2014年6月26日木曜日

20140626 カウンセリングの項目をはずしたのは

問い合わせがありましたが、わたしのサイトの、カウンセリング項目をはずしたのは、はずしている間は、それをする時間はあまりないです、ということだからです。

予定として、七月の前半から半ばに、書き終わりたい本がある。
それと、8月25日に締切になった、予定としては「けっこう長い」本があります。
で、大阪とか九州とかあちこちに講座に行ってるので、
カウンセリングは無理だと思います。とはいえ、そもそもそうでなくても、わたしはあまりカウンセリングしてないんですけどね。一か月にふたりとか、三人とか、そのくらいがほどほどです。





2014年6月24日火曜日

20140624 水晶スクライイング講座はできないか

昨日から、運動のトレーナーはより高度な段階に入りますといって
深層筋を鍛えるモードに入ったので、かなり筋肉疲労が激しいです。いままで使ったことがないような場所を使っているという実感がありますが、ついていくのが大変です。

で、メールを送ってきてくれた人で、海外で水晶透視の授業受けたけど、期待するものではなかった、がっかりだったという内容が書いてありました。

水晶透視は、はっきりと映像が見える段階が理想です。
しかし、それを短期間で教えるというのは、これほど難しいことはないと思います。
で、その準備段階として、イメージがリアルに浮かぶとか、印象がやってくるというものがあり、これはあくまで準備的なものでありますが、それを教える人がいるというのもありでしょう。

でも、肉眼で見る、はっきりとカラーの映像がでる、メガネかけていないのにボケない映像が出る、というのは、衝撃であり、やはりそこまでいかないと水晶透視とは言えません。

で、写真のようにくっきり見るのに、それが物質的にどこかに存在するものかというと、微妙に編集がかかっているというのも、驚きです。たとえば、わたしはある神社をすみからすみまで、くっきりと見ていましたが、それがどこなのか探ろうとして、周囲をすべてくまなく見ましたが、どこにも文字がないんです。普通何か書いてあるでしょう。しかし文字だけがない。作りは完璧。解像度の高い映像。しかし文字だけが抜かれています。

映像をくっきり見るというのは、わたしが知っている範囲では、十人弱、それができているね。
しかしバトラーが書いているように、最長で七年くらいかかりますから、スクール形式にはできにくい。
とくに、わたしは自分で長期的に継続する講座はできないです。
ただ練習するシステムを考案、設計はできるかもしれない。
長く重苦しい領域。
エーテル体を見るというのは、奈落を見ることなので、何か世界の底を覗いたような感じです。
重いです。
そしてこれが水晶を見る時の、初期的な入り口なのです。

2.
どうもその先生は、水晶透視でなく、シンボル読みのようなものだったらしい。

ちなみに、四次元的領域とか死後の世界などを見る時に、
多くの人は、この世の映像と似ていると思うかもしれないし、また似ていてほしいと思うかもしれないが、この世の映像と似ているものは、この世しかない。
別次元は、まったく似ていないので、あたかもこの世であるかのような読み方をできない。

というのは、ともかく、シンボル読みと共通面もあるものとして、五つのタットワを練習として、映像化するというのは、水晶透視トレーニングの基礎としてやりました。
こないだ、大阪では、チャクラの下から四つぶんは、四つのタットワとして見てもらった。
四つぶんだったのは、時間切れもある。
五つのタットワは、ふたつ組み合わせると、25になる。
日本語の場合、母音は5つなので、この五つのタットワと関連付けてもいい。
でも言葉が25よりも多いですが。
エノク語は、19個なので、これを扉にして、水晶透視の領域に入ってもいいですね。



火星は逆行から巡行に戻ったけど、冥王星や天王星とのアスペクトに関わりつつ、てんびん座の15.00度に入ったのは、6月22日あたり。
この現象の例としては、塩村議員のセクハラやじあたりをサンプルにするといいのでは。
いま牡羊座には天王星があり、牡羊座は自我感覚。つまり外に自分を押し出す。もちろん均衡を打ち破って外に。
で、反対に火星があり、この反対の天秤座は、触覚で、
人間は肉体に閉じ込められ、宇宙にはもう戻れないという感覚。
牡羊座の自我感覚が押し出して、てんびん座の、個人の触覚に衝突し、
なお火星はてんびん座の15.00度なので、傷つく体験をします。
天王星は山羊座の冥王星と90度が続き、
山羊座は均衡感覚。つまり立ち位置なのだが、冥王星のこともあり、
いまは多くの人の立ち位置の変更を迫られている。
この立ち位置が変わると、それによって、自我感覚の押し出しも変わり
牡羊座の天王星がてんびん座に向かって押し出したときに、
天秤座では、それが、触覚の被膜を突き破るような損傷を与えるという循環になる。

塩村議員の場合には、わかりやすい例で、やじをとばした議員のほうも、自分の立ち位置をキープできなくなったのは、結果から見るとそういうふうに見えるだけで、
この冥王星、天王星、火星のかかわりの中では、冥王星が「意図の発信者」なので、
立ち位置が変わり、それによって、いつもは言わないことを自我感覚が押し出されるようにして言い出し、つまり何かわけのわからないストレスに誘引され、
そして目の前にいたターゲットに、損傷を与えたというわけです。

こういう場合、馬鹿だねーとか、議員にあるまじきという判断を下すのは、とりあえず当然の見解だが、わたしたちはこういう冥王星、天王星、火星などの作り出すエネルギィの流れに、抵抗はできないですね。

で、地上の三次元世界では、常にどんなものも二極化して、この二極化によって時間の流れ、ストーリーの流れ、方向性、などが生まれることになるので、
地上においては、二極化し、この二極化の「ひとつだけを正」とみなして、片割れ的な世界を作り出す原理が働く。
そういうところでは、塩村議員被害者、鈴木議員悪い、というわかりやすい一方通行的な解釈が成立する。二極化し、いっぽうを表に、一方を裏にして、裏は存在しなかったかのようにみなすのが、地上の法則なので、これを通じて、わたしたちはこの世界に縛られていく。
冥王星がまっすぐ立っていられないぐらつきをおこし、それが天王星に伝わって、前に倒れ掛かり、そのまま、塩村議員のほうにもたれかかって、彼女の皮膚に傷がついた、みたいな展開の時に、ほら、ぐらつかず、まっすぐ立て、というのは、いまのところ無理だったのでしょう。
この場合、火星がキャリアとして、このぐらつきと、自我感覚の突き出しの矛先を、「人を傷つける」という方向に向けた。火星が違う位置にあった時には、もっと違うところで噴出した。

で、この地上においては二極化し、そのひとつが主導権を握るというのが、
ひらかなタットワだと、空の元素から地の元素までの、「あ」から「お」までの絵文字として描かれているのかもしれない。はじめは十字にからみつく蛇だった。これが「あ」
そのつぎに、このからみつく蛇は、ふたつに二極化する。「い」の段階で。
そのうちのひとつは地上に降りていく。力をこめて。これが「う」
下に降りた一方の存在は、地上をはい回って、探索する。「え」で。
そして、そこに自分独自の世界を構築する。「お」

カタカナは、ヘブライ語と同じ、英語圏のサウンド文字なので、図から意味が読めない。
それに比較して、ひらかなは、形態符号化なので、もとが表象文字的で、つまり漢字の単純化みたいなものなので、(途中、借字が仲介媒体になる。)母音の五つは、絵文字として見やすいです。

で、空のタットワにたとえられる第五元素、空をあらわす「あ」のもとの漢字は、「安」らしい。
家の中で、女性が両手を重ねてひざまずいている姿なんだそうです。
守られた中で安心している姿。
上にある家の屋根の象意が、ひらかなでは、「あ」の十字になり、下の「女」という家の中で腕を交差させてひざまずいている女性が、十字に絡みつく蛇のような形に変わる。

わたしがヘミシンク体験の初期に見ていた、ふたりのじいさんは、文字体系のもとにあるふたりの大天使なのだが、ひとりはサウンド文字体系。ひとりは形態文字体系。ここでいう大天使は、民族霊と同一視される種類のもの。
ヘブライ語、カタカナ、エノク語などをするには、サウンド文字体系の大天使側になるけど、漢字、ひらかな、などの形態文字体系方向で考える時には、もうひとりのほうになる。

タットワに入るときに、「ア」から入るのか、「あ」から入るのかでかなり違う。
アだと、これはヘブライ後のアレフのことなので、角のある暴れた牛から。
あ、だと、家の中でひざまづく女性から。
サウンド文字は、波動的な雰囲気から入るので、その点では水晶透視の下地の練習として、エーテル物質のタットワを見る場合には、この形態文字体系、つまりイメージとしてみる方がはるかに楽なのではないか。

地上の物質は、表象と事物の結合で、しかも組み合わせが多層的。
水晶でくっきりと映像を見る時に、地上の物質そのものをそのまま見ることはできないと書きましたが、視覚は思考の反映という点では、誰も、実は地上の物質をくっきりと精密には見ていないということにもなる。
で、地上的な視覚は、事物を先に見て、そのあとで表象にゆきつくのかもしれない。
水晶とか遠隔透視は、表象を先に見て、それに付随する事物を後で見る。
この表象は、もとをたどっていくと、タットワとかエレメンタルになる。
なので、エーテル物質としてのタットワを見る練習は、ピアニストがハノンやったり、走る人がストレッチやったりするのと同じで、見やすくするための、基礎トレーニングとみなせばいい。

たぶん、多くの人が理解できにくいのは、くっきりと映像をテレビとか映画のように見るという時に、この映像は、地上にある固有のものであり、そこに原理的な普遍性はないし、ある風景はそこにある風景で、それは他のどこにもないものだと考え、
この固有の風景なり事物なりを見るというのが、くっきりと映像として見ることなんだと解釈しているからだと思う。
それを覗き見することができるのは、不可能だ、と。

で、地上に降りた「二極化された片方のみ」の事物的な映像を見るのが、わたしたちの感覚としての視覚で、遠隔で見るには、もうひとつのエーテル物質、すなわち「イ」の段階で、分離して、空中に残ったものの側から見る。そうしないと、そのターゲットまで、わたしたちが運ばれてゆかない。
あらゆるものは、エーテル体と物質体のふたつでできているけど、
エーテルの側から見ると、映像には多少欠損とか、あるいは編集が入る。
つまり、エーテル物質は、生命物質そのものなので、そして物質は、その形骸化した死骸、せみの抜け殻みたいなものなので、エーテル物質が希薄な物質は、水晶の映像としては見えなくなり、生命が残った部分が映像として見える。これが編集の理由だ。
そしてこの複雑な映像は、ちょうどテレビの映像が、RGBの三つで組み立てられたかのように、もとはタットワから組み立てられている。
どんな映像もRGBという三つの色から作られていると考えてみたら、水晶透視の映像は、どんなに複雑でも、そのベースにタットワがあると考えるのは不思議ではないです。つまり五つのタットワを均等に視覚化できれば、テレビ映像のRGBがそろったよ、とみなしてもいいような感じです。水晶テレビの部品揃いましたと。
で、RGBのうちどれかが壊れていると、映像が正常に映らないように、タットワの五つが揃わないと、水晶映像も見えにくい。というよりは内容が歪むか。
シュタイナーがいうように、気質の偏りは、世界をその気質で見るので、火の強い人は、エーテル界に入ると、すべてのものを燃えるように見てしまう。
水晶透視は地上でものを見ているのでなく、エーテル界で見ているのと同じなので、自分のタットワの偏りがそのままあらわれます。
タットワが偏ると、そのタットワの奔流に流されてしまう。
映像の静止は、テレビの場合、同期というけど、シュタイナーが人間が静止するには、六つの方向の力が衝突し、均衡を保つ必要があるというように、映像が静止するには、この五つのタットワが均衡を保つように同期する必要がある。
瞬間瞬間流れていくものを、ぴたっと静止させて見ることができるのは、同期を取った中心点にチューニングした時です。つまり静止映像は全部揃ったもので、タットワの五つそれらは、互いに、お互いをぶち壊し続けているので、静止の瞬間が必要。
それは空の元素においての静止か、ないしは地の元素においての静止しかないようにも見えるけど。そのふたつは互いに反映しあう傾向がある。


