占星術に興味を持つ人たちが抱く根本的な反抗心について。
私が思うに、占星術に興味を持ち、さらに深入りして、それを勉強する人たちの中には、根本的な反抗心というものが潜在しているように見える。それは例えば社会のルールには従いたくないとか、自分で勝手に人生を作り出したいとか、あまり順応的では無い要素を持つところが、占星術に興味を持たせるのではないかと考える。
これについて思うのだが、キリスト教の初期の段階でいろんな考え方というものが成立していた。グノーシス派では、世界を創造した造物主という者がいて、それは神とは別個の存在で、そして人間はこの世界を創造した造物主には従っていないという考え方である。動物は造物主が作った。しかしながら人間だけは例外であり、人間は神の側にいて、造物主の近くにはいなかった。
ある段階で人間はこの創造された世界に好奇心を抱いた。好奇心を抱いた瞬間に、世界の中に入ってしまい、そこから抜け出すことができなくなった。それ以後、人間は世界の中に住んでいるのだが、しかしながら人間の本性そのものは世界と同一化していない。
このようなときには、世界のメカニズムというものを研究して、そこから自分を分離する。つまり、自分は世界そのものではなく、世界から離れたものであり、自分の身体の奥深くまで入り込んだ世界を、自分自身から分離するのである。
アサジョリーが、自分は思考では無い。自分は感情では無い。今、私は疲れているが、疲れているのは身体であり、私では無い。だから私は疲れていない。という風に人間のいろんな属性を次々と分離して、それらに自己同一化していない自分を切り出すという行為は、グルジエフの自己想起の手法ととても似ている。
占星術を使った場合に、人生のいろんな出来事は、かなりの比率で惑星というものが影響を与えており、詳しく考えていけば、人間の行動や人生は惑星の作り出す操り人形のようにも見えてくる。これが世界の動きであると考える。それらに同一化せず、自分というものを、そこから取り出すには、世界は動くメカニズムについて考えるツールがあると便利なのだ。
占星術に興味を持つ人たちが、根底に抱く反抗心が無くなっていけば、次第に占星術に対して関心はなくなっていくかもしれない。自分にある程度決まった性格とか運命的なものがあるとしたら、それに従って、同一化して生きていけばいいと言う素直な感情だ。
と言うよりは、そうした条件付けそのものを意識しなくなる。同一化したものは、意識できなくなるものである
占星術に詳しい人ならばホロスコープに抵抗して違う人生を歩むというのはなかなか難しいということがよくわかると思うのだが、そういう場合に、グノーシス的な反抗心を持つ人と言うのは、そうしたコースにあわせつつ、自分自身を分離していくチャンスを狙う。いったん染まってしまったのだから、脱出のチャンスを狙うのである。その場合には行き当たりばったり、自分の性格とか、運勢に抵抗するのではなく、合わせつつ、脱出の場所を狙うのがいいと思われる。
あるサンプルであるが、その人のホロスコープでは働く場所が弱く、しかしながら本人は働きたいという希望があり、このホロスコープの条件を覆すにはどうすればいいかと何度か聞かれ、それが私には面白く感じたことがある。こうした葛藤というのはホロスコープそのものに内蔵されていることが多く、この人物の場合には働くサインの天体と、そうでないサインの天体とがスクエアを作りだしていた。
つまりホロスコープの条件に対して抵抗しているわけではなく、ホロスコープが持つところの葛藤をそのままリプレイしている、ということでもある。つまりホロスコープに従って発言しているということなのだ。
天体作用からの独立というのは、この場合、こういう葛藤、働きたいという衝動、それとは違うことをしている自分など、このループそのものからの分離ということを意味する。
今日、こんなことを考えたのは、コリンウィルソンの能動的な人間は5%存在するという話を思い出したからである。囚人に性格テストを行い、積極的な5%を隔離する。そうすると残り95%は羊の群れのように従順で、決して反抗しないし、脱走も企てない。
キリスト教の場合に、アントロポースとしての人間は、造物主に属しておらず、そこから独立しているという考え方ではなく、反対に、人間は世界の1部であるという考え方の流派もある。この世界の1部であるという考え方はその人の人生をスムーズで素直にしてゆくだろう。科学の姿勢として、冷静で客観的な私というものがいて、それが対象に対して一歩離れた所から見ているというのは、この人間は世界から独立していると言う考え方から来ているのかもしれないが、実際には勘違いをしてしまった。
世界から独立したアントロポースは、二極化されていない存在である。
一方で世界の中に入った存在は、主体と客体に二極化される。
