2014年5月29日木曜日

20140529 水晶透視に関するコメント/はっきり見える必要がある

水晶スクライイングに関して、メールが来たので、引用とコメントしておきます。質問は、水晶で映像ははっきり見えるのか。あんがい、いろんな本では、それが明確にされていないという内容に、わたしがつぎのように答えたのです。

> くっきりテレビを見るように具体的に映像が見える。
> でも、見える人の人数としてはきわめてまれ。
> ほとんどの本は、その体験をしたことのない人が書いている。

これ以後は、メールよこしてきた人の文章です。
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はぁ、薄々気づいてはいたけれどやっぱりそうなのかー。
なかなか人には聞けない部分です。
今まで、「先生の水晶講座へ参加したけれど、まだくっきり映像は見れていない、でもクラックで印象を拾えることで現時点では満足している」とはっきり教えてくれたのは、Kさんだけです。
彼女は客観的で、正直な人だと思う。

では、あまりくっきり映像にこだわらずに活動するのがいいんでしょうか。
私の目標は、見始めてから短時間でくっきり映像を見る、それと、水晶透視をするたびにくっきり映像を見ることです。これは現時点では、結構贅沢な目標です。

集まりに来てくれる人は、驚くほどはっきり「見えた!」と言い切る人が時々いて、一回で出来るようになったと思い込む人がいる。なかなか扱いが難しい。
先生が、いつかきっともう一度、水晶透視の講座を開いてくれるのを私は祈ります。
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これ以後はわたしがコメントします。

印象が入ってくるという段階と、くっきり見えるという間には、かなり隔たりがある。ただ、理想は、はっきり見えること。これは、オーラを見た時に、肉体が消えて、オーラのみが見えるというくらい驚く体験です。
エーテル体に深く入り込むことで、このくっきりと見える段階に入る。すると、強い生命力がチャージされる。それに変性意識に切り替わるので、深淵に触れるような体験をする。水晶が見えると長生きし、健康になると言われているのは、これが原因。

で、遠隔透視とか、未来が見えるということは期待しないほうがいい。
それを期待する人は、たいてい、そのような欲求を持つことで、深淵に近づけないものなので、映像は見ることができない。
未来、遠隔透視。それをしなくても、映像を見ることで、私たちは、現実というものに触れる。それは、ちょっとショッキングだ。そこにはまさに神秘がある。不思議でしようがない。

で、わたしは水晶スクライイングを教えていたけど、それを習って、見えるようになるところまで行くとは期待していない。
というのも、それは、長い時間がかかり、シュタイナーの言うように、血液が神経に接触しないで印象を取り込むような作用を引き起こす必要がある。人間がまるっきり変わってしまうような変化が必要だ。

視覚は思考の反映で、おもに乙女座に対応するとズスマンは言っていたが、感覚の視覚はジオセントリック。松果腺から、視覚に引き下ろすという逆の流れの映像視覚は、ヘリオセントリックの乙女座に対応すると思う。松果腺はヘリオの太陽で、そこから惑星に自己分割するのが、ヘリオセントリックの構造だから。地上からの情報回路ではない。流れは全く反対の方向だ。

ちなみに、わたしはある光景を、自分が場所を移動しながら、別角度で見ると言う体験をしている時には、そこで、細部まで映像を見る。それこそ、葉っぱの一枚一枚。カメラが移動するみたいに、対象は固定され、見る角度がゆっくり移動する。
で、水晶ではないけど、体がリラックスして、感覚が薄くなると、このくっきり映像が出てきます。やたらに植物が多い。

地上の事物に依存して成り立つ映像は、地上のもので、人は死ぬ時に、それを持っていけない。ヘリオセントリック的な視覚は、地上に依存しない、いわば視覚のエーテル界への移送のようなもので、神経すなわち肉体がなくても、独立してなりたつ。
もし感覚が12あるなら、これをぜんぶエーテル体に移送できれば、蝉の抜け殻のように感覚を脱いでも、その人は損なわれることなく、その後も機能する。
エーテル体は、上からの力の受け皿となるが、肉体はその働きがない。なので、水晶にくっきり映像を見ることは、このエーテル体が上のつなぎを始めたことの証だ。

視覚は乙女座。乙女座は、自分が部分化して、全体が見えなくなることを意味するが、わたしたちは、視覚に心を奪われている。そのことで、小さな私に占有され、自己を喪失する。
太陽の自己分割としての創造の光線の下降は、如何なる音にもなれるという原則からすると、むしろ、水晶の映像は、それに夢中になり、心奪われるところまでいかないと、異なる音への降下が果たされない。
たぶん、降りることができると言うことは、上がることができる。降りることを通じて、シはドに上がるのだから。

松果腺からの映像は、地上から見た時の映像と、ちょっとしたギャップがある。上からの映像は真実で、下からの映像は事実、という違い。だから、未来を見る、遠隔透視するというのは、厳密には無理な話と考えるといい。地上の出来事と違うことを言ってしまうのだから。でもそのほうが価値があると思う人は、正しい考え方をしている。

