の世界はまったく違う地図、違う認識の線上で行動する。時間も進まない。あたかも空間を歩くかのように、時間を歩かなくてはならない。時間が進むためには、行動する労力が必要だ。
二メートル隣とか、10センチとかは空間的な意味でもないし、部屋の中という意味でもない。それは意識の共鳴の度合い。これがあたかも距離であるかのように見える。
なので、Tさんの娘が、お父さんが隣の椅子に座っていたという時も、死んだお父さんは、テーブルとか椅子を認識できないが、象徴的な意味としてのものには接近できる。象徴的な意味として、隣の椅子に座っていた、という。ちょうど夢を解釈するかのように受け取るといい。
もし誰かのところに、Kがいたら、共鳴したということです。シュタイナーの言い方がわかりやすいかもしれない。「思い出したらもうそれはすでに貫通してきている」








2014年3月28日金曜日

20140328 天秤座の24度

わたしのホロスコープでは、8ハウスに、天秤座の24度の海王星がある。ずっと昔、理由もなしに、唐突に倒れて立ち上がれなくなった時があって、その時に意識が遠のいている状態で、向こうの丘の上に老人が立っていて、にんまり笑いながら、わたしに手を振っていたのを見た。
その丘の上の老人から、わたしに向かって、川が流れていて、その時、この川が境界線の向こうとつなぐ作用を持っていることを知った。
で、わたしのホロスコープには、この海王星に関係した4つのオポジションのアスペクトが、2ハウスと8ハウスの間にあって、これが問題の川であることを知った。

これを死の川と考えてもいい。となると、まるで三途の川みたいだ。
で、とくに火星と海王星が、牡羊座と天秤座の24度領域に近く、この24度領域は、牡羊座と天秤座に関してのみ「外との接点」として働く。なのでハウス的にも、サインの度数的にも、川の作用が強調されている。

で、毎年、太陽はこの海王星というか川に接触するのが10月半ばで、わたしはいつもその時に、その年が終わったと感じる。というか、極端に脱力して、燃え尽き症候群みたいになり、何か壊れていくという印象を抱く。毎年決まって、だ。
川の先に、死の領域の接点としての海王星があり、ここを刺激されると、結果的に現世的な価値観とかアイデンティティのプチ崩壊を起こす。死の接点は、同時に生の価値観の崩壊と引き換えであることは言うまでもないので、元気に爽快に、死の領域との接点を作るということはあり得ないので、このプチ崩壊は自然なものだと思える。生のフォーマットがひずむのだ。川の先の海王星のとなりにある土星、すなわち老人はにんまり笑っていたが、このにんまり笑うところに、そうとうな意地悪な印象があって、これは生の価値観とかフォーマットを軽く壊してしまう意地悪さだと思う。それに、「そんなことは、前々からわかってるだろ」と言いたげな感じで、わたしに笑いかけたのだ。

で、昨日、雑誌のムックの記事を作るために、わたしに取材して、それを執筆する予定の編集者のYさんが来て、ひとあたり、説明が終わって、帰ろうとするときに、「そういえば、最近続々と人が死んでませんか。怖いんですけど、大丈夫でしょうか」と言った。
Yさんの個人的に知る人たちが死んでいるらしい。

で、わたしはわたしで、自分個人の周囲でも同じと考えていたのだけど、さらに、わたしにはそういう現象に接触しやすい面があった。
トランシットの火星が、わたしの出生図の問題の海王星の上にぴったりと張り付いて、動かないのだ。ずっと天秤座にある火星は、ここしばらくそこから動いてくれない。
毎年一年で一回転する太陽よりも、二倍、つまり平均二年で一回転する火星は、太陽よりも、もうひとつ深い作用を持つ。いつものことだが、ここでいう太陽は、占星術的な太陽、つまり地球のことである。
地球をわたしたちとみなした時、占星術の太陽は、わたしたち自身と同一化される。地球に生まれて、個人としてのエゴを持つ生き物としての同一視だ。