チャクラの場合、よく下から上まで、七つのスペクトルの色としてみることがあるけど、たとえば、ムラダーラは赤とか、これは、電気的、光学的レベルのチャクラで、エーテル物質に接触していない。
エーテル的な領域でチャクラを考えるには、やはりタットワとチャクラを結合することになるので、すると、ムラダーラは、プリディヴィ、仏教用語では、地天で、黄色い正方形の図形。地の豊穣をあらわすタットワです。

くっきり映像を見ることと、シンボルを見ることの間にはけっこうなギャップがあるけど、シンボルを見るのは、身体が地上に属して、その法則に縛られていて、そしてイメージが解放された状態で見ることかな。
くっきり映像を見るのは、身体と感情の一部が、「二極化の鉄則」から少しだけ自由になっている状態で始まる。

3.
こんなことを書いていると、次のようなメールが来ました。
長いけど、そのまま引用。
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やはり国見国褒めが気になりました。
よむことは数えることでもあり、一つ一つのものをピックアップすることが祝福になる。
パノラマを表すには、山紫水明のような漠然とした既製品の文句か、
ひとつずつものを数え上げる、いわゆる「物尽くし」をするしかない。
言葉という低次元の世界では、ものすごく乱暴に言えば、
論理(物語)か羅列かの二つしか方法がない。
一定のイメージでまとめてしまうことは一種の呪いですが、
その呪いを解くには、この世界では、羅列しか方法がなかったのではないでしょうか。
(ほんとうはもっと、大事な呪術的な役割がありますよね。これは極端な話です。)

ある人のひととなりを表すのに、
「彼はこういう人です」というありきたりのレッテルを張ることは、
思い込みであり呪いです。
それに対して、その人に関するエピソード、その人の行動を
ただただ羅列することのほうが、よほど豊かに人間性を表していたりする。
中国のお話では心理描写というものもあまりなく、
たとえば水滸伝などでも、ただ人物の行動を詳細に並べていくことで、
どんなにその人物が周到で計算高いかを表したりします。

歴史は物語にしないと人の記憶に残りませんが、
物語によって思い込みが生まれる。
専門家が細部を検証していくことでそれは崩されますが、
それぞれ部分的すぎます。

いくら細部を数えあげても、けっして全体像に届くことはないけれども、
「市場」に近づくまで、ただただ細部を積み上げることしか、
不自由な次元では、ほかに祝福を行う方法がない。

でも、「ひとつのレッテルでいっしょくたにしない」や
「個々のありようを認識する」がプラスの意味になるのは、
あくまで現世においての価値観でしょうか。

吟遊詩人の語りの構成法(オーラル・コンポジション)は、
もともと文字を介さない、声の技法であって、
ギリシャのホメロスにも、セルビアにも、中国にも日本の琵琶法師その他にも
共通するものです。
敦煌にまでさかのぼる絵解きの系譜もあります。
ものを並べること自体は珍しくない、いろんな国で共通している話法でもあります。
でも漢字文化圏は羅列、物尽くしの習性がやはり特に強いです。

羅列は本当は同時に起こっていることで、対して論理(因果)は時間と関わる。
中国語や日本語にはほとんど時制がありません。
日本人や中国人の書いた論文は、
よくヨーロッパの人から「ただ羅列すればいいというものではない、論理がわかっていない」と怒られるそうです。(中国の論文で一番参考になるのは巻末の一覧表だ、と先輩が言っていました。)
中国語にはそれでも時系列どおりに語を並べるというルールがありますが、
比べてみると、日本語は更にわざわざそれを入れ替えて、
時間性を消そうとしているところがあります。
掛詞枕詞の多重性もそうですが、

日本語は少しでも一本線の論理から解放されようとしているように見えます。

------------end

武満徹の音楽が、多時間性と言われていることと、武満徹の日本的な感性は随分とかかわりがある。
結局、空間的なものと時間的なものは、数字の、砂描き算と、小石並べ算との関連と似ていて、意味を考えるのは、同時に並んだ図形に、時間的な手順を加えていくプロセスかな。そして時間の流れは二種類ある。地に落ちる方向と、天に解放されていく方向と。

エーテル的な映像は、そもそもエーテルがより上位の次元と結びつき、また物質は、こうしたより上位の次元から孤立しているというのが特徴なので、太陽が自己分割して、惑星の七つにという分解プロセスは、(つまり言い方を変えると、アナハタはすべてのものと同調して、その情報を読み取ることができる働きがある。どんな音にも落とせる。)エーテル的な映像にしか反映できないのですね。

こないだ大阪で、みんなが自分のチャクラを見ている時に、わたしも見ました。で、自分のスワディスタナは、山の清水のように透明な水の流れがあり、その底に、白骨が沈んでいた。白骨はムラダーラに行き着いたもので、水はスワディスタナの素材的なもの。
わたしはスワディスタナの水と、ムラダーラの土を分離していて、いまのところ、それを混ぜないようにしている。
まぜた場合には、そこに腐敗した肉体の映像が、つまり硬化と分解・昇華の入り交じったものが出てくるはず。インドではこのスワディスタナのもとになるガンジス川では、半分腐った死体を流したりする。なおかつそれを飲み水にしたりする。そうやって、あのインクレディブルなインドができたりする。

つまりスワディスタナという水のタットワをあらわすチャクラは、
純度の高い水、まるで蒸留水みたいな水にとどまることはあり得ず、
これはかならず腐敗プロセスをたどりつつあり、その腐敗プロセスの途上を写し取るはずなんです。地上のすべては融合と崩壊を繰りかえす中で作り出されている。その動きがゆっくりか、早いかだけの違い。















2014年6月21日土曜日

20140621 目線の範囲をどこに

カメラの話の続き。
眼球は、脳が外界に関心を持って、その一部が前方に飛び出してできたものだというのが、シュタイナー/ズスマンの考え方。
なので、視覚は、思考の反映であり、そもそも視覚は全体を見ることなどできはしない。特定のものだけを注視する。

占星術のサインでは、視覚は乙女座に対応している。乙女座は、たくさんあるものの中の一部を取り上げ、それを拡大し、それしかないかのように思う。自己を部分化するので、全体は見えてこない。
で、乙女座の反対にある魚座は、この全体を見るという姿勢がある。雲、霧、境界のあいまいな水の元素は、特定のものに視点をあわせず、漠然と視界を広げて、入ってくるものを捉える。魚座の1度の市場は、なんでもかんでも取り込む場をあらわし、このためには、特定のことに集中していてはいけない。
乙女座の部分集中と、魚座の全体への拡張という範囲は、カメラでは、視界の広さの違い、つまりレンズの焦点距離にも関係する。
魚座は視野が広い。つまり「魚眼レンズ」と言われるような、極端な広角から、こんどは望遠などになると、小さな範囲を拡大していくので、これは乙女座的な方向だ。
で、人間の視線に近いナチュラルな焦点距離は、だいたい50mmと言われていた。なので、昔はこれが標準レンズだった。最近のコンデジでは、標準域は35mmで、少し広角寄り。

現代では、個人の視野とか個人の視点が中心で、これによって政治経済も生活も組み立てられているので、全体に乙女座的と考えるといい。土の三角形、つまり牡牛座、乙女座、山羊座は、乙女座が視覚。山羊座が均衡感覚。つまり狭い立ち位置の確保。牡牛座が思考感覚だと言われている。
土のサインらしい点から見ると、人間は肉体的な個体の輪郭で判断する。たとえば、これが水のサインを中心に見てしまうと、この輪郭は曖昧になり、磁力的なあるいは気の身体になってしまう。気持ちとか感情などによって判断する人の輪郭となると、当然それはアメーバのような形で見ないわけにはいかないだろう。何かに愛着を抱くと、それに身体の一部がのびてゆくのが見て取れるのだから。土の元素がもつような、閉鎖的な形骸化した輪郭を見る訳にはいかない。実際、水の活動サインである蟹座では、批判機能は存在しないので、判断の輪郭(境界線)は、浸水する水のように拡大してゆく。どんな犯罪を犯した息子でも、母はあなたは正しいんだからね、とか思ったりする。外部から見た、比較の上で成り立つ価値判断は蟹座には存在しない。どんなひどい国でも、自分の国は最高の国。これは輪郭ぶちこわしということなのです。土の視点からすると、地図のように日本の輪郭は見えるが、水の視点からすると、輪郭は拡大し、洪水のようになってる。

カメラの話に戻るけど、魚座に海王星がやってきているために、魚座が強まり、全体的に知覚しようとして、目線を特定のものに集中させないという傾向が強まる時代にあり、これは行き過ぎると、細部に対して不注意になるのは避けられない。
全体的なところではうるさいが、細部に関してはあまりうるさくない、ということに。
で、わたしが最近、カメラで何か撮影しようとしているのは、この一部切り取り。そしてそれを強調という撮影作業そのものが、乙女座的なものなので、強くなりすぎる魚座に対して、バランスを取ろうとしているのかと思うこともしばしば。
魚座と乙女座の交互の作用は、拡大して、全体を見て、また細部に入り込みというズーム機能みたいになるが、この場合、わたしはどこを定点にすればいいのかなと、決めかねている。
旅行にいくなら、ズームがいいですよ、という人もいれば、いや、森山大道なら、28mm一本ですべてこなすだろう、とか。

乙女座は狭い視点に集中するというのは、もっと広げて解釈すると、何かの価値付けについても、価値の優劣はくっきりはっきりしていて、その輪郭は明確である。もともと、乙女座の土のサインは、真偽ということを問題にする。
なので、文字に書かれていることは読み、その行間は「偽」と判断して、読まない。白黒二価のスキャナーみたいだ。この排他性は極端だ。

そうすると、写真を撮る場合にも、わたしのように、価値の崩れたゴミ、蜘蛛の巣、掃除のできていない空間、などを撮影することに意味を感じないはずだ。感じないというよりも、それを撮影することを拒否するかもしれない。価値体系は明確だからだ。
この乙女座の輪郭を解体し、信念体系の偏りをもっと均等にしようとする魚座は、当然乙女座が排除したノイズ、ゴミなどを拾い込むことも多い。
乙女座が拒否し、もう既に影となって、乙女座が認識さえできなくなったようなものを、魚座がクローズアップすることで、乙女座の土台は16度で足場そのものが覆されてしまう。