きょうは、わたしは、ライカのズミクロンを手に入れて、α7rの拡大ピント合わせの練習しています。ピーキングだと、完全に合わせられない。オートフォーカスはもちろん結構はずしが多い。なので、マニュアルフォーカスで、拡大画像ピントあわせが、一番理想に近い。
α7rは高画素すぎて、わずかでもピントがずれていても、それははっきりと出てしまう。レンズにハマったり、映像のピントあわせは、ちょっと水晶スクライイングに通じるものがある。





上の四枚は、ズミクロン、ミノルタMDなどの50mm。
下のDSC-RX1は、コンパクトサイズのカメラにもかかわらず、どこまでも緻密な画像。



2014年5月28日水曜日

20140528 レンズ集めしてるので、練習しないと

今週末は、九州講座です。

Aさんが、わたしと業界有名人との対談とかコラボなどをどんどん企画していて、知らない人と対談をするのは楽しそうです。ヒカリエあたりでするそうです。
なので、わたしは服を買わないといけないと思いました。まだ服は買ってないので、わたしに掲載写真くださいと言われても、それは今の段階では無理です。

で、いまカメラのレンズを集めているのだが、
基本の練習をしようと思って、50ミリ前後のものを増やそうと思っている。
50mmで、いま持っているのは、

ヤシカコンタックスの、zeiss planar 50mm F1.4
contax G  zeiss planar 45mm F2.0
Xマウントの、zeiss planar 32mm F1.8 これはAPS-C用なので、結果的に48mm相当になる。

zeissばかりだけど、時代がそれぞれ違う。ヤシコンは70年代。contax Gは、90年代。Xマウントは、昨年出たばかり。
それぞれ映り方がかなり違う。
この違いをもっとつきつめてみようと思っている。
さらに持っているのは、

ミノルタ AF 50mm F1.4

ズームも入れると、50mmで撮れるものは、さらに数本ある。

昔の一眼レフの時代、キットレンズみたいにカメラについてきたのは、50mmで、これが標準レンズとみなされてきた。が、のちに、35mm前後がポピュラーになり、さらに今ではキットレンズはたいていズームレンズが多くなった。
50mmレンズは、案外狭い範囲しか写さない。
なので、画面切り取りには工夫が必要で、なんの考えもなしにメモ的に撮影できる28mmとか35mmに比較すると、なかなか難しい。もちろんFがとても明るいレンズが多いので、開放にして、背景をボケさせるのは一番楽。するとこんどはボケ味が問題になり、きれいな玉ボケができるかとか、二線ボケが汚いとか、いろいろ好みが出てくる。

で、50mmで練習するなら、やはりこれを入手しないことには、話にならないでしょう、ということで、Leica Summicron R 50mm F2.0を獲得しました。まだ手元にはないのだけど。
新宿のヨドバシカメラの近くには中古カメラ店が密集していて、じゃんぱら屋、中古カメラ市場、マップカメラ、キタムラ、レモン社みな比較したけど、たいていズミクロンはふっかけてます。
というよりも基準価格がないのだから、ふっかけるもなにもないのだけど、やはりリスクがあっても、安いのはヤフオクだ。

ズミクロンRは、1964年の発売。ライカはぼけを重視していないので、ぼけは汚いらしい。これはヨーロッパ人はパンフォーカス(被写界深度を深くして、すべての映像をシャープに写すこと)が好みらしく、ドイツのライカなら、ボケをあまり考えないというのはあるのかも。ヨーロッパの人は、ズームレンズが好きらしく、東洋ほど単焦点は好まれないというのを読んだことがある。
日本人だと、24-80mmのズームよりも、24mm、35mm、80mmの単焦点を三本持ち歩いたりしますからね。で、一枚写真撮るたびに、レンズ交換してたりする。おまけに、その都度、ブロアーでしゅこしゅこ埃を飛ばしたり。


こういう古いレンズは、いろいろと欠陥はあると思うけど、現代レンズのただひたすらシャープな解像度のものを見ていると、退屈する感じもある。たとえばソニーのRX1Rには、35mmの最新のzeissがついているけど、不気味なほど細かいです。そして破たんがない。でも、何か完結していて、どこか楽しくないのです。わたしも、RX1Rの映像見ていると、たんに粗探ししかしてなかったりする。

オーディオと同じかもしれない。現代オーディオは非常に精密な音を出すけど、音楽を楽しめない感じがある。別に計測器を求めているわけではないんです。で、ビンテージな70年代のスピーカーとかで聴いたりします。レンズも似たようなものだとすると、60年代のライカ、被写体の色まで自分流に変えてしまうようなタイプのものは、たいそう楽しめるに違いないです。