シュタイナーは、この地球(太陽)の両側にある天体の金星と火星について、金星はミクロコスモスへ誘う。火星はマクロコスモスへ誘うと説明している。夜眠って身体から離れるとき、人はマクロコスモスに。朝目覚めて身体感覚の中に入るとき、人はミクロコスモスに向かう。それぞれ案内というか、牽引するのが火星、金星ということなのだ。
シュタイナーの説明は、火星で飛び出し、木星で夢見し、土星で行動化するというものだが、このマクロコスモスでの三つの星の作用は、占星術の場合には、火星、木星、土星を社会的なコスモスに結びつけすぎているので、さらに、マクロコスモスを拡大解釈するためには、火星と天王星、木星と海王星、土星と冥王星を連動させた形で解釈したほうが自然だ。天王星は飛び出し、海王星で夢見し、冥王星で行動化する。太陽系の外へと。

で、火星はマクロコスモスへと誘う天体であるというシュタイナー的見解からすると、わたしの、川の先にあり、高みの見物をしている老人(天秤座の27度の土星)が随伴するところの海王星(天秤座24度)の上に、火星が乗っていると、毎年太陽が来る時よりも、はるかに、強くプチ崩壊が起きている。この場所は発射台で、火星はミサイルのような。
火星だけならまだ抽象的な、占星術的な作用しかないが、そういう時に今月の22日に、自宅療養中のK氏が死んだので、扉が開いたままの、毎日気配がなだれ込んでくる状態。

編集者Yさんの言う、最近人が続々死ぬんですけど、という話は、わたし個人の接点でも、そういう事情なので、よりいっそう印象が強いということなのだ。

24日に、Tさんが講座中に、自分の夫が死んだ状況はどうなんですかと聞いたので、死んだ人のホロスコープから、死んだ瞬間の状況を読んだ。この場合、死を悲しいとか不幸と解釈するのは、直線時間の習慣で、一方的すぎるので、そういう考え方はしないでくださいと説明することにしている。むしろ楽しい旅立ちのケースもあるのだ。これは円環時間的な思想を取り戻した後でならば、そう言える。つまりひとつの円の終わりは次の円につながり、さらにそれらを七つまとめて、大きな円が統括している。でも直線時間ならば、ともかくこの生きている今以外に何もない暗闇なので、死は怖いことで不幸で、取り返しのつかないショッキングな話なのだ。

Tさんは夫が死ぬ前後に、生前はもう車いすから立ち上がれない状況にあった夫が、立ち上がり、「ここなら自分でも立てる」と言った夢を見ていたそうだ。身体は動かないけど、エーテル体の身体は、むしろ肉体の身体が衰えるときに、その肉体の身体への自己同一化をうまく引きはがすことができたら、逆に元気に立ち上がり、歩くことができる。ホロスコープは、興味津々で、いままで馴染んでいなかった世界に飛び出すという配置を作り出していた。飛び出すエネルギィを十分に持っていた。

で、わたしの四天体が2ハウスと8ハウスの間で、四つのオポジションを作り出す川の場所は、土星と火星も含むので、ハーフサム的に言えば、石川源晃式熟語の「死軸」も作り出しているので、ともかくどんな天体がここを通過しても、その作用はいったん死ぬ。
なので、火星が通過するという自家中毒的な配置であるが、火星の作用は「それまで続いていた性質・テーマとしては」ストップする。
ただずっと停止しているので、ストップしたままになっていて、わたしの体温はどんどん落ちていってるのかもしれない。なんせ調子がいい時で35度。そこまで行かない時が多く、34度台の後半なんだが、「それでも人は生きていけるんですか」みたいな状況。生きていけると思うけど、免疫力は思い切り弱体化しているので、何かいろんな衝撃が耐えきれない状況です。跳ね飛ばせない。なので、前進するなり、逆行なりしてほしい。火星が死軸の上で寝てるんです。
K氏は、いつも接触していた囲炉裏のじいさんはわたしとほとんど同じ発想で、ほとんど筒抜けの関係に見えると言ってたことがある。そもそもそのじいさんは、出雲族だと言っていたので、わたしと同系の要素は多い。で、そのじいさんのモチーフには、わたしの8ハウスの、丘の上で笑って手を振るじいさんも混じっている。








2014年3月22日土曜日

20140322 はじまりはどこから

昨日の雑記の内容に関連していることだが、
円環時間には、始まりと終わりがない。しかし、異なるコスモス単位へのつなぎの節目はある。
上の次元から、下の次元に降下するときの節目は、下の次元の円からすると、はじまりだ。
わたしたちは、感覚的な存在として生まれた時、この感覚的な知覚のありかたを手に入れ、それを使い始めることそのものによって、それ以前の記憶を失う。
なぜなら知覚のしかたがまったく違うからだ。

