2014年6月21日土曜日

20140621 目線の範囲をどこに

カメラの話の続き。
眼球は、脳が外界に関心を持って、その一部が前方に飛び出してできたものだというのが、シュタイナー/ズスマンの考え方。
なので、視覚は、思考の反映であり、そもそも視覚は全体を見ることなどできはしない。特定のものだけを注視する。

占星術のサインでは、視覚は乙女座に対応している。乙女座は、たくさんあるものの中の一部を取り上げ、それを拡大し、それしかないかのように思う。自己を部分化するので、全体は見えてこない。
で、乙女座の反対にある魚座は、この全体を見るという姿勢がある。雲、霧、境界のあいまいな水の元素は、特定のものに視点をあわせず、漠然と視界を広げて、入ってくるものを捉える。魚座の1度の市場は、なんでもかんでも取り込む場をあらわし、このためには、特定のことに集中していてはいけない。
乙女座の部分集中と、魚座の全体への拡張という範囲は、カメラでは、視界の広さの違い、つまりレンズの焦点距離にも関係する。
魚座は視野が広い。つまり「魚眼レンズ」と言われるような、極端な広角から、こんどは望遠などになると、小さな範囲を拡大していくので、これは乙女座的な方向だ。
で、人間の視線に近いナチュラルな焦点距離は、だいたい50mmと言われていた。なので、昔はこれが標準レンズだった。最近のコンデジでは、標準域は35mmで、少し広角寄り。

現代では、個人の視野とか個人の視点が中心で、これによって政治経済も生活も組み立てられているので、全体に乙女座的と考えるといい。土の三角形、つまり牡牛座、乙女座、山羊座は、乙女座が視覚。山羊座が均衡感覚。つまり狭い立ち位置の確保。牡牛座が思考感覚だと言われている。
土のサインらしい点から見ると、人間は肉体的な個体の輪郭で判断する。たとえば、これが水のサインを中心に見てしまうと、この輪郭は曖昧になり、磁力的なあるいは気の身体になってしまう。気持ちとか感情などによって判断する人の輪郭となると、当然それはアメーバのような形で見ないわけにはいかないだろう。何かに愛着を抱くと、それに身体の一部がのびてゆくのが見て取れるのだから。土の元素がもつような、閉鎖的な形骸化した輪郭を見る訳にはいかない。実際、水の活動サインである蟹座では、批判機能は存在しないので、判断の輪郭(境界線)は、浸水する水のように拡大してゆく。どんな犯罪を犯した息子でも、母はあなたは正しいんだからね、とか思ったりする。外部から見た、比較の上で成り立つ価値判断は蟹座には存在しない。どんなひどい国でも、自分の国は最高の国。これは輪郭ぶちこわしということなのです。土の視点からすると、地図のように日本の輪郭は見えるが、水の視点からすると、輪郭は拡大し、洪水のようになってる。

カメラの話に戻るけど、魚座に海王星がやってきているために、魚座が強まり、全体的に知覚しようとして、目線を特定のものに集中させないという傾向が強まる時代にあり、これは行き過ぎると、細部に対して不注意になるのは避けられない。
全体的なところではうるさいが、細部に関してはあまりうるさくない、ということに。
で、わたしが最近、カメラで何か撮影しようとしているのは、この一部切り取り。そしてそれを強調という撮影作業そのものが、乙女座的なものなので、強くなりすぎる魚座に対して、バランスを取ろうとしているのかと思うこともしばしば。
魚座と乙女座の交互の作用は、拡大して、全体を見て、また細部に入り込みというズーム機能みたいになるが、この場合、わたしはどこを定点にすればいいのかなと、決めかねている。
旅行にいくなら、ズームがいいですよ、という人もいれば、いや、森山大道なら、28mm一本ですべてこなすだろう、とか。

乙女座は狭い視点に集中するというのは、もっと広げて解釈すると、何かの価値付けについても、価値の優劣はくっきりはっきりしていて、その輪郭は明確である。もともと、乙女座の土のサインは、真偽ということを問題にする。
なので、文字に書かれていることは読み、その行間は「偽」と判断して、読まない。白黒二価のスキャナーみたいだ。この排他性は極端だ。