こういうオールドレンズを遊ぶことができるようになったのは、ソニーのα7が発売されたから。それ以後、中古カメラ屋さんで古いレンズを物色する人が増加している。ミノルタのオールドレンズなんて、キタムラでは、2000円くらいで売ってますからね。古レンズそのものよりも、マウントアダプターのほうが高かったりする。わたしは、contax G用に、メタボーンズ。ヤシコン用にkipon。というふうに、ふたつ持っているけど、こんどはライカ用にもうひとつ必要。





2014年5月19日月曜日

20140519 わたしの進行の新月は7月15日

わたしの進行の新月は、7月15日で、あと二か月くらい。
だんだん冬眠状態から、活動状態に移れるような気もしている。
体温は四度台から、五度台になったし。

新月になるので、7月から、三次元ホロスコープするということを書いたんですが、
当分はこれは大阪でしかできないか。

いまのところ、ほかに九州などの場所もあり、
わたしの進行の新月が3ハウスということもあって、
あちこちで講座するというのは、やはり増えるでしょう。

大阪ではやっとコナミスポーツに慣れてきたので、これは繰り返し使えると思う。
それと、旅行では、たいてい食べ物で失敗していて、身体全体が痛いという感じになっていたのだが、今回の大阪では成功した気がする。
試行錯誤した結果一番いいバランスの食事ができるようになったので、移動先でも安定できると思った。要するに、旅行に抵抗感があったのは、走ることと食べることをうまくできるかどうか、ということだったのです。今回は成功した感じ。

今週また大阪。
来週は九州。






2014年5月16日金曜日

20140516(2) スケジュール混乱/三次元ホロスコープ/蟹座14度の謎

わたしはスケジュールを、iphoneでは、サイスケという有料ソフトを使って、Googleスケジュールと同期しています。
ところが、昨日気がついたことだけど、サイスケで入力した予定が、googleスケジュールに反映されていないものがある。それで、最近、スケジュールで混乱事態になりました。

7月26日の川本さん主催のイベントを記録したけど、それはGoogleでは反映されておらず、Googleでは、ほかの定期講座があらかじめ入っていた。iphoneでは、その日は空いていることになっていたので、iphoneで予定を入力したのです。
で、ダブルブッキングということで、川本さんに予定を変更してもらい、7月5日に変更したのですが、これはiphoneでは空いている日ということを確認していた。でも、グーグルでは、7月5日は、福岡のカイロンの講座の予定が入っていた。というわけで、福岡は、7月6日のみ、講座になりました。

予定がむちゃくちゃになっていて、いろんな人にご迷惑をおかけしています。パソコンが開けない場所では、予定をiPhoneで入力するということをしていたけど、これがパソコンで管理するデータと完全には一致しないことが判明したのだ。
サイスケはほとんどはGoogleに反映されるけど、一部が反映されない。
結局紙のノートを持って一元管理というのが一番いいのですかね。
日ごとに増える講座。
木星は7月17日に獅子座に入ります。
すると、わたしにとって獅子座とは6ハウスの場所で、いつも、火星が来ても、木星が来ても、自分の許容度を超えて仕事が増加する。
これから一年間は処理不能なほどに仕事が増加することは目に見えている。そして、そうなると、なんとなく自律神経失調みたいになる。前は、たとえば、コンビニで買い物をして、気がつくと、カゴを持ったまま、外にいました。カゴの中には買うべきものがそのまま入っていた。レジに持っていくという部分が記憶が飛んでいたのです。
わたしが忘れると、それにひきずられて、お店の人も、それに気がつかなくなる。つまり巻き込まれる。仕事が許容度を超えて増えると、こういうふうに、意識がブツギレになります。
それで、海王星はアセンダントに合になっている。ぶっ飛びはひどくなります。

わたしは、最近手持ちのカメラのいくつかをマップカメラで売り払い、そのお金で、nikonのDfというカメラを買いました。マップカメラの中古です。
理由は、日本でもっとも交換レンズの多いメーカーはnikonであり、圧倒的にレンズの数の少ないソニーよりは、可能性が高いから。
nikonのDfはニコンのオールドレンズも全部使えるというフルサイズのカメラ。
サイズは大きいけど、妙に手に馴染むので、使いやすい。これをいま、大阪に持ってきました。今日から三日間は、大阪で講座なのだ。で、ビルを撮影している。ダイマルとか。

ニコンのオールドな28mmF2.8のレンズを、キタムラで、格安で手に入れたが、もしかしたら、わたしは28mm単レンズだけで、すべて終わってしまうのかも、というくらい28mmが好きです。ソニーのα7Rも、ツァイスのビオゴン28mm使っていたし。
35mmは、あまりにも長く使いすぎたので、これには飽きている。やはり28mmかな。50mmは、使いこなせない。ナチュラルなわたしの視覚は、28mmに一番近いのかもと思いました。アメリカ村のお店の看板類を撮影しています。東南アジアから来た観光客を装うと、どこでも写真撮影しても、違和感はないよ。
いま中国人は、ヨーロッパでもどこでも、一眼レフをぶら下げて、歩き回る。ニコンDfという巨大な一眼レフをぶら下げて歩くには、中国人を装うといい。すると、どうでもいい光景でも珍しいという視線で、写真を撮影することになる。