そして通俗的な科学の姿勢としての観察者は、この主体の側にいる。
こうした観察者の存在は誤った姿勢であって、量子論のように、観察者も世界の中に属しているので、現象の一部であり、冷静に対象を観察することなどできないという考え方の方が正しい。
主体は世界の中の部品だ。それは客体と相対的な関係の中にあるので、決して世界を観察することなど出来はしない。
人間は世界から独立しているという考え方と、人間は世界の中の1部であるという考え方の2つの流れは、キリスト教の初期においてYの字型の分岐をして、その後、それぞれが異なる地域へと移動していったと考えてもいいのではあるまいか。古典科学は、人間は世界の1部であるという流派の中で、さらに主体は対象を客観的に観察できるという勘違いをしていった。
グノーシス派の1人、キリストの双子の兄弟の1人聖トマスはインドのチェンナイで死んだ。
彼の流派は、人間は世界の中に属していないという考え方をベースにしている。
観察をしたり、意識化したりするのは、それと自分が同一化しないという方向に向かう。
占星術で惑星の動きが人生のいろんな変化に結びついているということを観察すると、その動きと、自分を同一視しないきっかけが作られる。
気分から自分を引き離す。
感情から自分を引き離す。
行動衝動から自分を引き離す。
こうしたことのために占星術を使うというのは比較的便利かもしれない。
つまり世界と自分を同一化しないために、世界の動きを知る、ということである。
私が見ていると、占星術に関心がない人というのは、星の動きにあまりにも素直だ。
そのことにまったくのところ疑いがないように見える。実際に抵抗する理由なとありはしない。
無意識な場合には従属し、意識的な場合には分離する。
キリスト教の2つの流派のように、どちらに属するかによって、占星術が意味を持ったり持たなかったりすると思う。
エドガーケーシーは、 12歳のキリストが女性教師に連れられてアレクサンドリア図書館に行き、そこで占星術を勉強してきたと言うのだが、これはグノーシス派的なキリストなのかもしれない。
シュタイナーによれば、 2人のキリストがいて、彼らはやがて一緒に住むようになった。
グノーシス派によれば、キリストは双子の兄弟がいたという話になる。
これらは同じ話ではないのだろうか。
それが後にYの字型に分離した歴史を作った。
つまりはじめふたつがあり、合流し、またふたつにわかれた。
地上は二極化されているので、 1人のキリスト像というものを想定するのは不可能に近い。
真実なものは、かならずふたつに分かれて存在する。
実際はひとつなのだが、地上においては必ず単一の存在は表と裏に分かれていく。
この2種類の考え方は、社会に対しての姿勢としてかなりの違いを見せてくるのではあるまいか。
例えば社会はだんだんと整備されていき、完成された共同体になっていくという考え方は、人間は世界の1部であるという考え方をしていかない限りはうまくいかない。自分と同一化している世界はもちろん平和で進化していく世界でなくてはならない。
カバラ派の一部には、世界というものは、資材置き場であり、それは経験の場であり、進化することはなく、整備されるということもないという考え方がある。たくさんの人たちがいて、やがて彼らは死んで行き、また新しい人が生まれてきて、積み上げたものは崩れて行き、どこに目的を持っているわけでもなく、偶然の中でとりあえずまとめられた共同体である。
こうした考え方は、人間は世界の中に属していないということから来ている。
例えば、東日本震災のことを考えたときに、せっかくちゃんとした環境作ったのに、ある日突然、それがこわれてしまう。しかも科学の成果ともいえる原子力施設がよけい環境破壊してしまう。
社会というものは慎重によく考えて整備しても、 10年後には存在しなくなるかもしれないし、そもそもは社会全体が統一的に進んでいくパイロット波というものを持っておらず、だからどこに行くかはさっぱりわからない。人間は経験のために一時的にこの世界の中に生まれてくるので、つまり世界に染まってしまうのだが、時がくれば手付かずで離れた方が良いという考え方である。
総理大臣がグノーシス派だと、とんでもないことになるだろう。御嶽山が噴火した。本来の日本が蘇って元気になったんだねと言ったりする。おまえはヤマタイカか。日本の山は噴火するのが当たり前だ。それを忘れてぼけっと暮らしている方が悪いのだ、などということは総理大臣は絶対に言ってはならない。
ここまで全部ドラゴンスピーチで入力しました。朝スタバでキーボード入力で原稿書いているので、さらにキーボード入力というのはなかなか大変です。したがって、スタバから戻ってくると、その後は必ず音声入力になります。この程度の文章は音声入力で十分に入力することができるのです。