で、ホロスコープの場合、アセンダントつまり地球の地平線に、生命の帯である黄道が接触したところを、個人の始まりにする。もちろんこれは、感覚的、肉体的な存在としての個人の始まりだ。
でも、これは感覚に縛られていない本来の生命存在の始まりをあらわしていない。
あくまで、肉体的な存在として生まれてきたところのスタート点だ。
このはじまりの設定は比較的あいまい。
何をもって始まりと決めればいいのか、というところでは、すべての人に共通した基準がないのではないかと思う。

それにそもそも、親とか周囲の人が生まれた時間を記録しているからそれをもとに計算しているが、自分で自覚していたわけではない。昏睡状態で、本人にはまったくわからないスタートであって、自我の始まりとか自覚の始まりを自分の始まりとするのならば、アセンダントを決めた出生時間の時には、まだ「わたし」は始まっていない。
この自我のありかたは、この感覚的で、肉体的な器官と結びついたところでの自我の始まりと、こんどはたとえば気の身体としてのエーテル体を素材にしたところでの自我の始まりというものを比較すると、それぞれ異なっているので、自我の始まり、自覚の始まりというところでも、万人に決まった基準がないのだ。
エーテル体を素材にした自我の始まりというものならば、母体の中ですでに始まっている。
しかしこの知覚の形式は、わたしたちが大人に育っていく過程の中で、記憶を消去される。
多くの人と同じように感覚的な目や耳で自覚するというしかたをおぼえこむ段階で、それそのものの感じ方がそれ以前の記憶を消してしまうのだ。

どのレベルを自分とみなすのか、ということを先に定義しなくてはならない。
そしてそこから、スタート点、というか節目、大なる宇宙から切り離されて、小なる宇宙が始まる節目を設定しなくてはならない。

この問題は、ホロスコープという個人の起点を考えるときに必要なことなのだが、集団的な意識としてのスタート点を決める時にも、よく考えなくてはいけない問題になる。
たとえば、土地とか地図の占星術的な12サイン割り当てを決めてくださいという話になると、
わたしは以前雑誌で、日本地図を12サインにわけて、あちこちを旅するというコラムを書いていたが、日本の起点をどこにするか、ということで試行錯誤した。
中国が、いったいどこからどこまでが中国なのかわからないように、
日本もどこからどこまでが日本なのかわからない。
現在の日本国という地図でわかるではないですか、と言われるかもしれないが、
それは「現在の日本国というアイデンティティ」の上でのものであって、
たとえば、縄文日本とか弥生日本とか、朝廷の日本とか、徳川家康の日本とか、明治の日本とか、それぞれに「自我のありかた」が違うのだ。

で、わたしは以前、自分がもと出雲族であるということを本に書いたのだが、
このもと出雲はまだ大地に着地していない雲の状態であり、大陸と地続きで、西に長く伸びた筒のようなものだ。そして日本のあちこちにアームが下りているような状態。
これは個人のホロスコープにたとえると、アセンダントになる前の状態で、まだ肉体的に下りていない状態。出雲は、雲から出てきたのか、それとも雲が出てきたのか。

で、雑誌の連載の時には、暫定的に、九州の伊万里あたりを起点にした。つまり徐福がやってきたときを、現在の日本の「自我のありかた」の原点とみなした。
そこを春分点、すなわち牡羊座のはじまり、前の宇宙の記憶を喪失する場所、そして新しい自我のうまれる起点としたのである。
地球で12サインの地図を作るとき、ジオデティックはグリニッジを起点にするが、
もちろんそんなでたらめを採用したくない。これは政治的な、イギリスの覇権のスタートを示した本初子午線であり、それは今日の国家意識をもとにして作られる人間意識のスタート点でしかない。
人間個人が生まれる前に、青い狐がいた。
この青い狐のスタートを意識するならば、起点はグリニッジでなく、ニジェール川にしなくてはならない。そうシリウス意識が降りてきた場所だ。
アフリカのすべての種族はそこから始まった。そしてエジプトでさえ、そこからの子孫なので、古地図で使われるように、大陸がもっとも大きなサイズになるピラミッドの経度位置を、本初子午線にするよりも、より精密だ。
でも、わたしたちは、青い狐は存在せず、人が生まれてきたところをスタート点にしたい。さらに、政治的、国家的な成立ののちの自我を人とみなすならば、グリニッジにするかもしれない。