今日は、朝の三時半に、マツヤでご飯食べました。で、松屋で食べると、その後、長い時間、空腹にならない。食事をするのが面倒になると、わたしはスーパーおおたかを飲みます。毎回、大阪では、昼に何か食べて、気持ち悪くなっていたので、改善策として、今回は、スーパーおおたか小瓶180mlを持って来ました。スーパーおおたかのすごさは、これを飲んでいると、血糖値が落ちないので、講座していても、ダウンしない。脳が安定した機能を維持できる。やはり脳はブドウ糖だけを栄養源にするということからすると、このスーパーおおたかの糖分は脳にはいいのかもしれませんね。へたな食事より、こちらのほうがいいです。
東京体育館の公式インストラクターは、毎度わたしに「ちゃんと食べてますか」と質問するけど、わたしが昼は面倒なので、大孝酵素ですと、言いにくい。言うと、たぶん、なんですかそれ、筋肉増えるわけないでしょと言われのは、わかりきってますね。
でも、Anyway、わたしは一定量以上食べると、気持ち悪くなり、吐きそうになる。なので、おおたか酵素には大変に助かっている。ともかく今日は、am三時半くらいに朝ご飯を食べて、その後講座修了のpm6:00まで、何も食べないかわりに、昼に飲んだおおたか酵素で、ずっと安定していた。
たぶん、明日も朝にホテルのビュッフェで食事すると、その段階で直後に気持ち悪くなり、これをすっきりさせるために、昼はおおたか酵素だけになるのだろう。

三次元占星術、展開しようと思っています。展開というか、開発か。
恒星を使うと、太陽系惑星のパンケーキ的二次元のホロスコープではなく、三次元のほうがフィットしやすいのです。わたしはこの三次元ホロスコープについては、三十年前くらいから言ってるけど、レーザーホログラムがなくてもできることがわかったので、することにしたわけ。
で、三つの視点ということを使い分ける。個人の感覚的な存在は、地球の地表にはりつき、東を前方にしている。これが普通の従来までのホロスコープ。
シュタイナーは、この立ち位置で、人間には六方向の力が働いていて、その均衡の中で、その人は直立しているということを説明している。

つぎに、地球を基準にしたものがある。これは地軸が駒の軸。
さらに太陽のヘリオセントリックの座標がある。
頭のてっぺんはどこを基準にするかというので、三つの視点があるということでは、誰もどれかひとつを基準にしておらず、この三つを無意識に使っている。
地球の自転は、太陽に依存しつつ、自分の範囲においてのエゴを作り出す。人は、地球に依存しつつ、自分のエゴの範囲を作り出して生きている。
そして、この自分の世界の範囲を決めてしまうと、それよりも上の次元のものを、意識から追い出します。わたしたちは、いつも生活している時に、地球が回転していることを意識しない。自分のアイデンティティを確立することで、より大きなものから分離するのだ。これはタロットカードでは、魔術師の頭にある無限マークをあらわしている。円を、よじって、無限マークにした時に、上位のコスモスを記憶喪失する。

若田さんの帰還のニュースを見ていて、宇宙に人が飛び出すとき、人はみな地球に依存しているという事実を忘れ、自分がそれ自身で肉体を構築する磁力場を作り出すことなどできていないことを認識しないと、地球から離れるにつれて、意識もばらばらになっていくことに対処できない。母親のことを忘れて、自分が自立していると思い込んでいる子供みたいな感じ。離れようとした時に、いかに依存しているかに気がつく。
人は、この地球に依存していることを忘れて、独自の磁力的求心力というか重力みたいなものを作り出せていない段階では、外に飛び出すことはできない。ごくごく近くをうろつくだけ。

人間個人、地球、太陽という三つの座標を使い分けつつ、三次元ホロスコープを展開しようと思う。これを図示しながら説明するためには、ソーラーファイアのプラネタリウムが不可欠で、スターゲイザーではできません。で、レディナダでは参加者とかは、前からソーラーファイアばかり使っているようなので、まず大阪ではこれを説明しやすい。
チャクラ論と占星術を結合します。あるいは生命の七つの階層と、12の感覚を立体的に表現することになる。今年の夏以後から、それを展開するかな。
この場合、恒星と、ヘリオセントリックの惑星位置を併用する項目も入るので、そしてブレイディのような狭いオーブではない形で使うことにもなり、常に視覚的に確認しながら考えるということになります。

基本的に7と12の数の原理が使われることになりますが、いっぽうで、わたしは最近まったく音楽を聴きません。7と12の音律で使われる情感というのは、いつも同じにしか聞こえないから。12よりも区分を拡張した音楽を聴きたい。スーフィの音楽でもいい。ギュンベルは、9000ヘルツ以上の音は、より高次な意識とつながる音で、それを聞くためには沈黙が必要だと言ってるが、トマティスの言うモーツァルト効果は、3500ヘルツだったかな。これは首の後ろが刺激される。

