2014年6月3日火曜日

20140603 三次元ホロスコープ、表層的な質問について

先週末の二日間にわたる九州講座で、
二日目に、少しだけ、三次元ホロスコープのさわりを説明しました。
まず、わたしがMac book Airで、スターゲイザーを使っていたのに驚いていた人がいましたが、
Macには、parallel desktopか、あるはfusionを使い、その上にWindowsのOSをのせたら、
そのままウィンドウズのアプリは走ります。

で、三次元ホロスコープは、

●ヘリオセントリックの天体計算
●プラネタリウムで、黄経、黄緯度位置に、恒星を表示

という条件が必要なので、
スターゲイザーでは、表示することができず、ソーラーファイアを使うことになります。
ソーラーファイアーはVersionによっては、WindowsXPの英語表記でしかインストールできないものもあり、OSのバージョンと、ソーラーファイアのバージョンをうまくマッチングさせないといけない。
わたしがいま使っているソーラーファイアは、Windows8ではインストールできない。

九州のさわり講座で、参加者のEさんの図を出したときには、例題として使いやすかったのは、水星に、ポルックスと、プロキオンが乗っかっていて、プロキオンは、比較的黄緯の高い位置にある。そもそもそれは喉にかかわるような場所です。余分なことをたくさん子犬のように吠えるという作用と、水星の連動などはわかりやすい例でした。
それに水星とポルックスなんて定番ではないか。

この三次元的なホロスコープを考える時に、座標は三つあり、人体すなわち感覚を通じてみる世界。これは、いままでのホロスコープのようなもの。次に
地球を中心に見る。太陽を中心に見る。という三つだが、
たとえば、アボリジニーが、オーストラリアのすみずみまで、ソングラインをたどって旅をするというのは、地球を中心にして、その表面を、ドットとしての人が歩くという視点で考えるべきもので、
個に重心を置かない。個は同じ「歌の種族」の個と連動して集団意識となり、それらは苔のように、地表を覆うというようなイメージなのだ。

オーストラリアに西欧人が入ってきて、アボリジニの土地を奪い、自然破壊していくという行為は、西欧人の視点が、「個」を中心にしたもので、この個のアイデンティティを形成するには、それよりも上位にあるコスモスへの接点を閉じて、それに関する知覚を失うことで専念できるので、そういう人々からすると、アボリジニが、岩におかしな名前をつけていたり、道に歌があるというのは、とうてい理解できないのは事実だが、太陽中心のプラネタリウムは、さらにもうひとつ次元が上がる視点になる。

パワースポットという考え方は、かなりの矛盾を抱え込んでいる。
個人としての人生を豊かにしたい。幸運をもたらすパワースポットを探したい。
しかし個人としての視座の延長線上には、地球固有の位置から来るパワースポットはそもそも見えてこないし、その力が干渉してくるとすると、個人としてのアイデンティティに、「信念体系崩壊」をもたらす。なので、いまのところ、話題にされているパワースポットというのは、そういう本格的なものでなくて、人と人の間で作られた、なんちゃってパワースポットだけを扱っているものなのだ。個人の視点の信念が揺らぐ場所、すなわち事故多発地帯。それこそ地球と触れる場所ということだ。

こういうことに関連していると思うが、興味深い質問がある。「水晶透視での映像は、エーテル体という深みのある領域から立ち上ったヴィジョンということですが、具体的に質問をして、それに対する回答は、水晶透視によって、得られますか。」というものだ。

エーテル体は、植物に似て、アストラル体は動物に似て、物質体は鉱物領域に似ている。植物は伸びてゆき、種どうしで地下でつながり、個体としての鉱物的な輪郭から、外に拡大していく。そして植物は「関連付け、」「個体の孤立を打ち破る。」性質がある。
エーテル体は個を超えたものの懸け橋になる。
こういうところの性質を媒介にして、水晶の水素96という高自我に、ヴィジョンを持ち込むので、
エーテル体に届かない、エーテル体に聞こえない質問ならば、回答することができないということになる。

このエーテル体に届かない質問とは何かというと、純粋に地上的、感覚的、物質的、そもそもそれを成り立たせる個としてのアイデンティティの世界観の上でのみ成り立つ価値のもの。たとえば、利潤追求というのは、個のエゴを中心にして成り立つ世界で構築された価値観だ。経済というのは、エーテル体には理解できていない。