わたしの父親は、昔の男らしく、カメラとか写真が好きだったのだが、その父親が撮影する写真は、つねにあまりにもありきたりの、記念写真的なものがほとんどで、それはいまだに変わらず、そもそもそんな写真撮るなら、特別なカメラなんていらないし、いまならスマホの写真だけでいいのではと思います。
どうして一歩踏みこまないんだろうなー、というのが、わたしの中学生の時の感想。ちょっとでも踏み込めば、面白い世界が展開しているのに、と。
で、わたしは、ひねくれていたので、学校の修学旅行でも、みんなで撮影するようなものには目もくれず、まさか、と思うようなものばかりを撮影した。

このように他の人が目を向けない隙間に目をつけてしまうので、つまり乙女座視線がぐらつくようなところに目をつけるので、乙女座的な、表のとりつくろいを重視する人からすると、わたしの写真の撮影のしかたは、動揺させるようなものだった。つまり、人物写真で言えば、一番撮られたくない、本人が管理できていない瞬間を切り取ってしまうからだ。でも、わたしとしては、もっともナチュラルなところを撮影します、というところで撮影しているに過ぎない。
見られたいところと、わたしが思う実体というのはズレがあって、わたしはその相手の「見られたい」という部分は、部分的過ぎて、嘘くさい部分だと思うので、それを重視しない。
たとえば集合写真では、全員が構えた時には写真は撮らない。瞬間を過ぎて、気を抜いた時に、わたしは撮影します。あるいは構える前とか。構えた瞬間は、一番内容のない瞬間であると、わたしはみなしていた。


恒星のコンステレーションと、12サインはもちろん位置が違うし、時代によってずれていきますが、この12サインの乙女座に、いまは、獅子の心臓のレグルスと、獅子の尻尾のデネボラがある。これは乙女座22度くらいか。
レグルスは、表向きの王者というか、世間的な普通の意味での、メインの王座みたいな意味がある。これが乙女座のはじめの領域に入ると、視線の部分化、個人としての輪郭を明確にする、ということに対しての純朴な信仰がよけい強調されるかもしれないですね。
で、メインストリームからはずれた、目のつけどころの違う、アウトサイダーのデネボラは、この乙女座の純朴な単一視点に対しては、過去にすでに十分にやってしまったので、飽きており、視界から外れたものに、新素材を見つけようとする。
22度くらいだと、乙女座の新鮮さは確かに薄れている。乙女座の自我崩壊が起こるのが16度だとすると、それを過ぎた後で、再構築した乙女座なので、魚座という全体性の視点を持つサインの侵入した16度から20度までの影響に対して、十分に抗体を持った状態で、複合的に考えようとしている。

乙女座初期の、視点の単純な集中、白黒二価の判断を茶化す時に、わたしがいつも使う冗談ネタは、インド人の運転手のものです。ずっと昔インドにいった時、タクシーとか車はみなバックミラーが壊してあった。理由を聞くと、後ろが見えると、運転に集中できなくなり事故を起こすから、と言われた。
で、昨年チェンナイに行ったとき、まさか、昔のインドみたいではないはずだと思っていたのに、すべてのリクシャーの運転席の上にあるミラーが、外に向いておらず、後ろに座っている客に向いているのを見て、びっくり。やっぱり外は見てないんだ。実際リクシャー運転手は、運転中ずっとわたしの顔を見ていました。
レグルスは、こういう単細胞的なところで、働く。そしてデネボラは、それを笑いながら見ている。群衆の奥に隠れたデネボラは、王様のバカっぷりを笑う図ですか。

なんにしても、わたしはどのくらいの焦点距離を定点にしようかな、というところを決めかねている。50mmを標準域にして、さまざまな歴史的なレンズの50mmを練習しようかと思ってみたり、やはり超広角の16mmズームがいいとか思ったり。木村伊兵衛ならば、50mmだし、森山大道なら28mmだし。
ヘリオセントリックのホロスコープだと、わたしの水星も金星も乙女座のはじめのほうの、単純白黒二価の場所にあるけど、ヘリオセントリックは地上から見た視覚でなく、太陽の自己分割の視覚意識という点で、はじめから何かをじっと見ているというよりは、視覚の中にないものを、特定の視覚の中に押し込んでいくという姿勢になる。
これはたとえば、カフェの古時計を見ていて、この古時計の映像の中に、複合的な記憶がレイヤーとして重なるような視点の使い方は、比較的慣れています。

だから、水晶スクライイング教えていたのかもしれないけど。
つまり視覚映像の中に、太陽の記憶を盛り込んでいくのだけど、太陽の白い光を、プリズムのように、七色に分解して、惑星にしていくプロセスは、グルジエフの「
特定の色は異なる色にはなれない。みかんはリンゴにはならない。しかし上から降りてきた色は、どんな色にもなれる。だからみかんはリンゴになる。」ということからして、ひとつの視覚の中に、ほかの六つの領域の記憶を、任意に、盛り込むことができるということになる。事物にほかの表象をはりつけることができるということです。
ジオセントリックな意味での乙女座は、水晶を見ている時に、水晶しか見えないし、そこに、後ろの窓が湾曲して映り込んでいるものしか見ない。あ、自分の顔も映ってます、と。

写真を撮る時に、下から目線、つまり地上から這い上がる、ものをものとして見ているジオセントリック乙女座的な写真の撮り方をしようとしても、視覚は思考の反映なので、この切り取る映像を選択している段階で、ヘリオセントリック的な乙女座の作用も働きます。エルダーセルフを七色分解して、このどれかの記憶を、映像に貼付けている。本人は気がつかないかもしれないけど。

わたしは渡辺豊和の、日本の文明は、蘇我氏の北の帝国から始まり、しだいに西南に降りてきたという異説には興味があり、この渡辺豊和のひねくれた視点というのは、どこから来るんだろうなと、思っていた。ヤマトタケルは、西から東へではなく、北から南へ進軍してきたんだ、と。ヤマトタケルは東北からヤマトへと軍をすすめた。鹿島は蝦夷に対する前衛基地ではなく、ヤマトに対する前衛基地だった。

渡辺豊和は1938年8月1日生まれなので、ヘリオセントリックでは、海王星が乙女座の数え21度領域にあり、ここにデネボラは重なっている。海王星はもっぱら世代的な天体なので、渡辺豊和と同じような時期に生まれた人は、みな海王星デネボラ化するけど、そもそもヘリオセントリックは、個人としての個性を重視しないので、同世代はみな同じ考え方の一塊と考えることにはなんの抵抗感もない。ヘリオセントリックは、太陽の自己分割図なので、これに個人の個性重視の視点を入れるのはおかしな話です。
この世代は、海王星が妄想する時、世間的な主流の考え方をとりあえず否定するという方向に行く訳です。常識と思われているものは、まずしょっぱなから斜めに見る姿勢。とはいえ、それをはっきりと表現できるかどうかは、また違う天体の作用も考えないといけない。射手座の水星には、ぴったりアンタレスが重なっている。

乙女座と魚座の関係は、フォーカスを一点に集中させたり、もっと全体に拡大したりと言うズーム機能に関わると思うが、これに対してそれぞれ90度の関係の射手座と双子座はどのような調整機能を持っているのだろうか。
双子座は風の柔軟サインで、これは1つの物を分散させていくという働きになる。しかしながら分散させていくということは、一つ一つの意味は薄まって行き、つまり分割魂的になって行き、それぞれが地に落ちていく。双子座の知性というのは、より即物的で物質的で意味の薄いものということに興味が向かっていく。 双子座的興奮というのは常にそういう性質を帯びている。意味のないものに熱中する楽しさというのがあるんです。

一方で上昇していく火のサインである射手座は、より形而上的なところに向かっていこうとする性質があるので、この分散した意味作用をそれぞれ高めていこうとする特徴を持っている。
このように考えれば乙女座と魚座のズーム機能に対して、その都度入ってきた印象を、双子座は落として行き、射手座は上げていくという加減が働くことになる。双子座は具体的であるが身も蓋もない。そこに何の含みもない。射手座は抽象的であるが、ぶつけてくるようなインパクトがない。もう少しシャープな輪郭がほしい。
前後に動く乙女座魚座と、上下に動く射手座双子座があれば、こんどはあとは左右がほしいね。


















2014年6月20日金曜日

20140620 イベントをする

最近は、ずっと体温は6度台です。
いろいろ工夫した結果、安定してこの体温になったので、工夫は十分に成果が上がったということですね。低い時で36.1。高い時では36.5くらいまで行くことがあります。
肩甲骨が一番熱を発するらしく、肩甲骨周辺の訓練が多いです。
週に二回トレーニングを受けていて、これはわりにキツめだと感じます。一番苦しいのはレッグプレスかな。これに比較すると、走るなんてほんとにライトな運動ですね。

それで、アオヤギさんが、わたしが出演するイベントなんかを企画してくれています。
まず、はじめはオクダサトシさんとの対談で、渋谷のヒカリエでするそうです。
渋谷のヒカリエは、歩いてもいける場所なんで、楽というか、楽すぎます。
対談あるんで、沖縄に来てくれんか、というのとだいぶ違うね。

最近、何を思ったか、6年前発売、いまは製造完了の古いフルサイズのソニーのカメラボディα900を手に入れました。フルサイズのソニーは、α7Rをすでに持っているのですが、コンパクトで良いにもかかわらず、プラスチックの部分が多く、αマウントの重いレンズをつけると、バランスがおかしくなり、それにレンズ装置部がべこべこします。なんとなく不安です。
それに比べると、α900は、どっしり大きく重く、安定感はあります。
ただ、これは本体が850グラムの重さです。

で、そもそもわたしがα900を手に入れたかった理由のひとつでもあるのですが、
ツァイスの16-35mmズーム、F2.8通しをつけると、このレンズもF2.8のフルサイズ版ですから、
重さは、800グラムくらいあり、あわせて、1.5キロを超えてしまいます。
A4のノートパソコンを一台持ち歩いているような重さで、トレーニング道具みたいです。

16-35のズームは、ツァイスでなく、もっと安価なシグマ、トキナーの17-35とか、20-35を持っていますが、こないだ三峰神社で杉の木を、下から見上げるように超広角で撮影したら、
色の生きが悪く、コントラストも眠ったような感じで、いただけないと思いました。
色となると、やはりツァイスのT*コーティングで、こってりした色表現のレンズでないと無理ではないかと思い、このどっしり重い、持つと立ち上がれなくなるくらいのレンズを手に入れたわけだ。
ネットでは、この16-35のズームの、驚くような色表現の作例が無数に掲載されていますが、
わたしが撮影すると、どうしてもそうなりません。ありきたりの普通のものになってしまいます。鮮やかなこってり色はどうやったらできるんでしょうかね。
なんにしても、カメラ撮影にだんだんと深入りして、フルサイズ用の重いレンズまで手に入れるようになってきたので、なんとか目的の色表現を達成したいです。