老人の場合、耳が衰えて、7000くらいから上は聞こえなくなる人が多いけど、音は耳だけで聞く訳ではなく、身体全体が耳になっている面もあるので、あまりかまわない。
いずれにしても、3500よりも上になると、首から上の頭が刺激されやすい。頭の中心に圧迫感を感じるのは、ギュンベル式に言えば、9000から上なのかもしれない。若者は高い音が聞こえるので、若者にしか聞こえない周波数で嫌な音を聞かせると、若者が近寄らなくなる場所もできる。なんか蚊を超音波で追い払うみたいな感じですね。

ただ、この周波数の固定的な位置づけ、つまり絶対音感みたいなものは、人間のアストラル体や知性、自我には働きかけしない。人間はその部分は相対音感で、移調できるから。つまり音と音の関係性の上に成り立つ。固定的な周波数は、ものと音の関係で作られ、これはあくまで物質の固定された基礎の上に立つ、つまり人間で言うと、身体という存在を意識して考えられる発想だ。

動物は絶対音感で、移調すると、同じメロディだということを認識できない。ズスマンは、動物の群れの中で、子供が母親から離れてしまうと、母親も子供も、もう群れの中でお互いを探しだすことができないと説明していて、これは静止するという軸が、動物にはまだ確立されていないからだと説明している。動いているけど、動いていることを認識していない。マグロは自分が泳いでいることを意識できていないのかもしれない。

絶対音感というか固定された周波数でなく、相対的な音と音の関係の上に作られた相対音感は、音の中に静止するということも可能にしている。絶対音感は物質的な関係の中で音を定義するので、それ自身の中に静止できないということでもある。周波数の変動のほうに気を取られて、音と音の相対的な関係の中に構築されたものを認識できない。
つまり、特定の周波数に特定の効果があるという説は、身体との関係でのみ有効で、アストラル体、自我、心理には影響が及びにくい。
たぶん、わたしが以前モーツァルト効果ということで、和合教授などが展開していたものにあまり共感できなかったのは、モーツアルト効果を周波数などで説明し、モーツァルトの音楽そのものにあまり触れなかったからだ。みかんの皮だけを取り上げて、みかんの中身については話題にしていない、というような。
つまり特定の周波数の影響ということを考え始めると、音楽を認識できなくなる。これは言葉にこだわっている間は、言葉であらわす会話とか内容を理解できないというのと同じ。内容とか会話が成り立つ条件は、言葉そのものをあたかも無であるかのようにみなし、自動化しておかなくてはならないのだ。周波数を意識しないとき、音と音の関係で作られる意味にたどりつくことができる。
オーディオマニアは音質、周波数、音色とか音の持つ固定的な属性に興味を持つので、音楽そのものを聞いていない人も多い。自衛隊の大砲の音を毎日聞いて、音楽CDはそんなに持ってないという人もいる。
音楽の意味を理解するには固定的な周波数の意味から独立する。話の内容を理解するには、言語そのものから独立する。
これは、地球に張り付いていて、激しく回転している地球の上にいるにもかかわらず、人間はじっと静止しているかのように思うのと似ている。あたかも地球は無であるかのように思うのだ。
で、サハスララを人の頭にするのと、北極にするのと、太陽の軸にするのと、というのは、固定的な関係においては、それぞれが分離しているが、構造共鳴的、ひな形的には、相似象だ。

蟹座の14度に、東北の老人のサビアンシンボルがある。蟹座は集団原理で、小さい集団は大きな集団に飲み込まれる。5度には、列車により自動車が破壊されるというのがあり、これは小集団は大集団に飲み込まれる。そのときにいったん自動車という小集団で作り出してきた保護装置、プライドなどがクラッシュしなくてはならない、ということだ。
この5の数字の、偶数系列すなわち内的なもの、そして似た意味として、14という数字がある。1と4を足すと5だから。それでいて偶数だから。

14は自己生殖の数字というが、外的に自動車が列車で壊されるのでなく、13度で親指を曲げて内部に隠し、内へ内へと進んでゆくと、蟹座の集団原理には、次の大きな集団原理へと抜けていくぽっかりとした穴が開く。外的に壊れたのでなく、内的に壊れたら、それに気がつく。これまでの感情、心理、実感がまったく機能しなくなる瞬間があり、まったくの空虚になるが、そこから次のレベルの集団原理、つまりより大きな蟹座に入るのだ。
わたしのこのサビアンを説明するために今日(5/17)は、ドストエフスキー、埴谷雄高、秋山駿のそれぞれが試した「地下室の手記」的なものをひきあいにした。
外的なもののすべてから目を逸らし、ドストエフスキーの言う、「世界が戦争になろうと、今自分が飲むお茶のほうが大切」と思い、ひきこもりの極に向かう。すると虚空が見つかる。わたしは中学生の頃は、この無感覚、無感情というブラックアウトに非常に頻繁に悩まされた。感覚が全部オフになる。

