2014年6月24日火曜日

20140624 水晶スクライイング講座はできないか

昨日から、運動のトレーナーはより高度な段階に入りますといって
深層筋を鍛えるモードに入ったので、かなり筋肉疲労が激しいです。いままで使ったことがないような場所を使っているという実感がありますが、ついていくのが大変です。

で、メールを送ってきてくれた人で、海外で水晶透視の授業受けたけど、期待するものではなかった、がっかりだったという内容が書いてありました。

水晶透視は、はっきりと映像が見える段階が理想です。
しかし、それを短期間で教えるというのは、これほど難しいことはないと思います。
で、その準備段階として、イメージがリアルに浮かぶとか、印象がやってくるというものがあり、これはあくまで準備的なものでありますが、それを教える人がいるというのもありでしょう。

でも、肉眼で見る、はっきりとカラーの映像がでる、メガネかけていないのにボケない映像が出る、というのは、衝撃であり、やはりそこまでいかないと水晶透視とは言えません。

で、写真のようにくっきり見るのに、それが物質的にどこかに存在するものかというと、微妙に編集がかかっているというのも、驚きです。たとえば、わたしはある神社をすみからすみまで、くっきりと見ていましたが、それがどこなのか探ろうとして、周囲をすべてくまなく見ましたが、どこにも文字がないんです。普通何か書いてあるでしょう。しかし文字だけがない。作りは完璧。解像度の高い映像。しかし文字だけが抜かれています。

映像をくっきり見るというのは、わたしが知っている範囲では、十人弱、それができているね。
しかしバトラーが書いているように、最長で七年くらいかかりますから、スクール形式にはできにくい。
とくに、わたしは自分で長期的に継続する講座はできないです。
ただ練習するシステムを考案、設計はできるかもしれない。
長く重苦しい領域。
エーテル体を見るというのは、奈落を見ることなので、何か世界の底を覗いたような感じです。
重いです。
そしてこれが水晶を見る時の、初期的な入り口なのです。

2.
どうもその先生は、水晶透視でなく、シンボル読みのようなものだったらしい。

ちなみに、四次元的領域とか死後の世界などを見る時に、
多くの人は、この世の映像と似ていると思うかもしれないし、また似ていてほしいと思うかもしれないが、この世の映像と似ているものは、この世しかない。
別次元は、まったく似ていないので、あたかもこの世であるかのような読み方をできない。

というのは、ともかく、シンボル読みと共通面もあるものとして、五つのタットワを練習として、映像化するというのは、水晶透視トレーニングの基礎としてやりました。
こないだ、大阪では、チャクラの下から四つぶんは、四つのタットワとして見てもらった。
四つぶんだったのは、時間切れもある。
五つのタットワは、ふたつ組み合わせると、25になる。
日本語の場合、母音は5つなので、この五つのタットワと関連付けてもいい。
でも言葉が25よりも多いですが。
エノク語は、19個なので、これを扉にして、水晶透視の領域に入ってもいいですね。



火星は逆行から巡行に戻ったけど、冥王星や天王星とのアスペクトに関わりつつ、てんびん座の15.00度に入ったのは、6月22日あたり。
この現象の例としては、塩村議員のセクハラやじあたりをサンプルにするといいのでは。
いま牡羊座には天王星があり、牡羊座は自我感覚。つまり外に自分を押し出す。もちろん均衡を打ち破って外に。
で、反対に火星があり、この反対の天秤座は、触覚で、
人間は肉体に閉じ込められ、宇宙にはもう戻れないという感覚。
牡羊座の自我感覚が押し出して、てんびん座の、個人の触覚に衝突し、
なお火星はてんびん座の15.00度なので、傷つく体験をします。
天王星は山羊座の冥王星と90度が続き、
山羊座は均衡感覚。つまり立ち位置なのだが、冥王星のこともあり、
いまは多くの人の立ち位置の変更を迫られている。
この立ち位置が変わると、それによって、自我感覚の押し出しも変わり
牡羊座の天王星がてんびん座に向かって押し出したときに、
天秤座では、それが、触覚の被膜を突き破るような損傷を与えるという循環になる。

塩村議員の場合には、わかりやすい例で、やじをとばした議員のほうも、自分の立ち位置をキープできなくなったのは、結果から見るとそういうふうに見えるだけで、
この冥王星、天王星、火星のかかわりの中では、冥王星が「意図の発信者」なので、
立ち位置が変わり、それによって、いつもは言わないことを自我感覚が押し出されるようにして言い出し、つまり何かわけのわからないストレスに誘引され、
そして目の前にいたターゲットに、損傷を与えたというわけです。