α900は、普通の一眼レフなので、シャッター切ると、ミラー動作の衝撃が強く、拳銃みたいに、手に反動が来ます。うっかり軽く持っていると、ミラー動作の衝撃で、カメラが動きます。
ただ、光学ファインダーがとても見やすくて、コンパクトなα7Rよりも、持ち歩きの頻度が高くなりそうです。
たいていの場合、カメラは小さく、撮影音も小さいほうがいいという人が多いと思うのですが、
いまでもα900を手に入れるような人たちの中には、反対の意見として、環境の中に自分を強く押し込み、シャッター音も、周囲の人に、シャシンを撮っていることを知らしめるために、大きな音のほうがいいと書いている人がいます。
それはそれでいいとして、わたしはどうでもいいような溝とか、壁のスプレーいたずら書きとか、ゴミ、蜘蛛の巣、空の色などを撮影します。そういう時に、この大きなカメラと巨大レンズで撮影していると、周囲を歩く人が、不思議そうに見ていくというのがあって、目立ちすぎはいいにしても、いったいどうして蜘蛛の巣をあんなでかいカメラで撮ってるのか、と思われたりするのが、居心地悪いです。







2014年6月16日月曜日

20140616 オーラでは、統合的な磁場の構築が重要/マカバは複数レベルがある

昨日は、オーラの講座をしました。
最近講座が多いので、すると、わたしがやってきた占星術以外のテーマのものも掘り起こされており、カラーやったり、オーラやったりというふうになってきます。

で、昨日のオーラの講座では、一番重要なこととは、人間を「恒星の小型」にすることだと言いました。恒星は動かない。自ら輝く。人間は、今の段階では、この輝く星の模型になっていない。この輝く星になる、というのは、惑星を全部そろえて、そのもとの太陽になるということです。太陽系の太陽は、恒星ですから。

今の人間は、太陽の自己分割のあとの、惑星のひとつにたとえられるところで生きている。でも、なかには惑星の自己分割の月のレベルで生きている人もいる。
惑星レベルで生きているというのは、惑星は遊星か惑星、つまり遊んでいるか、惑っているかという存在です。それは静止できない、そして中心の周囲を犬のように走り回っている。

惑星を全部そろえて、太陽化すると、それ自身の自律運動ができて、人間の活動には、破損が生じにくいのです。チャクラで置き換えると、あるいは生命の樹で置き換えると、チャクラを全部そろえて、アナハタのセンターでまとめること、これは、マカバフィールドを作ることと同義語です。マカバフィールドは、小型の恒星のようになることと同じです。チャクラに不足があると、これはできません。というのもチャクラに不足があることは、その足りないものを外部に依存します。その外部に依存している事実は、依存しているものから離れた時に、その生体は維持できなくなるということです。こういう状態では、マカバに乗って旅をすることはできないのです。

人体は、自我、アストラル体、エーテル体、肉体がひとつの軸に同調して、上からのものが下に、下からのものが上に伝達されるというシステムで成り立っている。長い時間をかけて、肉体レベルでの体験が蚕食できるように調整してきた。で、わたしたちは、いまのところ、地球に依存して、この地球の作り出す磁力場みたいなものの中で、はじめて生きていくことができるようなところにいる。
たとえば、ある人が日本からアフリカに移動しても、体験の印象は連続できる。自分が移動したと思うことができる。それは地球の磁場というところの内部を移動しているだけで、地球という場では共通しているからです。日本とアフリカが連続体であると認識できるには、この日本とアフリカを結びつける共通の軸に依拠すればいい。

で、最近宇宙旅行の話題が多く、いずれは火星に移住するという話もある。
こういうふうに、人間が地球から離れてどこかに行くには、飛んでいく装置があれば、それは可能だと思っているところが、困ったことだと感じる。あまりにも無知・無自覚なのでは。科学は根本的なところを考えないで、部分的なところのみ取り上げて考える。なのでいまのところ、大きなことを為すことはできない。科学に取り組む人も、みな、共通して、根本的なところを考えるのでなく、部分的な現象のみを研究しているのだから。

前から書いていることだが、わたしたちは地球に依存して、はじめて生きられるという状態を忘れている。これは母親に依存している子供が、依存する現実に無自覚で、自分はなんでもできる、と言ってるようなものだ。この依存していることに気が付くのは、そこから離れようとした時。さまざまな問題が発生してきて、そのことで、はじめて気が付く。で、わたしたちはまだそのことに気が付いていない。その危険な現場にはまだ近づいていない。

グルジエフの思想で言えば、人間は、太陽と地球の間にできた隙間を埋めるために地球が確保した生物なので、この役割から解放されることを許さない。もし許すとしたら、その役割を肩代わりする別の何かが存在した時だ。人間に与えられた、地表に太陽の光線を持ち込む触媒作用という役割。太陽の創造作用を、地表において、文化、生産、活性化、都市づくりなどによってくまなく覆い尽くすこと。

自我、アストラル体、エーテル体、肉体という連鎖は、肉体というものの中にも、模型的に反映されており、内臓とか細胞とか分子とか、もっと微細なものまで、統一的に同期をとっている。
で、実は、こういう統合場は、新幹線に乗ったり、車に乗ったり、故山手国弘さんに言わすと、自転車に乗っていることでさえ、ずれてゆき、人間に破損をもたらしている。
この山手説は、肉体とエーテル体がずれるということを言ってるのだが、その場合、エーテル体は生命そのものなので、エーテル体がずれて希薄になった細胞は生命力が弱まり、死ぬのが早く、たぶん、癌などは、こういう抵抗力のない、過疎化した部分にできやすいのでは。

でも、わたしたちは日常的に破損を受けているので、そのことを問題視しない。つまり破損しなかったら、どうだったのかを知らないので。
こういう小さなところでなく、惑星移動とかになると、人間そのものが維持できなくなるだろう、とわたしは思います。それは一瞬でなく、しだいに時間をかけて、失っていく。たぶん自分という自覚が継続できない。継続できていない人は、実は、継続できていない現実を自覚しないので、継続できなかったと、その人は言うだけの統一性を持っていないという点では、心配しなくてもいいという人もいるかもしれない。(人間の価値を認めない人だ。)


マカバフィールドがある人は、アトランティスの崩壊の時期にも、記憶を失わなかったということをメルキゼデクが言ってますが、このフィールドは、いくつかのレベルがある。わたしがいう理想のフィールドは、恒星レベルでの軸を意味する。つまり言い換えると、太陽の軸に、部品が全部、チャクラが全部、つまり抱き合わせのふたつの正四面体の8点の整備ができていることを意味する。このフィールドが恒星を軸にしている場合、これはグルジエフ的に言えば水素6の重心に集合している生体という意味だが、恒星の下位レベルの旅では、変動を起こさない。地球から火星へというところでは、目立った損傷はない。ちょうど地球の軸に依存しているときには、日本からアフリカに旅をしても、記憶が飛ばないのと同じ。
地球という惑星レベルに依存しているときには、ほかの惑星に移動すると、その存在は失われる。生体は火星では、まったくべつのもの(火星の持つ素材)で再構成されてしまうが、地球と火星の共通項目は、太陽の下にある兄弟であるということであり、地球という視点から見ると、火星に存在する物質は地球とまったく同じではない。
ので、記憶は維持できない。一度死んで生まれ変わったかのような体験になる。自分が続いていると言う自覚がなくなる。

恒星軸のマカバフィールドがあれば、太陽系中での移動においては、記憶も、体験も、連続し、損なわれるものはない。つまりひとつの音を七つに分解した場合、この下の音のひとつは、違う音にはシフトしない。が、もとのひとつの音に戻れば、そこから下の七つのうちのどの音にも降りることができる。という理屈では、地球から火星への移動は、恒星軸のフィールドの中でならば、危険ではないということだ。
でもこの恒星軸は、太陽系の外に出ることはできない。

わたしたちが、今の人生の前の前世を直接思い出せないのは、わたしたちが地球に依存した生き方をしているからだ。前世は、いわば別惑星体験。それを思い出せないのは、地球と別惑星をつないだ、もとの軸に、自分の生き方の重心を置けないからだ。

わたしが最近よくこのことを意識するのは、やはり、人間個体の視点、地球の視点、太陽の視点という三つの重心について最近毎日考えているからです。
ジオセントリックの占星術は、地上にいる人の視点で宇宙を見ており、この枠組みで世界を考え、この枠組みで育成されてきた感性、知性、身体性は、そこから離れて生きていくことはできない。昔見た、映画の船の上のピアニストは、船が老朽化して廃棄するときに、船と一緒に死ぬことを選んだ。ジオセントリック占星術は、地球の地表面に依存しており、地球の視点まで至らない。
で、わたしがヘリオセントリックのプラネタリウム占星術がいいと思うのは、真ん中に太陽があるからです。
ジオセントリックとか、また今の人間には、「中心の場」が想定されていない。
センターがなく、そこは中空にままに生きているという実感。ヘリオのプラネタリウムは、気分的に、何か安心感があるんです。真ん中に太陽があるというイメージによって。

地球軸のマカバフィールドは、地球を自己分割した、七つの月で構成された結晶だ。これは地球から出ることはできない。
太陽軸のマカバフィールドは、太陽を自己分割した、七つの惑星で構成された結晶。これは太陽系から出ることはできない。
アルクトウルス軸のマカバフィールドは、全太陽を自己分割した、七つの太陽系で構成された結晶。これは恒星から恒星へと移動することができる。ただし、ひとつの全太陽クラスターの内部においてのみ。

で、具体的な話として、宇宙船は、それ自身がマカバのような中心軸を持ち、その重心によって、外部の影響を受けても、分解しない構造を持つ必要がある。今日、磁場というのは、電磁場でしか考えられない。電磁場は、電磁場よりも高速な物質が貫通した時、分解する。電磁場よりも低速な物質の集合は、電磁場がまとめることができるが、今日の科学水準では、惑星間移動の強度を持つ磁場を作り出す技術はないのでは。科学の定義が、全部、地球上で存在する物質でのみ考えられており、どんな遠くの宇宙も、地球と同じ物質要素でできていると思い込んでいる。
猫は人を猫の一種だと思い込んでいる。というふうに、外宇宙を、地球と同じ成分と思い込んでいるのは、現実に外に出ようとした時に、そのことに気が付く機会がやってくるわけですね。

オーラの外側に、横広がりのマカバフィールドができるというのは、七つのチャクラを全部均等に揃えた時に可能となるのですが、これはいくつかの種類があるわけです。肉体的なチャクラ、つまり水道橋のラクーアのオーラソーマの計測器で見るチャクラは、電気的な磁場のもので、これらを七つあわせたマカバ。次はエーテル物質の、七つの月の統合場のマカバ。(これは七匹の犬とみるといい。つまり南総里見八犬伝と似た話。)七つの惑星のマカバ。そして、七つの太陽のマカバ。その人に生きている重心において必要なマカバがあればいい。急いでも、手に入らないものは入らない。
仏教的な意味では、六界を回り終えた人は、六界で構成された解脱の軸のマカバがある。これで終わりではない。ひとつの平面の世界においての究極の、無の領域は、この平面から見たら無であるが、その中に入ってみると、実は無でなかったことを知る。なので、解脱した時に、実は、七つの解脱様相のうちのひとつでしかなかったという現実に気がつくのだ。