地球の春分点すなわち始まり。日本の始まり。個人の始まり。
これらは共鳴しあう、異なるサイズの円なので、基本的には同じ理屈で考えることができる。
で、わたしはもと出雲族だとするならば、肉体的な始まりを自分の始まりとはしないタイプだ。
つまりエーテル体の上に立つ自我を、つまり"肉体"よりも、"意図"を重視する考え方で決めようとする。降りてきた後でなく、降りようとする意図、目的の部分を、まずは降りてきた後の自分の始まりとみなすのだ。結果からものごとを判断するわけでないということだ。

意図は動作よりも早いので、武道の達人になるには、この動作よりも早い意図のほうを読まなくてはならない。攻撃の始まりは、常に攻撃の意図の後、ワンテンポ遅れて始まる。意図を直接読めば、動作が始まる前に反撃できるのだ。
これがエーテル体を基盤にしたところのわたしということだ。
たとえば、真っ暗の中で会議してみよう。すると、誰かが発言する前に、発言しようという意図が先に発信されるのがわかる。明るい場所では、この意図が見えにくくなり、感覚的に誰かが口を開くのを見てから、その人が発言することがわかる。

一方的に流れる時間意識の中では、物質的な輪郭によって、タイミングとか起点を決める。なので、今日の午後六時に待ち合わせというときには、午後六時がスタートだが、実際にはそこに向かってなだらかに盛り上がる気の流れがある。物質的な輪郭としては午後六時だが、気の流れとしては、朝からかもしれない。昼からかもしれない。物質的に会合する六時には、もう形骸化して、もう残骸しか残っていない場合もある。そうでない場合もある。
たとえば、わたしが何か買い物するときには、たいてい実際に買う時間にはもう形骸化している。わたしはその購入するモノに対して、もう関心を向けていない。関心が向かっているのは、買う前までだ。
なので、買い物に行っても、実際には買わないことも多い。むしろそのほうが多い。現物を目にすると、気抜けするのだ。
物質的なものは、常にどんな時でも、表象、気、エーテル体よりもエネルギィが弱いので、現物を目にすると、それ以前よりもテンションが落ちる。常に。そして意図が間違っていたのではないかとさえ思う。こんなもの買うつもりではなかった、と感じる。

意図を意識せず、常に物質的な輪郭のみを重視するのならば、すべてを結果から判断するということで、こういうギャップは感じないと思うが、しかし日ごとに萎縮して、最後は石になってしまう人のことを示しているので、そんな生き方をお薦めしないのは言うまでもない。

個人的な話では、わたしの進行の新月は今年の七月ならば、七月から始まるというよりは、そこに物質的な節目があり、その前後に均等に山に向かう傾斜があるので、実際には、わたしはそれよりももっと前を始まりとみなすことになる。もと出雲族ならば、感覚的な始まりの前に、真の始まりがある。









 

2014年3月21日金曜日

20140321 スカイプ好調です/占星術デー

倉本氏が、世界占星術デーの3月20日は、帰郷します、というメールをしてきたので、思い出しました。世界占星術デーというのがあるのだと。

占星術は、円環型時間のシステムです。この円環型というのは、大きな円は小さな円へとつながり、前も後ろも、上の次元も下の次元もすべて連結されているというものです。
なので、占星術の始まりの部分ともいえる春分点は、より大きなコスモスとつながっていて、いわば、「天国との橋」が切れていないものを示す。
ところが、今日わたしたちが使う暦というものの起点のお正月は、その先に何もない虚空。
つまりこれは「人類は孤立するべきであり、宇宙的なリズムに従ってはならない」という思想で作られた抽象的なシステム。なので、そこには始まりと終わりがあり、始まりの前にも何もなく、終わりの後にも何もないというもので、グレゴリオ暦はより大きな宇宙にはつながらない。
そもそも占星術は、こうした人工的なグレゴリオ暦に対して異を唱える、もっと深い歴史のあるものなので、実はグレゴリオ暦の中の特定の日、記念日のようなものに決して組み込めない。
世界占星術デーを作るということそのものが、占星術の本来性を否定したものとなる。もしつくるとしたら、毎年位置調整をします、というものが良い。
世界占星術デーを考案した人は、占星術の真意を捻じまげる、本当の愚か者かも。