こういう場合、馬鹿だねーとか、議員にあるまじきという判断を下すのは、とりあえず当然の見解だが、わたしたちはこういう冥王星、天王星、火星などの作り出すエネルギィの流れに、抵抗はできないですね。

で、地上の三次元世界では、常にどんなものも二極化して、この二極化によって時間の流れ、ストーリーの流れ、方向性、などが生まれることになるので、
地上においては、二極化し、この二極化の「ひとつだけを正」とみなして、片割れ的な世界を作り出す原理が働く。
そういうところでは、塩村議員被害者、鈴木議員悪い、というわかりやすい一方通行的な解釈が成立する。二極化し、いっぽうを表に、一方を裏にして、裏は存在しなかったかのようにみなすのが、地上の法則なので、これを通じて、わたしたちはこの世界に縛られていく。
冥王星がまっすぐ立っていられないぐらつきをおこし、それが天王星に伝わって、前に倒れ掛かり、そのまま、塩村議員のほうにもたれかかって、彼女の皮膚に傷がついた、みたいな展開の時に、ほら、ぐらつかず、まっすぐ立て、というのは、いまのところ無理だったのでしょう。
この場合、火星がキャリアとして、このぐらつきと、自我感覚の突き出しの矛先を、「人を傷つける」という方向に向けた。火星が違う位置にあった時には、もっと違うところで噴出した。

で、この地上においては二極化し、そのひとつが主導権を握るというのが、
ひらかなタットワだと、空の元素から地の元素までの、「あ」から「お」までの絵文字として描かれているのかもしれない。はじめは十字にからみつく蛇だった。これが「あ」
そのつぎに、このからみつく蛇は、ふたつに二極化する。「い」の段階で。
そのうちのひとつは地上に降りていく。力をこめて。これが「う」
下に降りた一方の存在は、地上をはい回って、探索する。「え」で。
そして、そこに自分独自の世界を構築する。「お」

カタカナは、ヘブライ語と同じ、英語圏のサウンド文字なので、図から意味が読めない。
それに比較して、ひらかなは、形態符号化なので、もとが表象文字的で、つまり漢字の単純化みたいなものなので、(途中、借字が仲介媒体になる。)母音の五つは、絵文字として見やすいです。

で、空のタットワにたとえられる第五元素、空をあらわす「あ」のもとの漢字は、「安」らしい。
家の中で、女性が両手を重ねてひざまずいている姿なんだそうです。
守られた中で安心している姿。
上にある家の屋根の象意が、ひらかなでは、「あ」の十字になり、下の「女」という家の中で腕を交差させてひざまずいている女性が、十字に絡みつく蛇のような形に変わる。

わたしがヘミシンク体験の初期に見ていた、ふたりのじいさんは、文字体系のもとにあるふたりの大天使なのだが、ひとりはサウンド文字体系。ひとりは形態文字体系。ここでいう大天使は、民族霊と同一視される種類のもの。
ヘブライ語、カタカナ、エノク語などをするには、サウンド文字体系の大天使側になるけど、漢字、ひらかな、などの形態文字体系方向で考える時には、もうひとりのほうになる。

タットワに入るときに、「ア」から入るのか、「あ」から入るのかでかなり違う。
アだと、これはヘブライ後のアレフのことなので、角のある暴れた牛から。
あ、だと、家の中でひざまづく女性から。
サウンド文字は、波動的な雰囲気から入るので、その点では水晶透視の下地の練習として、エーテル物質のタットワを見る場合には、この形態文字体系、つまりイメージとしてみる方がはるかに楽なのではないか。

地上の物質は、表象と事物の結合で、しかも組み合わせが多層的。
水晶でくっきりと映像を見る時に、地上の物質そのものをそのまま見ることはできないと書きましたが、視覚は思考の反映という点では、誰も、実は地上の物質をくっきりと精密には見ていないということにもなる。
で、地上的な視覚は、事物を先に見て、そのあとで表象にゆきつくのかもしれない。
水晶とか遠隔透視は、表象を先に見て、それに付随する事物を後で見る。
この表象は、もとをたどっていくと、タットワとかエレメンタルになる。
なので、エーテル物質としてのタットワを見る練習は、ピアニストがハノンやったり、走る人がストレッチやったりするのと同じで、見やすくするための、基礎トレーニングとみなせばいい。