で、わたしからすると、面白い話のひとつ。このマカバというか、世界の卵と言ってもいいものは、私の場合、カラーライフシンボルでも、世界の卵のタロットスプレッドでも、最近はなんでも、この発想でしか考えていない。馬鹿のひとつおぼえ、みたいになっています。
つまり、さまざまなサイズのものに、これを投影できると言ってるわけだ。

で、ヘリオセントリックのプラネタリウムでは、上下に七つ。左右に12の感覚領域という形で考えるのであるが、すると、恒星の位置というのは、ずっと変わらない。たとえば、ムラダーラチャクラに該当する場合には、カノープスがある。カノープスは、太陽系という恒星マカバでは、常に、ムラダーラの位置にあるものだということだ。誰にとっても同じ。
地上的な、わりに小さな範囲において、ムラダーラチャクラは、物質的な基盤とか、肉体の単独的な立ち位置という意味だ。が、太陽系サイズのマカバでは、カノープスは、ムラダーラ的な意味を持つ。つまり死者は、死後、この船に乗って、死後の旅をする。日本では三途の川の船だが、それが、恒星軸での、カノープスなのだ。
恒星軸においてのアジナチャクラは、この旅の行き先にも対応する。
つまり地球の歳差の運動の中で、北極星は、トゥバンだったり、ポラリスだったり、ベガだったりするが、カノープスは、そういうところに、死後の人を運んでいく。

昨日、大阪の講座で、ある人をサンプルに話しました。この人は、火星にタイトにデネボラが重なっている。デネボラは、12度N16分で、つまりアナハタの位置に該当する。
昨日、アナハタを、シータ波で見る時間、わたしも見ていたら、みんなが目をつぶって探索している間、みんなをひとりひとり巡回するナマハゲが見えた。次のシーンでは、キリストの絵のついたステンドグラスが見えたが、逆行で、キリストの顔が暗くよく見えなかった。
キリストというのは、アナハタに該当するティファレトが、キリストセンターと言われるように、アナハタを象徴とするもののひとつでもある。逆行で見えないのは、上空からの光が、このキリストの顔を見えなくさせているので、アナハタ機能としては、建築中、工事中ということです。
ナマハゲは、神様が下界に遣わした。このナマハゲは、みんなが目をつぶっている時に、見えないように巡回した。キリストの顔も、同じく光に照らされて、見えない。
これはデネボラ的。このアナハタは、デネボラだということだ。火星とデネボラの結合は、ナマハゲとして視覚化された。

デネボラとアルゴルが結合すると、例のひとつはヒットラーになるとブレイディは言ってる。デネボラは、アウトサイダーで、火星との結合は、メインストリームから外れたところでの旗手。しかし、文化を推進させるのは、孤立したアウトサイダーであるというのは、昔からの事実。メインストリームの集団は、駒を進める力はない。平均化、現状維持という力が働くために、ひとつが出ようとしても、ほかが足を引っ張り、全体としては前に進まないのだ。
前に進める刺激を与えるのは、常に、一握りの孤立したアウトサイダーたちだ。デネボラ、ナマハゲは、神が遣わした、上空からの光で、それはキリストの暗い顔を象る。ナマハゲは、怠惰をもっとも嫌う。みんなを巡回しながら、勉強シナイゴハイネガー、と言ってる。

このように、太陽系の太陽軸マカバでは、恒星の位置は決まっており、それらは決まったチャクラ位置に収まっていて、役割は動かない。デネボラは常にアナハタの特性の一つであり、カノープスは、ムラダーラの機能のうちのひとつ。ポラリスやトゥバンはアジナのひとつ。

地表から見たジオセントリックのひとつ、パランでは、もちろん作用も役割も変わってくる。でも、恒星軸で結晶化した人は、何を見ても、それで投影すると思うんだよね。
グルジェフは、人はみな自分のエニアグラムで生きているので、ほかの考え方を認識しないと言ったが、このエニアグラムというのはマカバと同義語なので、複数のマカバがあるというのは、複数のエニアグラムであるということである。
で、その人はその人の重心でできた水準で世界を見るので、情念的に生きている七つの月のマカバの人間は、ほかのすべての人も同じように情念的に生きていると思っているし、それ以外のことを認識することはないので、すべての人に共通の効果を与えるような宣伝、プロパガンダ、キャンペーン、啓蒙というのはない。みんなどんな情報も、曲げて理解する。

七つの月で生きている、つまり七つの犬で生きている南総里見八犬伝的な世界観は、人形浄瑠璃とかで描かれた世界を参考にすると良い。情念を引き延ばし引きのばし。でも、ヘリオセントリックには、月がないんです。ヘリオセントリックは月のことが理解できていない。ホラリーのように現象を運ぶ月という概念が念頭にない。
ヘリオセントリックを真に理解し、それを生き方に重ねていると、やがて月が見えなくなってくる。























2014年6月14日土曜日

20140614 前の雑記の続き。幽閉占星術と、源流的な占星術

20140614 付け加え

ホラリーと出生図の読み方の違いについて、いくつか書きましたが、一番肝心なことを書き忘れた。それは12ハウスに対する扱いだ。
ホラリーでは、12ハウスは隠れた、比較的否定的な意味のハウスでマイナス点になる。が、出生図では、これはおそらく全ハウスの中でもっとも広がりがある、影響力の強いハウスになる。リリーの時代などは、中世の暗黒の時代で、ここでは12ハウスは幽閉された牢獄みたいな感じの意味しかないが、今日では、インターネットとかメディアがあり、物質面だけでなく、精神面も両方考慮に入れる。すると12ハウスのように、現象としてはおとなしく、しかし影響力は果てしなく広がるという分離が、比較的理解しやすい。身体はどこにあるかわからない、隠れている。しかしメッセージはむしろもっと大きく拡大するというものだ。
それにそもそも12ハウスは、最後のハウスなので、あらゆるハウス体験が統合化され、まとめられていく場所であって、部分的ではない。
おそらく、ホラリーという物質面だけに着目した体系では、見えるものという部分的な要素がすべてになるので、12ハウスのように、見えるもの、見えないもの、すべてを統合化したものは、むしろ反対に見える。

物質面だけを重視した体系では、頂点は10ハウスにある。ものとして固まったもの。でも、占星術は、12のサイン、という12の数理の体系なので、この考え方そのものがおかしいでしょと考えてもいいだろう。
で、ホラリーは徹底して物質主義的で、現象のみに徹した考え方です、ということを意識した上で扱うならば、とてもすっきりした限定バージョンとしてそれはそれで潔癖だ。
しかし、中には、そうもいかない人もいて、やってるうちに、自らも狭い牢獄の中に自分を閉じ込めてしまっている人はいます。そしてそれを人に押し付けている場合が。人生観として。せめて、天王星、海王星、冥王星を入れてもらうと、まだ少しはましなのだが。

これは、人間の一生はだいたい天王星の公転周期に近いということがある。人の一生を、人は意識化できない。というのも、この台座の上に立っているからで、そうなると、対象化できるものとは、それよりも小さな範囲のものだ。天王星よりもひとつ小さな範囲のものとは、土星であり、なので、ホラリーでは、土星を最大の周期にした、人が対象化し認識しやすいものをターゲットにする。
天王星を意識できるのは、人が人の形から離れる瞬間だ。人は生きている間、その全体像を認識することなんて、決してできない。

で、ホラリーが土星内領域の体系とした場合、それは目的がはっきりしているので、それ自身は何も問題はないのだが、それよりも大きな世界との橋渡しができないとなると、それは困る。セドウィックは、ジオセントリック占星術は中世の暗黒の時代に人を閉じ込めると言ったが、ジオだけでなく、使う惑星を土星までにすることで、ますますそれはひどくなる。
キロンは、その外の領域にまでつなぎをしようとして、その結果、おおきな被害を受けた。

わたしが折口信夫の二点間信号の夢を見たことについて、趣旨がどこにあるのか、考え込んでいた。一体全体、なんの目的でこんな夢を見せてきたのか。
霊界とこの世界との橋渡しができる、ということが重要なのではないかと思った。
ホラリー的な体系にはまったり、土星以内の惑星の世界にはまっていくと、この橋渡しはできなくなるので、生きている間はいいとして、死んだら、その後はどこにもつながらない、暗闇の中に閉じ込められる結果になりかねない。その場合、仏教のように、49日後、すぐさま、同じ鋳型の、つまり土星以内世界に生まれ変わるということならば、それは死後も何かあることになるが、こんどはこれはまたこれで永遠に輪廻の中に閉じ込められる。
人の形の意識のスパンをこえたもの、すなわち海王星に橋渡しができることが大事なのだ。
海王星は、太陽系内部体験をぐるぐると巡る。冥王星は太陽系の外とつなぐ。
古典的なホラリーの枠に固めた世界観と土星内世界は、人間は死んだら、その後は何もない、と決めつけているようなものなので、折口信夫の夢のように、行き来できるような、霊界と現世を、二上山的に接続するものをしてほしいと、わたしは要求されているのだろう。どちらかを選ぶのでなく、両方行き来できるような。
10ハウスは頂点で、12ハウスは転落です、というのでなく、12ハウスは次の領域への射出台です、というふうに軌道修正しなくてはならないのだろう。

セドウィックが、ジオセントリックは中世の暗黒の世界である、というのは、個人の肉体から見たパースペクティヴに、人が閉じ込められ、そこから一歩も出られなくなることを示したので、その視点から解放するために、必然的に、太陽から見た視座としてのヘリオセントリックを併用することで、この暗黒から解放されるきっかけが作られるのだが、去年、わたしはある連合から、とりあえず、フォーカス35のセンターみたいな業務をしてほしいと言われた。ヘミシンクの中でね。ヘミシンク体験の中では、わたしは公認フォーカス35基地局なんです(笑)。ただ地球上の基地局のひとつなので、超ド田舎局です。限界集落です。
この太陽系の太陽や、近隣のシリウスなどが、フォーカス35に該当するので、その意味では、わたしがヘリオセントリックするのは随分と関係がある。

で、ヘリオセントリックは、チャクラでいえば、サハスララから見たもので、ジオセントリックは、ムラダーラから見たものというコントラストがありますが、古典的なホラリー体系や土星内世界というのは、物質的な明確な輪郭が存在し、また事物と象徴の関係も固定的で、椅子は椅子以外ではあり得ない、という堅固な定義に依存して成り立つので、これは人間の脳波活動でいえば、警戒心とか、個体意識をくっきりさせるβ波の領域に近い。ヘリオセントリックの視点は、このβ波領域にはないのではないかと思う。
わたしが自分の例であげたように、わたしはアレキサンドリアの図書館員です、というのは、β波の、肉体感覚に依拠する感覚領域には存在しないデータで、ドリームランドでないと出てこない話だ。

ヘリオセントリックの情報は、その人がα波とθ波の精神に入らないことには見えてこないものだと思われる。正確に言えば、フォーカス35の重心で見た世界、すなわち太陽の自己分割の領域でみないことには、わからない。分割された後の断片から見た世界は、自己分割する前の視点を自力では取り戻すことはできない。シは自らドに上がることはできない。
折口信夫の夢は、こうした異なる次元のものを「行き来できる」橋渡しが、折口信夫の場合には、うまくできてるよ、そしてわたしもそれを展開するべきだというものでしょう。それでまだ、わたしはデュアルブートがスムーズにいってない。むしろ、二点を混ぜずに、コントラストをつけたままのほうがいいかもしれない。西欧とか、日本では、この二点連絡は上手でなく、華僑を参考にしてくれ、というものだ。儒教という意味ではなく、華僑です。夢の中では、またもやアジアのある領域の地図が見えていた。折口ポイントです。いや降り口ポイントなんでしょうか。(昇降点?)