ある占星術学習の初心者の人が、「占星術のことを考えると、懐かしいと同時に、不安を感じる」ということを言いました。その理由について、わたしは「それは集団的な感情である」と説明したのだが、グレゴリオ暦、ほかさまざまな形で、人類が、宇宙的リズム、さらに霊界のような次元とのつながりを切り離して、孤立する時に、占星術は否定されるようになった。
占星術はこの、人類の自然界からの孤立の方針に従わないからだ。せっかくグレゴリオ暦で、人々を閉じ込めても、占星術はそれを台無しにする。国を管理しようとしても、抜けが出てくるのだ。なので、この手のさまざまな抜け道を封じるキャンペーンをした。こうした歴史的経緯が、懐かしい、そして記憶の中にある、不安を呼び覚ますということなのだ。

人類は独立した自我を作るために、わざと自然界のリズムとか宇宙的な霊界の原理から分離した。一か月に31日などという異様な設定があるのも、そのせいだとシュタイナーは言ったが、自我を作った後は、またあらためて、自然界のリズムとの同調を取り戻す必要があるのは言うまでもない。自我を作った後、そのままだと、人は孤立したままで、この人間社会以外に生きる場所は存在しないが、ここはとても狭苦しいので、たくさんの人を全部収容するほどの大きさはない。

スカイプは好調です。小林ビルの時には、回線が古いソフトバンクのADSLだったので、しばしば停止した。いま使っているものは、それよりも高速でとぎれがないので、スカイプが滑らかです。
で、スカイプがスムーズなら、やはり机の前に縛られたくない。なので、ヘッドセットは、無線を使っていて、この無線は三種類ある。ひとつはbluetooth。もうひとつは2.4G帯のもの。それから、ヘッドホン専用として、ゼンハイザーが採用している非圧縮型。
結局最近はヘッドセットのスパイラルに入っていて、プラントロニクスの小さなものとか、Logicoolのものとか、いろいろ試している。

わたしがHuluで、ザ・ソプラノを見ていると書いたら、太田氏からも見ていましたというメールが来たけど、それよりも、ブレーキング・バッドはもっと面白いです。高校教師が、癌になり、治療費のお金を稼ぐために、ドラッグを製造するようになる話。で、ここに登場する弁護士ソウルが、プラントロニクスらしき小さなbluetoothを使っている。ので、プラントロニクスの小型bluetoothって、どんなのだという人は、プレーキング・バッド見たら、わかるよ。ノイズキャンセリングの性能も非常に良い。

わたしの進行の太陽と月の新月は、今年の七月です。牡牛座の宝石店23度で、3ハウスです。3ハウスの牡牛座は、土地から話を聴くような感じでもあります。











 

2014年3月10日月曜日

20140310 どのくらいするとエンドルフィンが出るのか

ネットを見ていると、 βエンドルフィンのことについて書いてあるページがわりに多い。これは脳内麻薬のようなもので、苦痛を和らげるために脳が生産する物質であるらしい。脳波がアルファ波になるとこれが出てくるという話もある。

どうしてこのエンドルフィンに興味ができたのかというと、世界でもっとも稼げる俳優ということで、数日チャーリーシーンに興味を持っていた時があって、しかしながら彼は、ドラッグをして、またアルコール依存症で、という典型的なハリウッド型の俳優だということが判明した。施設にも入ったことがあるというアルコール依存症について調べていると、アル中あるいは依存症は、エンドルフィンの不足から、アルコールに依存するようになるということらしい。風あたりの強すぎる仕事をしていると、ストレスを緩和するために、ドラッグとかアルコールとかに走る。昔ならば、性格だと思われていたものも、現代では全部依存症とか病気に分類されるので、中国の詩人李白なども、重度の依存症にされてしまうだろう。依存症のないマトモな人格というのは、存在するのか?空想的な、現実には存在しえない基準を標準にしてしまっているだろうと、わたしは思う。理念的で空想的な、というよりも、面倒なものは扱いたくない、ともかくある種のロボットみたいなものを理想に想定しているのではないかと常々思うが、それはともかく。