たぶん、多くの人が理解できにくいのは、くっきりと映像をテレビとか映画のように見るという時に、この映像は、地上にある固有のものであり、そこに原理的な普遍性はないし、ある風景はそこにある風景で、それは他のどこにもないものだと考え、
この固有の風景なり事物なりを見るというのが、くっきりと映像として見ることなんだと解釈しているからだと思う。
それを覗き見することができるのは、不可能だ、と。

で、地上に降りた「二極化された片方のみ」の事物的な映像を見るのが、わたしたちの感覚としての視覚で、遠隔で見るには、もうひとつのエーテル物質、すなわち「イ」の段階で、分離して、空中に残ったものの側から見る。そうしないと、そのターゲットまで、わたしたちが運ばれてゆかない。
あらゆるものは、エーテル体と物質体のふたつでできているけど、
エーテルの側から見ると、映像には多少欠損とか、あるいは編集が入る。
つまり、エーテル物質は、生命物質そのものなので、そして物質は、その形骸化した死骸、せみの抜け殻みたいなものなので、エーテル物質が希薄な物質は、水晶の映像としては見えなくなり、生命が残った部分が映像として見える。これが編集の理由だ。
そしてこの複雑な映像は、ちょうどテレビの映像が、RGBの三つで組み立てられたかのように、もとはタットワから組み立てられている。
どんな映像もRGBという三つの色から作られていると考えてみたら、水晶透視の映像は、どんなに複雑でも、そのベースにタットワがあると考えるのは不思議ではないです。つまり五つのタットワを均等に視覚化できれば、テレビ映像のRGBがそろったよ、とみなしてもいいような感じです。水晶テレビの部品揃いましたと。
で、RGBのうちどれかが壊れていると、映像が正常に映らないように、タットワの五つが揃わないと、水晶映像も見えにくい。というよりは内容が歪むか。
シュタイナーがいうように、気質の偏りは、世界をその気質で見るので、火の強い人は、エーテル界に入ると、すべてのものを燃えるように見てしまう。
水晶透視は地上でものを見ているのでなく、エーテル界で見ているのと同じなので、自分のタットワの偏りがそのままあらわれます。
タットワが偏ると、そのタットワの奔流に流されてしまう。
映像の静止は、テレビの場合、同期というけど、シュタイナーが人間が静止するには、六つの方向の力が衝突し、均衡を保つ必要があるというように、映像が静止するには、この五つのタットワが均衡を保つように同期する必要がある。
瞬間瞬間流れていくものを、ぴたっと静止させて見ることができるのは、同期を取った中心点にチューニングした時です。つまり静止映像は全部揃ったもので、タットワの五つそれらは、互いに、お互いをぶち壊し続けているので、静止の瞬間が必要。
それは空の元素においての静止か、ないしは地の元素においての静止しかないようにも見えるけど。そのふたつは互いに反映しあう傾向がある。


チャクラの場合、よく下から上まで、七つのスペクトルの色としてみることがあるけど、たとえば、ムラダーラは赤とか、これは、電気的、光学的レベルのチャクラで、エーテル物質に接触していない。
エーテル的な領域でチャクラを考えるには、やはりタットワとチャクラを結合することになるので、すると、ムラダーラは、プリディヴィ、仏教用語では、地天で、黄色い正方形の図形。地の豊穣をあらわすタットワです。

くっきり映像を見ることと、シンボルを見ることの間にはけっこうなギャップがあるけど、シンボルを見るのは、身体が地上に属して、その法則に縛られていて、そしてイメージが解放された状態で見ることかな。
くっきり映像を見るのは、身体と感情の一部が、「二極化の鉄則」から少しだけ自由になっている状態で始まる。

3.
こんなことを書いていると、次のようなメールが来ました。
長いけど、そのまま引用。
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やはり国見国褒めが気になりました。
よむことは数えることでもあり、一つ一つのものをピックアップすることが祝福になる。
パノラマを表すには、山紫水明のような漠然とした既製品の文句か、
ひとつずつものを数え上げる、いわゆる「物尽くし」をするしかない。
言葉という低次元の世界では、ものすごく乱暴に言えば、
論理(物語)か羅列かの二つしか方法がない。
一定のイメージでまとめてしまうことは一種の呪いですが、
その呪いを解くには、この世界では、羅列しか方法がなかったのではないでしょうか。
(ほんとうはもっと、大事な呪術的な役割がありますよね。これは極端な話です。)