いまこれは新幹線の中で書いている。いまから大阪の講座だ。
土星に関する本を書いている。秋くらいには出るらしい。
ここでは土星は限定的であるが、ここに均衡感覚と、客観的な理解を獲得する鍵も存在する、というような内容を書いている。

アルゴル(東洋式には、金毛九尾の狐)は、ホラリーでは最凶の恒星だが、ブレイディはそれに反対していて、実際には出生図で使う時には、最凶にならず、女性的な欲望を意味する、クンダリニである、という意味になる。リリスもそこに関係づけている。アルゴルに一番関係した人物例はアインシュタインだ。彼は結果的に最強の破壊兵器を作った。でも、これは特殊例だ。

以前の雑記にも書いたけど、二十歳前後に幽体離脱して、土星の内部で、アルクトゥルスからきた老人に会った。で、わたしの三次元プラネタリウムのチャートでは、わたしの土星には、スピカとアルクトゥルスがぴったりと張り付いているのですが、これも三十代に、幽体離脱して、アルクトゥルスに行った時に、淡いが極彩色の、口ではうまく表現できないカラーの、惑星というよりも、川のような連続した形の宇宙に入った。
で、わたしはそれをアルクトゥルスと思っていたのだが、いま、これはスピカと混じったものを、アルクトゥルスと混同していたのかもしれないと思った。
自分の幽体離脱体験とか、ヴィジョンとか、ヘミシンク体験は、パランよりも、このヘリオセントリックのプラネタリウムのチャートのほうが、よりうまく説明しているように見える。パランだとある程度理論的に説明しないといけないが、三次元プラネタリウムだと、実体験的に説明できるので、単純で、神経が緊張しない。
わたしのこれからは、スピカとアルクトゥルスにどんどん深入りするらしい。夢の中で、折口信夫が二点から信号を出している光景は、コーンがふたつあるような図像だったけど、スピカとアルクトゥルスにしてもいいですね。その場合、アルクトゥルスは、アンタレスと共同で働くことも多いという説にしたがって、アンタレスの地図に沿って、アルクトゥルスは霊界との橋渡しをする。天のヤチマタで。それを受容的に受けいれることのできるのは、地上との接点が豊富なスピカに、と。たぶんスピカは、ちょっとビーガン的でもあるのだが。麦畑だと、アレルギーが気になるので、花畑にすればいいんです。
















2014年6月12日木曜日

20140612 講座が異様に増えました/ヘリオセントリック/折口信夫の霊魂

毎週のように、大阪とか東京とかで、講座をするようになっています。
で、わたしも予定が、日にちだけははっきりわかっても、内容についてはまだ整理ついていない。
というのも、次々に増加するために、たこ足配線みたいなイメージになっているからです。
とりあえず、九州の飛行機は、決まりきった定番的な時間を決めておけば、スムーズ。大阪の新幹線は、だいたいいつも同じ時間のものを使っています。このあたりで時間調整が必要になってくると、わたしは混乱します。まるで勤め人のように決めておかないと。

そういえば、台湾の紫微斗数占いでは、移動がやたらに多い人と言ってた。昔懐かしい四柱推命だと、駅馬がふたつあって、移動が多いと言われたことがある。でも、自分の意識としては、そう動かない印象だったのですが。
進行の月が3ハウス、9ハウスの時には、やたらに動いていた。いまはトランシットの土星が9ハウスに来たからかもしれないです。というよりは、進行の月と太陽の新月が3ハウスだからか。
一日一年の進行というものを使う平凡な三重円では、たいてい月から火星までしか進行は使わないというけど、わたしのように度数の意味、サビアンなどを使う人からすると、木星などもよく動いてくれるので、使いますよ。
で、そうすると、火星も双子座08.23度。木星も双子座1.81度にあり、これに太陽とか月がおうし座のサインのままで3ハウスに入るので、進行の天体は3ハウスで四つになる。

土地の移動というイメージは、むしろおうし座の3ハウスという印象です。風、柔軟サインの双子座よりも、土地が変わったり、風景が変わったり、食べ物が変わったりすると言うような。固定的なものの上を3ハウス的にスケートのように移動するという感じです。
それに、アボリジニの、土地の奥から、呼び起こすというソングラインの意義は、むしろおうし座だ。双子座になると、土地からは何もピックアップしなくなりますからね。
たとえば、わたしはいろんな土地の写真を撮影しようと思っている。これは牡牛座的の3ハウス的です。アロー通りとかダイマルの前の屋台探索とかは、やはりそうでしょう。

で、進行新月後もどうせ3ハウスだらけの人生なんだと思うので、もう少し情報処理を効率的に、素早くやっていくということを考えないといけないと思いました。神経が混乱しないで、疲労しないで、どのくらい高速に処理できるか、ということだ。3ハウスは基本は、風・柔軟の場所なのだから、情報がこまかく分散します。小学校の授業項目みたいに、いろんな分野に分散し、それらひとつひとつを高めるという射手座の火の、上昇の要素はない。ただ分散するのみ。射手座的になると、ひとつのものを高度化できるけど、3ハウスの小学校的なところで、それをしてはいけない。

で、わたしが三次元ホロスコープをする、ということで、その授業に参加したい人たちが、たくさん、ソーラーファイアを購入予定らしいです。たくさんといっても、何人なんだ?
ソーラーファイアは、思い切り高額です。

プラネタリウムを視覚的に見るのは楽しいので、三次元ではないけど、天球をくるくる回していくというのをするのに、ソーラーファイアは使いやすい。
で、太陽を中心に見るということから、天体位置計算も、ジオセントリックなはずはない。
で、ヘリオ計算で、なお太陽中心の座標のプラネタリウムだと、パランの時には想像もつかなかったような恒星が惑星に重なったりしますよ。
正直な話、個人的には、この時の恒星と惑星の重なりのほうが、わたしには実体験的にリアルです。パランよりも。そして、惑星の年齢域のほうも、かなりフィットします。年齢域を使ってください。オーヴはパランの場合には、かなりシビアにしていましたが、この三次元では、まるで出生図のようにルーズです。

ホラリー占星術なんかだと、12サインの壁は鉄壁で、サインを過ぎたりするとがらっと状況変わったり、またサインをまたがるアスペクトは使わなかったりしますが、これはホラリーだけの話であり、出生図では通用しないのと、ハーモニック理論なんかから考えても、12サインは鉄壁でもなく、8サインとか、10サインとかもあってもいいのですね。
で、2010年だったか、記憶がはっきりしないけど、レグルスが珍しくしし座の最後の場所から、おとめ座に移動しました、というのがありましたが、これも、12サインは鉄壁ではないということからすると、あまり重要な意義ではないかもしれないけど、わたしの水星に、トランシット的にレグルスが接近してきたという実感はあります。同じサインに入らないと合とは言わない、というホラリー的な観点からすると、合になった。
で、レグルスはロイヤルスターというけど、わたしはレグルスはいじましい、背の低い、妬み深い恒星だと思っているので、輝かしさなんかはないし、あまりレグルスは好きではないんてすが、でも商売には向いてるんですよ。アルデバランとかレグルス避けたいという心理はどこから来るのかわからないのだけど。これからは水星を使った商売かな。

で、ソーラーファイアをインストールするとなると、比較的面倒な話がいろいろあります。
わたしが持っているソーラーファイアのV7ゴールドは、windows8.1にはインストールできません。これは、windows7の英語モードまでなのではないかと。
で、昨日、わたしはけっこう時間をかけて、windows8.1のノートパソコンに、windows7のデュアルブート環境を作ろうと試みていましたが、いまのところ失敗です。

というのも最新のWINDOWS8.1UPDATEのマシンだったからです。つい先月発売されたマシンだからです。(常に生鮮食品みたいに、わたしはパソコンに関しては、最新にしてしまう傾向が。)
これは旧BIOSではなく、新基準のEFIシステムというようなものが組み込まれていて、windows7とかのOSを入れようとすると、拒否されるんです。(認証されていないという理由で。つまりセキュリティが厳重になっている。)EFIは起動とかが爆速になるそうですが。今後はこれがパソコンの基準らしいです。

しようがなしに、おかしなやり方ですが、ThinVNCというリモート接続の無料サービスを使って、デスクトップのwindows7の画面を、外からのノートパソコンで共有するという方式にしました。これで、とりあえず、最新windows8.1updateのノートパソコンでも、ソーラーファイアが走ることになった。

もちろん、マックの場合には、pallarel desktopに、windows7を乗せているので、ここではそのままソーラーファイアはスムーズに走ります。九州の講座では、この画面を参加者に見せました。
同時にwindowsXPも使っていて、これはSG専用です。英語版にいちいち切り替えるのが面倒なので、だから、XPはSG専用に。windows7は、ソーラーファイア専用にしています。こないだまでは、これにさらにwindows8を、音声入力専用に入れていたので、pallarel desktopには、三つのウィンドウズがぶら下がっていたのでした。

わたしはソーラーファイアに慣れていません。それに、そもそもヘリオセントリック計算すると、ソーラーファイアとSGでは、1度くらい誤差が出る場合もあります。サビアンなんかでは、はっきり意味が違います。
でも実用的な問題からして、SGから、ソーラーファイアに使用頻度が増える可能性はあります。

ホラリーの話を出したので、ついでにの話ですが、地上において、人類は偶然性の介入をどんどん積極的に推し進めた。これは宇宙的なリズムに従わないように、という目的で。人の自主性を重んじる結果、神々や天空の影響から自らを切り離そうとした。
さらに、法則的に地上と宇宙の間には断絶がある。
そういう意味では、ホラリーのように、具体的な事象を天体の配置から占おうとする目的の占星術には、解決不能な障害が存在するようになった。どんなに頑張っても、ホラリーの占星術の精度をあげることはできない理由を作り出す。物質的なことをターゲットにすると、必ずそうなるのです。

出生図の読み方とホラリーの読み方はかなり違う。たとえば、アスペクトは、12サインの壁に従う。なので、たとえば、おうし座の終わりの天体と、水瓶座のはじめの天体が120度になったとしても、それはアスペクトを作らないと考える。
出生図の場合には、こういうサインをまたいだアスペクトは、むしろその人の強い特徴になる。モーエンのリトリーバルの例で説明したけど、水瓶座の月と、おうし座の金星は、120度であるが、これが精密な120度への吸引力として働き、おうし座という土・固定サインに残されたものを、双子座へ導く牽引力として働く。
コメディアンのショウジ氏の、お笑い言動として、例のミキティーと叫ぶのをネタとして本に紹介したけど、さそり座の終わりにある感情を、獅子座のはじめの叫びとして出すのも、ミスマッチ的で、それはお笑い的なものになる。蠍座のものを、獅子座的に吐き出すというのは、もらしてはいけないものを漏らしているというギャップ感が面白いというわけ。親密でしつこく内輪のことを、大っぴらに放送してしまうわけ。これがいて座のはじめとしし座のはじめだと、普通すぎて、お笑いに使えない。ただの戦闘的なものでしかない。