ルディアは、この東北の老人の意味する東北は、23.4度だと言うが、つまり地球軸の蟹座意識から、太陽座標へと抜ける穴を、老人は見つけ出したというわけだ。
東北の老人は、沈黙、孤立の中で、非世俗的な生活をする。つまり地球的な座標の中に張り付いたすべての属性から手を離す。そうしないと東北の抜け穴は見つからない。
この大きな集団原理の力を吸い込んだ人は、それをもって現世に向かう時には、飲み過ぎ、食べ過ぎ、領海侵犯的な蟹座の15度に変貌する。
5度で自動車は大きなものに破損され、14度では、心理は大きなものに空虚化され、この受けた作用を、こんどは自分が何かほかのものに対してしてしまう実行者になるのが、15度だ。アメリカは太陽がこの度数。ハワイを食ったり、いろんなところに侵入して、噛み砕き、食べていく。他国に対する内政干渉をし続ける姿勢は、蟹座の15度そのもの。
多くの国がアメリカ嫌いなのは、この侵略性、飲み過ぎ食べすぎ姿勢に対して抱く感情があるからだと思う。蟹座は少なからず押し付けがましいが、15度ではそれが破壊的なまでに強い力になる、ということだ。それぞれの度数は、それを実行している時にリアルになり、エネルギィがみなぎる実感を感じる。だから、アメリカは侵入し噛み砕いている時、自分の正当性を感じる。

7の生命に対して、12の感覚は、硬直化している、というのは、卵のような船が地上に、12本の綱で繋がれ停泊しているというイメージで考えてみよう。12本はままならない。船は動きたい時がやってくる。その時は12本の綱をとりはずす。一瞬、無感覚、無感情の空白が訪れる。そして船は23.4度傾斜して、すべりだす。
12本の綱がついたままで、この14度東北の老人の穴を見つけ出してしまうと、それはとても怖い体験かもしれない。12本をとりはずしても、わたしはそれとは別個に存在する、という実感が大切だ。12本のすべてがわたし、というアイデンティティの人がいたら、虚空はまさに自動車を押しつぶす列車みたいな働きをする。
この意志の引きこもりの13度、東北の穴14度、侵略の15度を考えた時、やはり感覚は本質につながらない。本質に行くには、感覚をとりはずす必要があるということをあらためて考えるので、(中学生のときの日々空白な体験の実感を思い出して)、するとまたグノーシス派に戻ってきますね。逆に感覚が本質から分離しているということが、カメラのレンズを変えるように、特定の世界に生命をマウントでき、また違うところにもマウントできる自由性を与えたのかもしれない。マウントして、外周にあるリング状の12の感覚をねじ止めしてロックするような感じで。

15度は、タロットカードの悪魔のカードと類似した意味がある。悪魔のカードは、ティファレトから、ホドのパスで、太陽がいくつかの光線に分割され、この分割された光は、地上に向かう。前にも書いたけど、光の皮膜は、19太陽のカードが受け持つ。これはイエソド月から、ホドに向かうライン。
悪魔のカードは、外界に侵入し、押しつけ、仕切るが、これは7から12へという感覚への侵入とも関連しているとみなすと、繋いで、また回収して、という両方ができるといいことになる。




























20140516 感覚を認めるべきか否か

シュタイナーは、生命の七つの層に対して、5つほど数の多い12感覚は、感覚として硬化し、霊性とか生命に従わない要素が作られたと説明した。つまりわたしたちは感覚的に生きている中では、本質には至らない、孤立した地上的な機能に閉じ込められる面があるということだ。7つが12になったのなら、もちろん5つほどの感覚は、生命からは孤立している。

それは物質的な生き方は、その後、もっと高次な霊的な世界には行けない要素があるということになる。なので、グノーシス的な生き方においては、感覚を通じて認識する次元のもの、すなわち「世界」を否定し、世界を創造した造物主を、真の神よりもずっと低い位置に置いた。ソフィでさえ、造物主よりも上位にある存在にみたてた。

ディートリッヒ・ギュンベルは、12感覚とは言わないが、(従来の通俗的な感覚の数え方として5感
ないし6感として扱っている)感覚は、すべて、より高次なものと連動し結びついているという考えを「コスモセラピー」で提示している。もしそうならば、どんな感覚でも、その感覚を極めることを通じて、上位の次元に参入することができる。感覚はすべてその道を持っているということになる。
アロマテラピーは嗅覚、オーラソーマとかは色など、もっぱら感覚を使うものだが、割に古いカバラ派みたいなわたしは、というよりもグノーシス的な思想の傾向のあるわたしは、こういう感覚的な手法については、そこに大いなる希望を持つというほどにはなれない。古いカバラ派というのは、つまり映像にも言葉にもならない、まったく感覚的な印象を持つことのない純粋な意識の働きこそが大事だという考え方だ。まったく感覚を使わないで認識することができるものがあるのか、と不思議に思う人がいるかもしれないが、もちろん感覚依存に生きていれば、それはできないことだと言える。霊的なヴイジョンは映像として認識したりする。なので、それは感覚を借りて認識していること。純粋知覚はそういうものを使わない。こういうカバラ派は、だから太陽の光のもとの世界は暗黒であり、光のない世界は、むしろ輝きの世界であるとみなす。