そうすると、写真を撮る場合にも、わたしのように、価値の崩れたゴミ、蜘蛛の巣、掃除のできていない空間、などを撮影することに意味を感じないはずだ。感じないというよりも、それを撮影することを拒否するかもしれない。価値体系は明確だからだ。
この乙女座の輪郭を解体し、信念体系の偏りをもっと均等にしようとする魚座は、当然乙女座が排除したノイズ、ゴミなどを拾い込むことも多い。
乙女座が拒否し、もう既に影となって、乙女座が認識さえできなくなったようなものを、魚座がクローズアップすることで、乙女座の土台は16度で足場そのものが覆されてしまう。

わたしの父親は、昔の男らしく、カメラとか写真が好きだったのだが、その父親が撮影する写真は、つねにあまりにもありきたりの、記念写真的なものがほとんどで、それはいまだに変わらず、そもそもそんな写真撮るなら、特別なカメラなんていらないし、いまならスマホの写真だけでいいのではと思います。
どうして一歩踏みこまないんだろうなー、というのが、わたしの中学生の時の感想。ちょっとでも踏み込めば、面白い世界が展開しているのに、と。
で、わたしは、ひねくれていたので、学校の修学旅行でも、みんなで撮影するようなものには目もくれず、まさか、と思うようなものばかりを撮影した。

このように他の人が目を向けない隙間に目をつけてしまうので、つまり乙女座視線がぐらつくようなところに目をつけるので、乙女座的な、表のとりつくろいを重視する人からすると、わたしの写真の撮影のしかたは、動揺させるようなものだった。つまり、人物写真で言えば、一番撮られたくない、本人が管理できていない瞬間を切り取ってしまうからだ。でも、わたしとしては、もっともナチュラルなところを撮影します、というところで撮影しているに過ぎない。
見られたいところと、わたしが思う実体というのはズレがあって、わたしはその相手の「見られたい」という部分は、部分的過ぎて、嘘くさい部分だと思うので、それを重視しない。
たとえば集合写真では、全員が構えた時には写真は撮らない。瞬間を過ぎて、気を抜いた時に、わたしは撮影します。あるいは構える前とか。構えた瞬間は、一番内容のない瞬間であると、わたしはみなしていた。


恒星のコンステレーションと、12サインはもちろん位置が違うし、時代によってずれていきますが、この12サインの乙女座に、いまは、獅子の心臓のレグルスと、獅子の尻尾のデネボラがある。これは乙女座22度くらいか。
レグルスは、表向きの王者というか、世間的な普通の意味での、メインの王座みたいな意味がある。これが乙女座のはじめの領域に入ると、視線の部分化、個人としての輪郭を明確にする、ということに対しての純朴な信仰がよけい強調されるかもしれないですね。
で、メインストリームからはずれた、目のつけどころの違う、アウトサイダーのデネボラは、この乙女座の純朴な単一視点に対しては、過去にすでに十分にやってしまったので、飽きており、視界から外れたものに、新素材を見つけようとする。
22度くらいだと、乙女座の新鮮さは確かに薄れている。乙女座の自我崩壊が起こるのが16度だとすると、それを過ぎた後で、再構築した乙女座なので、魚座という全体性の視点を持つサインの侵入した16度から20度までの影響に対して、十分に抗体を持った状態で、複合的に考えようとしている。

乙女座初期の、視点の単純な集中、白黒二価の判断を茶化す時に、わたしがいつも使う冗談ネタは、インド人の運転手のものです。ずっと昔インドにいった時、タクシーとか車はみなバックミラーが壊してあった。理由を聞くと、後ろが見えると、運転に集中できなくなり事故を起こすから、と言われた。
で、昨年チェンナイに行ったとき、まさか、昔のインドみたいではないはずだと思っていたのに、すべてのリクシャーの運転席の上にあるミラーが、外に向いておらず、後ろに座っている客に向いているのを見て、びっくり。やっぱり外は見てないんだ。実際リクシャー運転手は、運転中ずっとわたしの顔を見ていました。
レグルスは、こういう単細胞的なところで、働く。そしてデネボラは、それを笑いながら見ている。群衆の奥に隠れたデネボラは、王様のバカっぷりを笑う図ですか。