ハウスで5度まえから次のハウスに、ということを考えるけど、サインの場合も、最後の5度は、もうすでに次のサインとのギャップというかショックを緩和するための準備をする。蟹座の最後の5度では、すこしずつ獅子座を混入させる。これがかに座の平和な環境に、不穏なものを持ち込むことになり、そっと出ていくのではなく、かに座を壊すという形で働くこともある。ブッシュ大統領のように、テロを誘発する、という引き寄せ力を発揮することになる。

ホラリーのように、モノ対モノという平面次元で扱う体系では、90度は排斥しあう関係で、回答はノーになるが、出生図の場合、90度は、裏側の意識の協力関係で、それは出生図の中では、もっとも可能性に満ちたものになる。わたしはこれをフルトランスと言ったけど、両方を同居させて、平面的に並べると対立するが、反対位相だと、協力的であり、なおかつ、それはコントロールが難しい面もある。太陽と冥王星のスクエアは、冥王星の過剰なパワーが、太陽に大量に流れ込む。もしこれが管理しやすい120度とか180度だと、力は弱まってしまう。洪水のように強力に流れ込む現象は起きない。わたしは太陽と冥王星が90度の人の「行き過ぎた成功例」を何人も引用したけど、これは扱いが難しいけど、うまくいくと強力無比です。

惑星の品位とかは、出生図では現実性を持たない。ハウスの中にある惑星よりも、ルーラーを重視するというホラリー的な発想は出生図では使えない。そもそもルーラーとサインの関係は、あまり信頼性がない。サインと惑星を結び付けすぎると、行き過ぎになる。

たぶん、ホラリーの細かいルールは、物質とか、すでに定義された事物-象意に対する固定的な信仰とか信念などのようなものが前提にないと、綱渡り過ぎる手法になってしまう。昔からずっと人間はこんな物質的な存在で、世界もコンクリートのように固まっていたという信念です。事物に対する言葉の定義は決して流動はしない、という信仰は、いろんな勘違いを作り出すのだが。
シュタイナーとかは、世界のもとにある源流的で流動的な要素を持ち込んで考えるので、シュタイナー的な世界では、ホラリーは成立しえなくなりますね。
事物の定義を固定的に扱いしすぎると、それを扱う人の頭も、しだいにそれに拘束されていくので、この硬直化に本人さえ気が付かなくなるので、ホラリーのルールは、特殊でマイナーなゲーム手法、いってみれば、シェーンベルクのセリー理論みたいなものなんだと考えるといいのではないかと思う。限定ゲームルールです。

で、ヘリオセントリックとか黄経・黄緯ばかり使う、いまのわたしのやりかたは、さらに、地上的な法則から分離する傾向があります。なので、そもそも「あてもの」にはまったく適していないどころか、月の存在さえ目に入らないものなのです。

ジオセントリックは、感覚の目で見た、ここに存在する肉体ということを中心にして、宇宙を利己主義的に見ることです。西欧人はそういう視点で見る。が、アボリジニーなどの視点はそれとは違っていた。
このヘリオセントリックの三次元的なホロスコープは、どんな視点かというと、そのひとつの例をあげてみよう。
わたしは前から、自分の前世的イメージとして、アレキサンドリアの図書館に深く関わっていたという印象があります。別にアレキサンドリアでなくてもよくて、ほかにもいくつかあったので、そういうところでもいい。
この時代の図書館の本に対する扱い方は、いまとは違うやりかた。つまり脳の使い方が、ボトムアップになっておらず、種の記憶を引き出すための索引機能として使われる。つまりはアボリジニーのオーストラリア抽象派の絵みたいなもの。
わたしがナグ・ハマディ文書にこだわるのは、そういう関係。
アリストテレスは、今日的な知性の使い方に引きずり落とすために邁進した。アレキサンドリアの図書館が焼けて、それでもアリストテレスのものはたくさん残っていたというのも、なかなか象徴的です。

で、紀元前2800年くらいは、竜座のトゥバンは、北極星だった。これは黄緯は66°N21’なので、地球と太陽の関係で決まる天球の頂点から、チャクラ的に分類すると、アジナチャクラに該当する。
北極星だった時代には、地球にとって、サハスララみたいなもので、価値の基準がトゥバンにあるが、これは太陽というもうひとつ大枠のところからすると、サハスララの自己分割、つまり生命の樹的に言えば、ケテルからビナーという家に入ったところを意味しており、トゥバンが北極星の時代には、トゥバンという家の中に、人類は入っていたわけです。地球から見ると、サハスララ。頂点。王の位置。そして、太陽からすると、たくさんの可能性のうちのひとつにすぎず、アジナチャクラ。
太陽からすると、地球の歳差は存在せず、地球からすると、地球の自転や歳差は、太陽に依存しつつ、地球内部に独自文化を創り出すための反抗衝動でもあるのです。(反抗しているつもりでも、自立できない。)
いずれにしても、その時代の考え方を、トゥバンはいまだに保持している。というか、地球の北極星がトゥバンになると、また同じトゥバン的、竜的な発想法になる

わたしの水星は乙女座のはじめのほうで、金星と正確な合なんですが、これはアジナチャクラあるいはビナーの位置の66N21のトゥバンの記憶を、水星で受け止めようとしている。それはアジナチャクラでしか働かないのだが、いわば生体の内燃機関みたいな惑星が、それを生体の感覚器官と結びつけようとする。トゥバンは誰の中にも貫通している。どんな恒星の力も、すべての人を貫通しているが、それを、特定の個人が、貫通したままにさせず、自分のところに引き止め、じっと維持しようとするには、心臓、血液、感覚へと引き止める「惑星の接触」があるということです。
トゥバンが通り過ぎるのを、わたしの水星がちょっと待てーと言って、つかんでいるわけです。

面白いのはブレイディは、水星とトゥバンのパランは、図書館員と言ってる。それはそうでしょ。トゥバンは財宝を守る竜で、それは熊女ミザリーみたいなもので、しかしアジナチャクラあるいはその陰の要素であるビナー作用なので、物質的な守りにはなりにくい。
失われたアレキサンドリアの、物質的には消えたが、アカシックには記録の残るデータ類の、図書館員みたいな形で、わたしの水星・トゥバンは働いていることになります。

で、ジオセントリックならば、図書館員は、実際の本を集める。あるいは検索する。ジオセントリックは地を這う占星術だからです。具体的な本、どこかにあるものを集める。
が、ヘリオセントリックはエルダーセルフの自己分割図だし、地上と宇宙の間には、断絶があるのだから、この断絶を埋めないまま、ヘリオセントリック三次元占星術で見る視点からすると、わたしが守ろうとしている図書館の書物は、この世のどこにも存在しないのです。
そのごくわずかな痕跡が、ヘルメス文書などに関係することになります。
それで、以前ヘミシンクなどを見ていた時、頻繁に出てくる釣鐘の内部の文字列。これはそれらを読むためのアルファベットのようなものでもある。

ジオセントリックではわたしの水星は春分点に限りなく近いので、春分点から、外宇宙の記憶を持ち込む。地上のどこにも根拠のない知識を持ち込む。地上から見ると、このように映るのです。そして太陽の自己分割というヘリオセントリックからすると、アレキサンドリアの資料を、天空からかき集めてきて、今日の言語にコンバートしているような感じだ。こんなところに、数年前から、レグルスがにじり寄ってきたというわけですね。

ヘリオセントリック三次元ホロスコープは、こんな感じです。財布がなくなったけど、どこにありますか、という質問には決して答えられないのはわかるでしょう。財布ってなんですか。今の文明には、そんなものがあるのか。というよりも、貨幣があるというのは不思議だ。(エジプト時代には、貨幣制度がなかった。)こういうのがヘリオセントリック三次元的、太陽の自己分割占星術です。
目を開いて感覚でものを見ることでなく、むしろヘミシンクで見た世界のようなものに近いね。肉眼で見たものでなく、松果腺で見た光景です。

あるスピリチュアルリーダーは、そのアレキサンドリア時代のわたしの名前まで言ってましたが、具体的になると、趣旨がはずれます。これは地上的な習慣を、そのままヘリオ的な元型光景に押し付けることになるので、具体的になりすぎるのは、誤認を招きます。コーヒー豆袋に、象は入れられないのです。
表象は事物に張り付く。ジオセントリックでは、しばしばこの事象が中心で、表象がないがしろになる場合もある。ヘリオセントリックは、あくまで表象が中心であり、事物は、それが止まる止まり木でしかないということをはっきり認識しておく必要があります。
ヤマトヒメは、アマテラスを背負って数十年放浪した。ジオセントリックは、ヤマトヒメの人となりを描写し、ヘリオセントリックはアマテラスに注目する。それが何か人影みたいなものを引き寄せてるね、という程度にしかヤマトヒメのことを認識できないのです。

個人の感覚を活用している視点は、以前書いた三つの視点、個体、地球、太陽のうちの個体に属する視点。この感覚を遮断して、地球レベルに移行するには、たとえば、シューマン波のように、地球を一回転して、一か所で、大地に接触して跳ね返される8ヘルツ前後のアルファ波の脳波に入った時の視点も、参考にできるかもしれない。一回転、地球一周だからです。

関係ないけど、今日夢を見ました。折口信夫は、生前から、死後の世界のイメージと地続きに生きており、これが彼の太陽と海王星のスクエアとして、二点の信号を発信しており、この二点の信号を発信し続けることで、このプロトコルと同族の人々の間にネットワークが張られていて、今は折口信夫は華僑の中に横たわって生きているというものです。
なぜ二点なんだ?と、さっきまで考えていました。夢では二点を強調していた。
どうも、海王星は霊界の、太陽は現世の、と考えると納得がいきます。
つまり、折口信夫は、生前から霊界に接触していた。太陽から海王星へ、と考えてみます。すると、こんどは反対に、死後霊界から現世に接触もする。この霊界と現世の同調が、太陽と海王星という二点の信号に象徴されているのです。夢では、太陽と海王星の距離感、これが注目してほしいことかもしれない。太陽と海王星がかかわっているというよりも、太陽と海王星のかかわり方、距離感、このプロトコルがあり、共通のプロトコルの上では、種の共存があるのです。直接折口信夫に近いところに、もうひとりキーパースンがいて、それがつながりをよくしている。

windows7と、windows8.1のデュアルブートはいまのところ、成功していない。
ヘリオセントリックとジオセントリックも、いまのところデュアルブートの整合性がやや不足。
夢の中で、折口の二点のデュアルブートはうまく行っているようだった。