ズスマンの場合、シュタイナーと同じく、特定の感覚は、もとの本質とはつながらないものもあるということを考えるので、たとえば、水瓶座に対応する嗅覚は、未来の人類においては、そうそうに退化すると主張した。感覚的な嗅覚はなくなり、非物質的な嗅覚は残る、と。それは善悪を判断する時などに使う「価値の嗅ぎ分け」みたいなものとなり、第三の眼と連動する、と。
ギュンベルのように、感覚はすべて本質とつながっているという説と、シュタイナー、ズスマンの、感覚の特定のものは、地上的に孤立したものであり、本質からはかけ離れているとする説は、結局のところ、世界を認めるか、それとも否定するかということに行き着く。空海は、本質は感覚的ではない。だが、本質に至るには感覚的な道をたどるしかない、と言い、このあたりをけっこう曖昧にする。たとえば中沢新一は、グルメは人間を堕落させると主張しているが、これは味覚は本質とはつながらない。それは孤立しているということを言っているのと同じだ。

シュタイナーのように、12サインを12感覚に対応させるのならば、結果的に、この12サインすべて、12感覚すべてを統合的に発達させる必要性が出てくるのは言うまでもない。わたしはいま、カメラにハマっています。これは見たものを切り取る道具で、つまり視覚ということについて、いまあらためて考えているということです。視覚は思考に従って制限を受けるので、誰でも見たまま、無脚色で何かを認識するということはできない。言葉にないものを、わたしたちは映像として認識できない。黒船が来たとき、多くの人はそれを視覚的に認識できなかったと言います。言葉の辞書の中に、それに該当するものがなかったからです。トマベチが料亭に招待したフランス人たちは、目の前に置かれた香炉を視覚の中に捉えることができなかった。辞書の中に香炉がないので。

あらゆる次元のものが、ここに重なっているが、しかしわたしたちはわたしたちの思考によって、このレイヤーの多層性を認識しない。解像度に著しい制約があるということです。
その限界をできるかぎり、可能なかぎり拡大するということを、写真撮影で試みるのは面白いかもしれないです。大地は物質的な皮膜、つまり鉱物に対応し、植物はエーテル体に対応する。ギュンベルも、シュタイナーの、肉体は鉱物を、エーテル体は植物を、アストラル体は動物と対応するという思想に従っているのだが、ネットで見ると、写真の作例には、花の写真を撮るというのが非常に多いです。岩を突き破ってまでのびてゆく植物は、物質的な肉体に従属しない、その範囲をこえて拡大するエーテル体を象徴しており、だから、花を詠う西行法師は、魂が身体から解放されるような体験を頻繁にしていたということはうなづけます。満開の桜の光景は、物質から解き放たれたエーテル体の力強さを示していて、(と言っても、ちょっとだけはみ出しているだけ。)人間は、死をもって肉体から解き放たれるという意味で、桜の満開は、死の匂いを感じさせる。死体の栄養を吸って桜は色が鮮やかになるということからすると、墓地の桜は濃い色で咲く。

2014年5月5日月曜日

20140505 建物とか植物、奥行をあらわすのにビオゴン28mmが理想的

contaxGのレンズは、
プラナー45mmF2.0と、ビオゴン28mmF2.8.を手に入れました。
TECHARTのマウントアダプタのオートフォーカスは、あまり合焦しない。
慣れてくると、ピーキングを使ってマニュアルでフォーカスするほうがスピードが速いです。
でも、まだ無限遠をどうやってピントあわせするのか、やりかたがわからない。
それにしてもプラナー45mmと、ビオゴン28mmの描写には驚きました。28mmでは、有名なマジェンダかぶりが、はっきりあらわれますが、気になりません。

たとえば、以下の写真、奥行感がリアルで、まるで、人形を並べた光景に見えますね。



植物などは、葉の一枚一枚がつぶれない。この写真ではわからないかもしれないですが。皇居に向かうランニングコースでは、いつもここを走ります。青山通り沿いです。



わたしがもっとも好みの建物。ここは実は裁判所です。マジェンダかぶりがすごいね。



銀座でみんなが写真撮ってました。





まだ、使い始めたばかりで、何の工夫もない写真ですが、それでも、この生々しい鮮明な画像は、ほかのレンズではちょっと無理なんではないかと思います。シャープなレンズはいくらでもあると思いますが、この濃さは出せない。

花、植物などは、緻密で鮮やかです。
こういう写りかた見ると、コンパクトカメラとか使う気しなくなりますよね。ピントのあわせかたが、まだよくわかっていないというのは、練習しないとしようがないです。この道は、皇居ランニングのコースです。一周五キロで、ぼちぼちと人が走ってます。それを見るたびに、自分も走りたくなります。