なんにしても、わたしはどのくらいの焦点距離を定点にしようかな、というところを決めかねている。50mmを標準域にして、さまざまな歴史的なレンズの50mmを練習しようかと思ってみたり、やはり超広角の16mmズームがいいとか思ったり。木村伊兵衛ならば、50mmだし、森山大道なら28mmだし。
ヘリオセントリックのホロスコープだと、わたしの水星も金星も乙女座のはじめのほうの、単純白黒二価の場所にあるけど、ヘリオセントリックは地上から見た視覚でなく、太陽の自己分割の視覚意識という点で、はじめから何かをじっと見ているというよりは、視覚の中にないものを、特定の視覚の中に押し込んでいくという姿勢になる。
これはたとえば、カフェの古時計を見ていて、この古時計の映像の中に、複合的な記憶がレイヤーとして重なるような視点の使い方は、比較的慣れています。

だから、水晶スクライイング教えていたのかもしれないけど。
つまり視覚映像の中に、太陽の記憶を盛り込んでいくのだけど、太陽の白い光を、プリズムのように、七色に分解して、惑星にしていくプロセスは、グルジエフの「
特定の色は異なる色にはなれない。みかんはリンゴにはならない。しかし上から降りてきた色は、どんな色にもなれる。だからみかんはリンゴになる。」ということからして、ひとつの視覚の中に、ほかの六つの領域の記憶を、任意に、盛り込むことができるということになる。事物にほかの表象をはりつけることができるということです。
ジオセントリックな意味での乙女座は、水晶を見ている時に、水晶しか見えないし、そこに、後ろの窓が湾曲して映り込んでいるものしか見ない。あ、自分の顔も映ってます、と。

写真を撮る時に、下から目線、つまり地上から這い上がる、ものをものとして見ているジオセントリック乙女座的な写真の撮り方をしようとしても、視覚は思考の反映なので、この切り取る映像を選択している段階で、ヘリオセントリック的な乙女座の作用も働きます。エルダーセルフを七色分解して、このどれかの記憶を、映像に貼付けている。本人は気がつかないかもしれないけど。

わたしは渡辺豊和の、日本の文明は、蘇我氏の北の帝国から始まり、しだいに西南に降りてきたという異説には興味があり、この渡辺豊和のひねくれた視点というのは、どこから来るんだろうなと、思っていた。ヤマトタケルは、西から東へではなく、北から南へ進軍してきたんだ、と。ヤマトタケルは東北からヤマトへと軍をすすめた。鹿島は蝦夷に対する前衛基地ではなく、ヤマトに対する前衛基地だった。

渡辺豊和は1938年8月1日生まれなので、ヘリオセントリックでは、海王星が乙女座の数え21度領域にあり、ここにデネボラは重なっている。海王星はもっぱら世代的な天体なので、渡辺豊和と同じような時期に生まれた人は、みな海王星デネボラ化するけど、そもそもヘリオセントリックは、個人としての個性を重視しないので、同世代はみな同じ考え方の一塊と考えることにはなんの抵抗感もない。ヘリオセントリックは、太陽の自己分割図なので、これに個人の個性重視の視点を入れるのはおかしな話です。
この世代は、海王星が妄想する時、世間的な主流の考え方をとりあえず否定するという方向に行く訳です。常識と思われているものは、まずしょっぱなから斜めに見る姿勢。とはいえ、それをはっきりと表現できるかどうかは、また違う天体の作用も考えないといけない。射手座の水星には、ぴったりアンタレスが重なっている。

乙女座と魚座の関係は、フォーカスを一点に集中させたり、もっと全体に拡大したりと言うズーム機能に関わると思うが、これに対してそれぞれ90度の関係の射手座と双子座はどのような調整機能を持っているのだろうか。
双子座は風の柔軟サインで、これは1つの物を分散させていくという働きになる。しかしながら分散させていくということは、一つ一つの意味は薄まって行き、つまり分割魂的になって行き、それぞれが地に落ちていく。双子座の知性というのは、より即物的で物質的で意味の薄いものということに興味が向かっていく。 双子座的興奮というのは常にそういう性質を帯びている。意味のないものに熱中する楽しさというのがあるんです。

一方で上昇していく火のサインである射手座は、より形而上的なところに向かっていこうとする性質があるので、この分散した意味作用をそれぞれ高めていこうとする特徴を持っている。
このように考えれば乙女座と魚座のズーム機能に対して、その都度入ってきた印象を、双子座は落として行き、射手座は上げていくという加減が働くことになる。双子座は具体的であるが身も蓋もない。そこに何の含みもない。射手座は抽象的であるが、ぶつけてくるようなインパクトがない。もう少しシャープな輪郭がほしい。
前後に動く乙女座魚座と、上下に動く射手座双子座があれば、こんどはあとは左右がほしいね。