マラソンしてる場合には、体が苦痛なので、ある段階から脳の中にβエンドルフィンが出てきて苦痛を和らげるということが書いてある。
その結果が、いわゆるランニングハイなのだと。βエンドルフィンは快感物質を生産するので楽しいことや気持ちのいいことをすると生産されると書いてある。このような精神状態を物質で考えるというやりかたは、ともかくどんなものでも、物質の証拠がないと認めないということで、たとえば脳に異常な映像が見えない場合には、後遺症は認めないので、保護対象として認定しないとか、いま、世界から笑われている日本の医療レベルの遅れにも関係すると思うが、半面、パターン的に理解しようと思う場合には便利な面もある。

で、私としてはマラソンしてる場合にどのくらい時間が経過すると。 βエンドルフィン、すなわちランニングハイの状態になってくるかを実際的に確認してみたかった。あるブログでは25分ぐらいするとそれがでてくるという話になっている。私の場合には走り始めは多少苦痛を感じる。それも少しだけだが。それまでずっと座っていた状態でいきなり走り始めるわけだから体がまだそれに適応できておらず、足並みもそろわない。だからそう感じる。
 しかしながら少しずつ体が温かくなってきて、運動のリズムが5キロくらいの段階から整ってくる。確かにこの段階であまり苦痛ではなくなってくる。これは25分から30分前後の段階だと思われる。でもこれはランニングハイというよりも、身体の適応だと思うのだが。

その後走り続けていると、ある段階で、やっと走ったという満足感を感じる段階がある。この時に初めて私はタイマーを見ることにしている。このタイマーというのはガーミンのGPSウォッチ。毎回、このある程度満足感を感じた段階でウォッチを見るのだが、いつもだいたい15キロの段階である。少ない時で13キロ、多い時で16キロくらい。15キロ走ると、自分としては、今日はなんとなく走ったなという実感があるということである、その後20キロまで行くと走るのをやめる。なんとなくトランス状態に入ったような感じ、つまりずっと走っていても、無感覚になるのはたぶん10キロすぎたあたりからだろうか。つまり βエンドルフィンは10キロぐらい走れば出ていると感じる状況か。快感を感じるというよりはむしろ無感覚になるということです。

ちなみにランニング依存症というのもあるらしく、これは毎日走らないと、自分は死ぬかもしれないと感じたりするらしい。選手とかは、これに陥らないようにするために、わざとお休みを設定するらしいが、それでも監視しておかないと、隠れて走る人がたくさんいるらしい。
体重を軽くすると走りやすいことが判明して、体重を減らすが、すると頻繁に貧血を起こす。スポーツをする人の貧血が非常に多いらしく、スポーツ貧血という名前になっている。実は、わたしは以前はランニングをしていると、一か月に平均二回とか三回貧血を起こして、すると、その日は、走るのを停止しても、その後も歩くことさえしっかりできなくなるという状態になることが多かった。いまは、それが起きにくい。貧血を避けるために、頑張って食べているからだ。食べていても、体温は確保できていないけど。炭水化物を食べると、貧血は起こりやすい。きっと早く燃えすぎるから。なので、炭水化物をやめて、ゆっくり燃えるたんぱく質を増やす。結果として体温が低くなるということではないでしょうか。しかし最近は努力して、35度台になった。36度台まではまだ届かない。

20キロ走るというのが当たり前になってきて、モチベーションが上がらない。盛り上がらない。当たり前すぎる。なので、こんどは30キロを目標にするかな。時間かかりますね。

Huluで、イタリアマフィアのボス、ソプラノのドラマを見ていて、トニー・ソプラノのお母さんみたいな、機嫌が悪く、意地悪で、なんでも否定的に見るという性格は、ある人ならば、やはりエンドルフィンが少ないからだという説明をするのではないかと思った。
老齢化して、性格的に希望が見えない悲観的な発想の人間は、自然的に生成するエンドルフィンが少なくなっているのだというのはありうるかも。アルコール依存症の人も、通常の段階では、この成分がかなり少なくなっているらしいので。
飲まないためには、ほかのことで、エンドルフィンが生成されるようなことを見つけなくてはならない。ロンドンでは朝からカフェなどで、ビールを飲んでいる人が多いけど、世界でもっともビールを飲むチェコの人とかは、どう違うのか、調査レポート読んでみたい。ロンドンでは、ランチにビジネスマンがビールを飲む率が非常に高くなっている。