ある人のひととなりを表すのに、
「彼はこういう人です」というありきたりのレッテルを張ることは、
思い込みであり呪いです。
それに対して、その人に関するエピソード、その人の行動を
ただただ羅列することのほうが、よほど豊かに人間性を表していたりする。
中国のお話では心理描写というものもあまりなく、
たとえば水滸伝などでも、ただ人物の行動を詳細に並べていくことで、
どんなにその人物が周到で計算高いかを表したりします。

歴史は物語にしないと人の記憶に残りませんが、
物語によって思い込みが生まれる。
専門家が細部を検証していくことでそれは崩されますが、
それぞれ部分的すぎます。

いくら細部を数えあげても、けっして全体像に届くことはないけれども、
「市場」に近づくまで、ただただ細部を積み上げることしか、
不自由な次元では、ほかに祝福を行う方法がない。

でも、「ひとつのレッテルでいっしょくたにしない」や
「個々のありようを認識する」がプラスの意味になるのは、
あくまで現世においての価値観でしょうか。

吟遊詩人の語りの構成法(オーラル・コンポジション)は、
もともと文字を介さない、声の技法であって、
ギリシャのホメロスにも、セルビアにも、中国にも日本の琵琶法師その他にも
共通するものです。
敦煌にまでさかのぼる絵解きの系譜もあります。
ものを並べること自体は珍しくない、いろんな国で共通している話法でもあります。
でも漢字文化圏は羅列、物尽くしの習性がやはり特に強いです。

羅列は本当は同時に起こっていることで、対して論理(因果)は時間と関わる。
中国語や日本語にはほとんど時制がありません。
日本人や中国人の書いた論文は、
よくヨーロッパの人から「ただ羅列すればいいというものではない、論理がわかっていない」と怒られるそうです。(中国の論文で一番参考になるのは巻末の一覧表だ、と先輩が言っていました。)
中国語にはそれでも時系列どおりに語を並べるというルールがありますが、
比べてみると、日本語は更にわざわざそれを入れ替えて、
時間性を消そうとしているところがあります。
掛詞枕詞の多重性もそうですが、

日本語は少しでも一本線の論理から解放されようとしているように見えます。

------------end

武満徹の音楽が、多時間性と言われていることと、武満徹の日本的な感性は随分とかかわりがある。
結局、空間的なものと時間的なものは、数字の、砂描き算と、小石並べ算との関連と似ていて、意味を考えるのは、同時に並んだ図形に、時間的な手順を加えていくプロセスかな。そして時間の流れは二種類ある。地に落ちる方向と、天に解放されていく方向と。

エーテル的な映像は、そもそもエーテルがより上位の次元と結びつき、また物質は、こうしたより上位の次元から孤立しているというのが特徴なので、太陽が自己分割して、惑星の七つにという分解プロセスは、(つまり言い方を変えると、アナハタはすべてのものと同調して、その情報を読み取ることができる働きがある。どんな音にも落とせる。)エーテル的な映像にしか反映できないのですね。

こないだ大阪で、みんなが自分のチャクラを見ている時に、わたしも見ました。で、自分のスワディスタナは、山の清水のように透明な水の流れがあり、その底に、白骨が沈んでいた。白骨はムラダーラに行き着いたもので、水はスワディスタナの素材的なもの。
わたしはスワディスタナの水と、ムラダーラの土を分離していて、いまのところ、それを混ぜないようにしている。
まぜた場合には、そこに腐敗した肉体の映像が、つまり硬化と分解・昇華の入り交じったものが出てくるはず。インドではこのスワディスタナのもとになるガンジス川では、半分腐った死体を流したりする。なおかつそれを飲み水にしたりする。そうやって、あのインクレディブルなインドができたりする。

つまりスワディスタナという水のタットワをあらわすチャクラは、
純度の高い水、まるで蒸留水みたいな水にとどまることはあり得ず、
これはかならず腐敗プロセスをたどりつつあり、その腐敗プロセスの途上を写し取るはずなんです。地上のすべては融合と崩壊を繰りかえす中で作り出されている。その動きがゆっくりか、早いかだけの違い。