下の写真なんか、どこにピントがあってるのか、さっぱりわからない。ソニーα7rに、古いコンタックスGのビオゴン28mmは、メーカーの正規仕様ではないわけだから、何かと試行錯誤しないと使えないのかも。ピントの場所が、この写真撮影の時には、まったくどこをどう探していいのやら、という感じでした。

昔のカメラなら、距離の目盛がレンズの腹についていて、だいたいF値が大きい場合には、目分量で距離を設定すれば、だいたい合ってた。しかしコンタックスGのレンズは、オートフォーカスのレンズなので、距離を手で回して探すという部分がない。そしてTECHARTのコンバータは、毎回距離の値をリセットする。

ここも、いつも走る都度、写真に撮りたいと思いながら、走ってる時にはカメラは持ち歩かない。ので、この日はたくさん撮影しました。





2014年5月3日土曜日

20140503 インストラクター依頼しました

体温を上げるため、ジムの公式インストラクターに依頼して、週に二回、トレーニングを受けている。結果として、いま体温は急に36度とか、36.1度とか。
筋肉の弱点部分をもっぱら鍛えるので、負担は相当のもので、私は内腿が一番弱いらしい。体じゅうがガタガタ震えます。そこまで、筋肉を疲労させるらしい。

昔のコンタックスGのカメラが理想と書いたが、それならいっそコンタックスG、そのものを使ってみようと思い、techartのコンバーターと、contax G planar 45mm F2.0を手に入れて見た。このtechartのコンバーターは、contax Gのレンズを偏愛している、ある外人が、いっそのこと自分でオートフォーカスのコンバーターを作ればいいのではないかと考え、製品化したらしい。フォーカスのスピードは遅いし、モーター音がうるさく、時々ピント合わないで、はずす。でも、SONYのα7Rで、コンタックスのプラナーが使えるというのが驚きで、そう思った人が世間に沢山いるらしく、いま、中古市場でコンタックスGのレンズが、異常高騰しているらしい。SONYのNEXとα7Rがでるまでは、使い道のないオールドなレンズだった、ということだ。もともとレンジファインダーの、つまりバックフォーカスの短いレンズなので、ミラーレス一眼でないと使えない。コンバーターで伸ばすことはできても、短くはできないので、SONYとかほかのミラーレスでしか使えない。でも、たいていのミラーレスはAPS-Cだったり、マイクロフォーサーズだったりで、焦点距離が変わるので、45mmを45mmとして使うには、選択肢がα7R/α7以外にないということなのだ。
流行に敏感な中古カメラ屋さん、例えばマップカメラとかでは、コンタックスGは高額で、流行に鈍い、うらぶれたお店では、あまり値上げしてない。

私がカメラのレンズに興味があるのは、そもそも小学生の頃、親から天体望遠鏡を買って貰ったとき、構造に興味があって、買って一週間もしないうちに、ばらしてしまい、もとに戻せなくなった。で、このレンズを自分で組み合わせては、紙筒の妙な望遠鏡作りに熱中してしまい、筒の向こうの光景が変化することに、感動したからではないか。レンズを通してみる映像に幻惑されたのだ。また、学研の雑誌の付録に、紙で作る幻灯機があって、レンズはビニール。なかに水を入れて光を屈折させるものがあり、ちゃんと壁に映像が見えるのに驚いた。で、そういう風に、レンズに関心があったので、父親が持っていたトプコンのカメラに興味津々だった。
中学の時、修学旅行に、山口君が一眼レフを持ってきて自慢していた。みんなはそれに憧れた。山口君は、自己顕示欲の強い男で、真っ赤なシャツをよく着ていた。まあでも、あとで、わたしは彼を丸め込んで、わたしが欲しかったパイオニアのフルレンジスピーカーのPE16を買わせて、ちょくちょく家に持ってきて貰っては聴いていたんだけどね。金持ちの家だったので、なんでもすぐに買ってもらっていた級友だったのです。その後、わたしは父親からトプコンもらった。

コンタックスGのレンズを見ていると、レンズの持つなんとも言えない磁力がある。とくにガラスの直径の大きな、50mm前後の明るい、F1.4とか、F2.0以下のものが良い。

いま、これはLTE回線のついたIpadで、入力している。わたしはローマ字入力が不得意。いつもはカナ入力。しかし、不得意と思いつつも、もう十年くらいは、あるいはもっと長く、時々ローマ字入力をしているので、ほんとは慣れているのかな。カナが半分の打鍵数で打てるので、そこから比較するとローマ字が不得意と思っているだけかもしれない。
もしローマ字入力をもっと頻繁に日常的に使えるなら、iPadは便利なので、かなり身軽にできるのだが。これは、大阪とか何処かの出張のときの話です。LTEは案外信頼性があるのと、例えばスタバなどは、無料の無線LAN使える。
PDFの本を読むには、iPadは非常に便利。