人間には信念体系がある。それは型にはめて、この型の中で眠り込もうとする性質だ。家の中では安心できるという意味。そしてこの信念体系に反することを見聞きすると、ストレスが急激に増加する。フロイトがトーテムとタブーで書いていた内容は、型から逸脱したものを体験すると、ストレスが増えるという。現代社会の場合、そういう意味では、今後ももっとストレスは増加するはずなので、エンドルフィンという単純な発想で考えるならば、もっと増やさないといけないということになりますね。ごく普通に素直に健全に生きていれば、ストレスはないはず、ということは言えない。むしろ健全な人でも、どんどんストレスが増加することを避けられない。
で、この型の中で眠るという信念体系は、個人を集合化させた集団意識のレベルでは、たとえば、日本という国家も、大きな家であって、よその国と関わるということが増えると、当然、日本的な意味での信念体系は常に揺るぎ続けることになる。

日本でも第二外国語として英語を採用しようという話がある。フィリピンみたいに、小さな子供の段階から英語を教育しようというアイデア。
ちなみに言語感覚は双子座ですが、ここでは、言語体系の違いを乗り越えて、共通の理解としての言語感覚のことを述べているわけで、言語体系の違い、すなわち地域性とか民族とかの違いで発生している言葉の違いは、おうし座が示している。結局民族とか体質とかの違いは、言葉の違いではないのか。言葉が違うと同じものを指していても、受け取るニュアンスは違う。牡牛座に、開かれた書物の一文というサビアンシンボルがあるけど、ここに記述された内容を問題にする前に、その言葉そのものに注目すると、双子座的受け取り方ではなく、おうし座的受け取り方になる。
で、ヘミシンクの初期の練習会で、わたしにはふたりの老人が出てきて、ふたりでじゃんけんをしていたのは、表象文字系と、表音文字系のふたりの大天使がいるという意味でもあったけど、日本人は、漢字、ひらかな、カタカナ(ヘブライ語)を三つ使うので、全員が、だれもが、表象文字系と、表音文字系のふたつを扱っていますね。日本という国家を一度解体しないと、本来の日本の力は出ないのではないのか。日本という国家は日本の潜在力を見失わせる小さな家で、この国家は本来の伝統を喪失させることになったのだと思う。日本は非常に多数の民族が混合されていて、にもかかわらずそうは見えなくなっているのは、途中からルーツを切り離して、島国で純粋培養してブレンドした結果ですよね。ヒングリッシュとかタゴリッシュとかジャパリッシュの違いには興味があるけど、英語を第二外国語にする場合、どのルーツの英語を取り入れることになるんだろうね。













 

2014年3月6日木曜日

20140306 移動コース

ヤフーのトップページで、時々、あなたのルーツを調べますという遺伝子チェックの宣伝がある。これで、自分がどこから来たのか、どこに所属しているのかを確認できるというものだ。
で、実際にそれによってわかることがあるのか、というと、自分の半分、いわば下半身の部分のルーツがわかると思う。上半分はわからない。

先週かあるいはその前の週に夢を見たのだが、映像として、水に浮かぶ丸太の上に、立っていた。で、この丸太は丸いので、端のほうは円形に下がっていて、それから下は水の中にある。
自分は反対側を見ることはできない。この反対側に、自分の半身が存在している、という映像で、意味そのものは単純。しかしこの映像の表現がなかなかよかった。どこまでいっても、反対側は見えないというものだ、丸太でなくても、球形でもいいと思う。どこまで移動しても、半分は見えないのだ。

人間は長い歴史の中で、地球上をあたかも幾何図形を作るかのように移動する。前世とか、あるいは大きな自己の中の、今の自分とは違う位相にある小さな自己がさまざまな地域に分散していると考えてもいいが、総合として、地球を苔のように覆うネットを作り出そうとする。そのことで、地球的な自己と、太陽的な自己の平均的な繋ぎができるからだ。それが懸け橋になる。


地球を全部埋め尽くすことで、大きな自己というものに到達する懸け橋ができるが、このネットは、大まかな骨組は、立体の幾何図形で、たとえればマカバのような形を考えるといい。
遺伝子などでわかる移動のコースは、このマカバの下側の女性型正四面体の部分をあらわしている。それに対して反対側の領域は、いわば魂に属するものであるが、遺伝子的なものではわからない。それは丸太の話を出したように、見えてこないのだ。どこまで歩いても、球形の反対側がわからない。片方が西に異動すると、片方は東のほうに異動する。そして、片方が下に行くと、片方は上に向かう。