なので、たとえば、このビジネスで成功しますか。など、ビジネス的な質問は、テンポラリーにして、表層的・感覚的質問で、深みにあるエーテル体にはその価値がピンとこない。わたしたちは表層的物質的な領域と、その背後のエーテル体という「個をこえた世界に懸け橋となる身体」に二極化された中で生きている。
この両方に関わる質問ならば、その質問は、エーテル体に届く。つまり深層に、その質問を送信することができて、エーテル体はそれを受け取ることができる
そうすれば、回答は、水晶の中に映し出すことができる。
しかし、二極化されたひとつの部分にのみ通じる価値のものはエーテル体に届かないので、それは、「聞いてなかったです」ということになるのだ。

大が小のために奉仕するのが現代であるとシュタイナーは言った。つまり魂体は、感覚体のためにこき使われているという言い方をしているのだが、経済・政治・実務・生活など、わたしたちの個の知覚の体系の上に成り立っている価値観、いつ消え去ってしまうかわからないようなコンテンポラリなもので、なおかつエーテル体とか魂にまで浸透している活動は、そう多くない。魂の視点からすると、視覚化できないものもある。いわば、この世界は、一部に霊的なものが浸透し、一部には入っていない、まだら模様なものだ。
霊からすると、存在しない、見えてこないものがあるのだ。
水晶は、そういうまだらなものを見ようとした時に、どうみても、それらすべてに答えることなどできず、見えたり見えなかったり、という気まぐれに見えるものになるだろう。水晶透視が気まぐれなのではなく、質問が、表層的すぎたり、時には、本質に結びついていたりするまだら模様だからだ。
しかしいずれにしても、感覚的な質問をしている当の感覚的な要求の持ち主に気に入るような類のものは、おそらくほとんど出てこないと思う。

以前占星術の勉強会に、「投資のために占星術を使いたい」という人が来ていた。
「わたしは現実的なテーマに、占星術を使いたいんです。」と。
占星術は、アストラル的、エーテル体的なものなので、こういう感覚的な分野のものとしての投資、ビジネスなどにはあまり向かない面も多い。この人の言う「現実的なテーマ」というのは、要するに、「短期的な、個の欲求の視点の上でのみ役立つもの」ということなのだ。
たいていの現実的という定義はそんなものなんですね。
ということは、水晶も、占星術も、目前のことに夢中にならない姿勢で取り組むと、本来的な使い方ができる。

悪貨は良貨を駆逐する、という言葉は、アボリジニを駆逐した西欧化された人々ということにもたとえられるが、アボリジニたちは、実際地球を見ていた。そして個としての自我を中心に生きている人は、この地球の声が聞こえないが、静かにしていれば聞こえるのか、というと、静かにしていても、聞こえない。個としての信念体系の転換が必要だ。

スタップ細胞はあるのかないのか。ということはともかく、身体がもっと長生きするとか、実現できれば、わたしたちの個の視点には、もう少しスーパーバージョンが必要で、もっと価値観を変えないと、短命な中身が、長命な器の中に入ることになる。体は大人だが、中身は子供みたいな。ただでさえ、自然の摂理に反して、人間の寿命をいたずらに引き延ばしてきたので、その歪が、介護問題とか、いろんな問題を作り出している。たとえば長生きしても、脳は長生き用の、より大きな視点で働く枠組みを持っていないので、足りないところで、ボケが始まる。
わたしたちは平均寿命で死ぬ権利さえ、認められなくなっている。

いま、空間の枠、時間の枠としての堅い被膜の山羊座表皮を、冥王星が突破しようとしているのでしょうか。
地球から飛び出し火星に行くんだとか、寿命を引き延ばして、もっと長生きするんだとか、
あちこちで、範囲を拡大する場合には、いままでの中身のままで拡大すると、想定しなかった問題は出てくるのは当然です。封じることによって、わたしたちは成り立ってきたのだが、その、いままで封じてきた、上位の領域の視点を、持ち込む必要はある。
身の丈に合った長寿にはそれが必要だ。

九州の街並みを写真に撮るために、ソニーのα7Rと、ライカのズミクロン50mmと、ツァイスのBiogon28を持ち歩いたが、重いマニュアルのレンズは、こういう時には不向きと思う。川沿いの屋台に、ズミクロンを持っていくのは、抵抗もあった。
でも、木村伊兵衛のマネをしてレンズの練習をするのならば、マニュアルフォーカスで、ライカの50mmだけを持ち歩かないとね。