でも、この折口の二点というのは、もっと違うイメージも結びついていることにさらに気が付きました。カシオペアは、天の二上山である、という日本の考え方です。折口信夫は、死者の書で、大津皇子が、二上山の日没に出現するということを描いています。死者の世界は、二上山を通じて、地上と接触している。二上山の二点は、タカミムスヒ、カミムスヒの二点を意味します。
このカシオペアに関係するシェダルは、背後から支配力を発揮するという意味で、霊界から地上に支配力を及ぼすという意味でもある。それが華僑に関係しているという話と、何か結びついたのかもしれない。
奈良の二上山は、雄岳と雌竹があり、ここはサヌカイトの産地。で、夢の中で、何か二点から信号が発信されているという時に、わたしは昔から、サヌカイトの音が好きなので、サヌカイトを叩いた時のキンキンという音が、夢の中で信号というふうになったのかもしれない。

wikiの二上山の写真




やっぱり、これでは不足なので、もう少し説明しておこう。
仏教は、本来、死後の霊魂というものを否定する。
仏教では、人が死ぬと、解脱するか、あるいは49日経過すると、6界、つまり天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界のどれかに再生する。
なので、死後、じっと霊魂のままとどまる存在はない。
なので、仏教というのは、先祖供養という考えかたを認めない。基本的には。先祖なんかはいないのだ。

折口信夫は日本の古代思想を重視していたので、この仏教の考え方をとらなかった。霊魂は死後も存続する。それは次の6界に入らないまま、とどまることもある。事実、処刑された大津皇子は、ずっと霊魂のままとどまっていた。
この霊魂が継続するという考え方は、儒教の魂魄説に近い。華僑社会は儒教が重視されていて、東南アジアのタイ、台湾、シンガポールとか、そういうところに、折口の霊魂が、横たわっているというのは、比較的納得しやすい話です。とはいえ、華僑の正確な定義としては、中国、台湾、香港、マカオに住んでいないにもかかわらず、中国国籍を持つ漢民族ということらしい。

追放されたインラック首相は、家族を要職につけたりという不正を働いたということになるが、インラックは華僑で、華僑は同郷の人、家族などの輪を重視するので、インラックは当たり前のことをしただけ。台湾で、ホテルに泊まった時、空港までのタクシー代を先払いで払えと言われたので、払ったら、次の日の朝に来たタクシーは、プロの人でなくて、ホテルの家族の人がマイカーでやってきた。なので、タクシー代金のレシートとかは発行してもらえなかった。こういうふうに家族ぐるみで商売するのは、華僑の特徴だ。
折口式は、2点を融合する。仏教は2点をくっつけない。そういうことでもある。2点は、ここでは、魂魄の魂と魄でもある。


2014年6月3日火曜日

20140603 三次元ホロスコープ、表層的な質問について

先週末の二日間にわたる九州講座で、
二日目に、少しだけ、三次元ホロスコープのさわりを説明しました。
まず、わたしがMac book Airで、スターゲイザーを使っていたのに驚いていた人がいましたが、
Macには、parallel desktopか、あるはfusionを使い、その上にWindowsのOSをのせたら、
そのままウィンドウズのアプリは走ります。

で、三次元ホロスコープは、

●ヘリオセントリックの天体計算
●プラネタリウムで、黄経、黄緯度位置に、恒星を表示

という条件が必要なので、
スターゲイザーでは、表示することができず、ソーラーファイアを使うことになります。
ソーラーファイアーはVersionによっては、WindowsXPの英語表記でしかインストールできないものもあり、OSのバージョンと、ソーラーファイアのバージョンをうまくマッチングさせないといけない。
わたしがいま使っているソーラーファイアは、Windows8ではインストールできない。

九州のさわり講座で、参加者のEさんの図を出したときには、例題として使いやすかったのは、水星に、ポルックスと、プロキオンが乗っかっていて、プロキオンは、比較的黄緯の高い位置にある。そもそもそれは喉にかかわるような場所です。余分なことをたくさん子犬のように吠えるという作用と、水星の連動などはわかりやすい例でした。
それに水星とポルックスなんて定番ではないか。

この三次元的なホロスコープを考える時に、座標は三つあり、人体すなわち感覚を通じてみる世界。これは、いままでのホロスコープのようなもの。次に
地球を中心に見る。太陽を中心に見る。という三つだが、
たとえば、アボリジニーが、オーストラリアのすみずみまで、ソングラインをたどって旅をするというのは、地球を中心にして、その表面を、ドットとしての人が歩くという視点で考えるべきもので、
個に重心を置かない。個は同じ「歌の種族」の個と連動して集団意識となり、それらは苔のように、地表を覆うというようなイメージなのだ。

オーストラリアに西欧人が入ってきて、アボリジニの土地を奪い、自然破壊していくという行為は、西欧人の視点が、「個」を中心にしたもので、この個のアイデンティティを形成するには、それよりも上位にあるコスモスへの接点を閉じて、それに関する知覚を失うことで専念できるので、そういう人々からすると、アボリジニが、岩におかしな名前をつけていたり、道に歌があるというのは、とうてい理解できないのは事実だが、太陽中心のプラネタリウムは、さらにもうひとつ次元が上がる視点になる。

パワースポットという考え方は、かなりの矛盾を抱え込んでいる。
個人としての人生を豊かにしたい。幸運をもたらすパワースポットを探したい。
しかし個人としての視座の延長線上には、地球固有の位置から来るパワースポットはそもそも見えてこないし、その力が干渉してくるとすると、個人としてのアイデンティティに、「信念体系崩壊」をもたらす。なので、いまのところ、話題にされているパワースポットというのは、そういう本格的なものでなくて、人と人の間で作られた、なんちゃってパワースポットだけを扱っているものなのだ。個人の視点の信念が揺らぐ場所、すなわち事故多発地帯。それこそ地球と触れる場所ということだ。

こういうことに関連していると思うが、興味深い質問がある。「水晶透視での映像は、エーテル体という深みのある領域から立ち上ったヴィジョンということですが、具体的に質問をして、それに対する回答は、水晶透視によって、得られますか。」というものだ。

エーテル体は、植物に似て、アストラル体は動物に似て、物質体は鉱物領域に似ている。植物は伸びてゆき、種どうしで地下でつながり、個体としての鉱物的な輪郭から、外に拡大していく。そして植物は「関連付け、」「個体の孤立を打ち破る。」性質がある。
エーテル体は個を超えたものの懸け橋になる。
こういうところの性質を媒介にして、水晶の水素96という高自我に、ヴィジョンを持ち込むので、
エーテル体に届かない、エーテル体に聞こえない質問ならば、回答することができないということになる。

このエーテル体に届かない質問とは何かというと、純粋に地上的、感覚的、物質的、そもそもそれを成り立たせる個としてのアイデンティティの世界観の上でのみ成り立つ価値のもの。たとえば、利潤追求というのは、個のエゴを中心にして成り立つ世界で構築された価値観だ。経済というのは、エーテル体には理解できていない。

なので、たとえば、このビジネスで成功しますか。など、ビジネス的な質問は、テンポラリーにして、表層的・感覚的質問で、深みにあるエーテル体にはその価値がピンとこない。わたしたちは表層的物質的な領域と、その背後のエーテル体という「個をこえた世界に懸け橋となる身体」に二極化された中で生きている。
この両方に関わる質問ならば、その質問は、エーテル体に届く。つまり深層に、その質問を送信することができて、エーテル体はそれを受け取ることができる
そうすれば、回答は、水晶の中に映し出すことができる。
しかし、二極化されたひとつの部分にのみ通じる価値のものはエーテル体に届かないので、それは、「聞いてなかったです」ということになるのだ。

大が小のために奉仕するのが現代であるとシュタイナーは言った。つまり魂体は、感覚体のためにこき使われているという言い方をしているのだが、経済・政治・実務・生活など、わたしたちの個の知覚の体系の上に成り立っている価値観、いつ消え去ってしまうかわからないようなコンテンポラリなもので、なおかつエーテル体とか魂にまで浸透している活動は、そう多くない。魂の視点からすると、視覚化できないものもある。いわば、この世界は、一部に霊的なものが浸透し、一部には入っていない、まだら模様なものだ。
霊からすると、存在しない、見えてこないものがあるのだ。
水晶は、そういうまだらなものを見ようとした時に、どうみても、それらすべてに答えることなどできず、見えたり見えなかったり、という気まぐれに見えるものになるだろう。水晶透視が気まぐれなのではなく、質問が、表層的すぎたり、時には、本質に結びついていたりするまだら模様だからだ。
しかしいずれにしても、感覚的な質問をしている当の感覚的な要求の持ち主に気に入るような類のものは、おそらくほとんど出てこないと思う。

以前占星術の勉強会に、「投資のために占星術を使いたい」という人が来ていた。
「わたしは現実的なテーマに、占星術を使いたいんです。」と。
占星術は、アストラル的、エーテル体的なものなので、こういう感覚的な分野のものとしての投資、ビジネスなどにはあまり向かない面も多い。この人の言う「現実的なテーマ」というのは、要するに、「短期的な、個の欲求の視点の上でのみ役立つもの」ということなのだ。
たいていの現実的という定義はそんなものなんですね。
ということは、水晶も、占星術も、目前のことに夢中にならない姿勢で取り組むと、本来的な使い方ができる。

悪貨は良貨を駆逐する、という言葉は、アボリジニを駆逐した西欧化された人々ということにもたとえられるが、アボリジニたちは、実際地球を見ていた。そして個としての自我を中心に生きている人は、この地球の声が聞こえないが、静かにしていれば聞こえるのか、というと、静かにしていても、聞こえない。個としての信念体系の転換が必要だ。

スタップ細胞はあるのかないのか。ということはともかく、身体がもっと長生きするとか、実現できれば、わたしたちの個の視点には、もう少しスーパーバージョンが必要で、もっと価値観を変えないと、短命な中身が、長命な器の中に入ることになる。体は大人だが、中身は子供みたいな。ただでさえ、自然の摂理に反して、人間の寿命をいたずらに引き延ばしてきたので、その歪が、介護問題とか、いろんな問題を作り出している。たとえば長生きしても、脳は長生き用の、より大きな視点で働く枠組みを持っていないので、足りないところで、ボケが始まる。
わたしたちは平均寿命で死ぬ権利さえ、認められなくなっている。

いま、空間の枠、時間の枠としての堅い被膜の山羊座表皮を、冥王星が突破しようとしているのでしょうか。
地球から飛び出し火星に行くんだとか、寿命を引き延ばして、もっと長生きするんだとか、
あちこちで、範囲を拡大する場合には、いままでの中身のままで拡大すると、想定しなかった問題は出てくるのは当然です。封じることによって、わたしたちは成り立ってきたのだが、その、いままで封じてきた、上位の領域の視点を、持ち込む必要はある。
身の丈に合った長寿にはそれが必要だ。

九州の街並みを写真に撮るために、ソニーのα7Rと、ライカのズミクロン50mmと、ツァイスのBiogon28を持ち歩いたが、重いマニュアルのレンズは、こういう時には不向きと思う。川沿いの屋台に、ズミクロンを持っていくのは、抵抗もあった。
でも、木村伊兵衛のマネをしてレンズの練習をするのならば、マニュアルフォーカスで、ライカの50mmだけを持ち歩かないとね。