今日のように、月と土星が合だと、月の感受性が、土星の殻に入れられ、月は硬直して、居心地が悪い。そして、なんとなく気分が悪い。月が土牢に投獄されるから。
その時に、トランシット天体を見て、あっ、今日は月と土星が合だ。それでむっとしてるんだ、と思った瞬間に、この気分への漠然とした同一化から自由になるでしょ。
それまで曖昧な感じで、なんとなく無意識的に、自動的に(月だから。)この気分の中にある。
でも、見ると抜け出す。
というふうに、認識というのは、理解したり、意識化すると、そこから離脱する。
これがアサジョリーの言う、わたしは思考ではない、わたしは感情ではない、わたしは気分ではない、わたしは身体ではないというプロセスのひとつです。そのために占星術を利用しているということです。
世界は機械のように動く。中世の時代に、惑星は冷たい機械時計とみなしたではないか。
意識は、この機械のように動くものの中に幽閉されている。
機械のように動くものと、わたしは同一ではない。
しかしあまりにも多くの人は、この機械と自分を同一化する。
機械はちゃんと見ていないと、あたかも機械でないかのように精巧に動く。
しかしこれは機械だ。
グルジエフが、自己想起練習で、わたしは見ている。その見ているわたしを、わたしは見ている。わたしは、さらにそれを見ているというふうに繰り返すことを提唱したが、
機械を見ていないと、機械は人を飲み込んで動く。
で、グルジエフは、惑星のある組み合わせが発生すると、地上のどこかで戦争が起こると言い、それを避けることのできる人間などいないというが、これは機械作用です。
グノーシス派が、ヘルメス文書で書いていたように、惑星作用について、いかに怒っていたか。その感情を現代人は理解できない。なぜといって、これは飲み込まれすぎているからではないか。それを意識化できないからではないか。
というのも、人間の進化過程としては、グノーシス派の時代とか、プラトンとかアリストテレスの時代の人間は、今日の人間に比較すると、きわめて総合的な視点を持っていた。
今日、この時代の知性を再現できる人はいない。
もっと極端に小さなところでささやかに自由を満喫するという生き方しかできていないので、ヘルメスの怒りとか、理解できないのではないかと思う。
私が思うに、占星術に興味を持ち、さらに深入りして、それを勉強する人たちの中には、根本的な反抗心というものが潜在しているように見える。それは例えば社会のルールには従いたくないとか、自分で勝手に人生を作り出したいとか、あまり順応的では無い要素を持つところが、占星術に興味を持たせるのではないかと考える。
これについて思うのだが、キリスト教の初期の段階でいろんな考え方というものが成立していた。グノーシス派では、世界を創造した造物主という者がいて、それは神とは別個の存在で、そして人間はこの世界を創造した造物主には従っていないという考え方である。動物は造物主が作った。しかしながら人間だけは例外であり、人間は神の側にいて、造物主の近くにはいなかった。
ある段階で人間はこの創造された世界に好奇心を抱いた。好奇心を抱いた瞬間に、世界の中に入ってしまい、そこから抜け出すことができなくなった。それ以後、人間は世界の中に住んでいるのだが、しかしながら人間の本性そのものは世界と同一化していない。
このようなときには、世界のメカニズムというものを研究して、そこから自分を分離する。つまり、自分は世界そのものではなく、世界から離れたものであり、自分の身体の奥深くまで入り込んだ世界を、自分自身から分離するのである。
アサジョリーが、自分は思考では無い。自分は感情では無い。今、私は疲れているが、疲れているのは身体であり、私では無い。だから私は疲れていない。という風に人間のいろんな属性を次々と分離して、それらに自己同一化していない自分を切り出すという行為は、グルジエフの自己想起の手法ととても似ている。
占星術を使った場合に、人生のいろんな出来事は、かなりの比率で惑星というものが影響を与えており、詳しく考えていけば、人間の行動や人生は惑星の作り出す操り人形のようにも見えてくる。これが世界の動きであると考える。それらに同一化せず、自分というものを、そこから取り出すには、世界は動くメカニズムについて考えるツールがあると便利なのだ。
占星術に興味を持つ人たちが、根底に抱く反抗心が無くなっていけば、次第に占星術に対して関心はなくなっていくかもしれない。自分にある程度決まった性格とか運命的なものがあるとしたら、それに従って、同一化して生きていけばいいと言う素直な感情だ。
と言うよりは、そうした条件付けそのものを意識しなくなる。同一化したものは、意識できなくなるものである