感覚的なものに包まれていると、私たちは自分を中心にしかものを見ることができないので、この球形の反対側、丸太の反対側はいつまでも発見できない。感覚から離れたら、視覚は全方位的になる。

上側の正四面体は、物質的でもなく感覚的でもないので、移動コースを地図の上では復元できないという面が多く、それでもあえて地図を移動していると考えたい場合には、下側の正四面体からの投影として、逆像として想定はできるだろう。平面的な移動だったら、経度の移動を想定して、その反対側の動きを考えるといいし、この平面的、二次元的な動きを考えるならば、ホロスコープをたとえに考えてもいいが、マカバは平面的でなく立体的な幾何図形だ。

どこまでも二次元的な発想しかできないホロスコープだが、たとえば時間の流れとして、過去から未来へという方向性は、2ハウスで表現される。過去にある資産。これはすでに持っているものなので、わたしたちはそこに依存するが、魅惑はされない。
未来からやってくる資産は、11ハウスで、これは持っていないということで興味を抱く。それは強い吸引力を持つので、持っていないということそのものが財産とみなされていい。
わたしたちは過去から未来へと進むので、この気分があるかぎり、過去はひきつけるものでなく、常に未来がひきつける力を持つ。見えないところから、何かが綱で引っ張ってくれているようなものだ。
物質から過去からやってくる。
ヴィジョンや「意図」は未来からやってくる。
この両方のどちらかを失うと、二点の間につられた糸の上を歩くことができなくなるので、わたしたちはどこにも進めなくなる。

で、いまわたしは進行の月はまだ2ハウスにある。月は創造性を持たず、ただ模倣するか、思い出すかしかできない。
そして2ハウスは過去の資産なので、わたしはいま、自分のすでに持っているものだけを消費して活動している。よく知ってることを繰り返して話しているだけなのだが、たいてい人はこういうことにお金を払う。で、無計画に、参加者のホロスコープをただ読んでいるだけだが、この過去の資産を使うだけ、思い出すだけ、というのは進行の月が2ハウスを去ると、既知のものの繰り返しのみということをしなくなる。

90度のアスペクトは、裏腹な協力関係にあり、同じ平面に並べると、互いが阻害しあう。が、表裏の関係ならば、それは協力関係だ。2ハウスと11ハウスは基本的には90度の関係にあるもので、2ハウスの過去のものを、どういう方向に「消耗させるか」を、11ハウスが裏側から指示している。11ハウスの、まだ持たざるヴィジョンを、どの方向に着地させるか、2ハウスが裏側から指示している。
たとえば、誰かがお金を使う時、どういう使い方、どういうなくし方をするのか、そのなくしかたは、11ハウスがあるべきイメージを作り出しているのだ。
単純な発想では、お金がなくなるほど、11ハウス的なヴィジョンが割り込んでくる。
勢いよくなくすと、勢いよく11ハウスがなだれ込んでくる。
なので、手に入れると駿足でなくすのが好きな人というのは、11ハウスが好きな人だ。
たとえば、部屋の中にある乱雑な荷物をハイスピードで断捨離すると、捨てた分、11ハウス的なヴィジョン、意図、イメージが、その隙間を埋めてくる。
ものがたくさんある人は、疲れ、道を見失い、怠惰の中にうずもれる。ともかく前進するとは、過去を燃やして、意図すなわち未来を引き寄せることなので、そのためには、部屋の中にあるものをどんどん減らしていくと、ここに活発な新陳代謝が起こる。

で、わたしはいま2ハウスの進行の月の時期に、過去の資産でどのくらいのことができるのかを、点検しているような印象もある。橋幸夫とか、過去に売れた一曲だけで、地方を巡業すれば、それだけで暮らしていける。こういうのが2ハウス的な暮らしだ。わたしにとっては、使い古した手法であるハーモニックも、巡業ではウケるんです。わたしにはサビアンも2ハウス的なもの。
完全に消耗しつくさないと次に行けない。つまり収入が不可能になったり、耕作できなくなると、移民に行くように、2ハウスの資産は完全に使い尽くさないかぎりは、人は未来に向かわない。