占星術に詳しい人ならばホロスコープに抵抗して違う人生を歩むというのはなかなか難しいということがよくわかると思うのだが、そういう場合に、グノーシス的な反抗心を持つ人と言うのは、そうしたコースにあわせつつ、自分自身を分離していくチャンスを狙う。いったん染まってしまったのだから、脱出のチャンスを狙うのである。その場合には行き当たりばったり、自分の性格とか、運勢に抵抗するのではなく、合わせつつ、脱出の場所を狙うのがいいと思われる。
あるサンプルであるが、その人のホロスコープでは働く場所が弱く、しかしながら本人は働きたいという希望があり、このホロスコープの条件を覆すにはどうすればいいかと何度か聞かれ、それが私には面白く感じたことがある。こうした葛藤というのはホロスコープそのものに内蔵されていることが多く、この人物の場合には働くサインの天体と、そうでないサインの天体とがスクエアを作りだしていた。
つまりホロスコープの条件に対して抵抗しているわけではなく、ホロスコープが持つところの葛藤をそのままリプレイしている、ということでもある。つまりホロスコープに従って発言しているということなのだ。
天体作用からの独立というのは、この場合、こういう葛藤、働きたいという衝動、それとは違うことをしている自分など、このループそのものからの分離ということを意味する。
今日、こんなことを考えたのは、コリンウィルソンの能動的な人間は5%存在するという話を思い出したからである。囚人に性格テストを行い、積極的な5%を隔離する。そうすると残り95%は羊の群れのように従順で、決して反抗しないし、脱走も企てない。
キリスト教の場合に、アントロポースとしての人間は、造物主に属しておらず、そこから独立しているという考え方ではなく、反対に、人間は世界の1部であるという考え方の流派もある。この世界の1部であるという考え方はその人の人生をスムーズで素直にしてゆくだろう。科学の姿勢として、冷静で客観的な私というものがいて、それが対象に対して一歩離れた所から見ているというのは、この人間は世界から独立していると言う考え方から来ているのかもしれないが、実際には勘違いをしてしまった。
世界から独立したアントロポースは、二極化されていない存在である。
一方で世界の中に入った存在は、主体と客体に二極化される。
そして通俗的な科学の姿勢としての観察者は、この主体の側にいる。
こうした観察者の存在は誤った姿勢であって、量子論のように、観察者も世界の中に属しているので、現象の一部であり、冷静に対象を観察することなどできないという考え方の方が正しい。
主体は世界の中の部品だ。それは客体と相対的な関係の中にあるので、決して世界を観察することなど出来はしない。
人間は世界から独立しているという考え方と、人間は世界の中の1部であるという考え方の2つの流れは、キリスト教の初期においてYの字型の分岐をして、その後、それぞれが異なる地域へと移動していったと考えてもいいのではあるまいか。古典科学は、人間は世界の1部であるという流派の中で、さらに主体は対象を客観的に観察できるという勘違いをしていった。
グノーシス派の1人、キリストの双子の兄弟の1人聖トマスはインドのチェンナイで死んだ。
彼の流派は、人間は世界の中に属していないという考え方をベースにしている。
観察をしたり、意識化したりするのは、それと自分が同一化しないという方向に向かう。
占星術で惑星の動きが人生のいろんな変化に結びついているということを観察すると、その動きと、自分を同一視しないきっかけが作られる。
気分から自分を引き離す。
感情から自分を引き離す。
行動衝動から自分を引き離す。
こうしたことのために占星術を使うというのは比較的便利かもしれない。
つまり世界と自分を同一化しないために、世界の動きを知る、ということである。
私が見ていると、占星術に関心がない人というのは、星の動きにあまりにも素直だ。
そのことにまったくのところ疑いがないように見える。実際に抵抗する理由なとありはしない。
無意識な場合には従属し、意識的な場合には分離する。
キリスト教の2つの流派のように、どちらに属するかによって、占星術が意味を持ったり持たなかったりすると思う。
エドガーケーシーは、 12歳のキリストが女性教師に連れられてアレクサンドリア図書館に行き、そこで占星術を勉強してきたと言うのだが、これはグノーシス派的なキリストなのかもしれない。
シュタイナーによれば、 2人のキリストがいて、彼らはやがて一緒に住むようになった。
グノーシス派によれば、キリストは双子の兄弟がいたという話になる。
これらは同じ話ではないのだろうか。
それが後にYの字型に分離した歴史を作った。
つまりはじめふたつがあり、合流し、またふたつにわかれた。
地上は二極化されているので、 1人のキリスト像というものを想定するのは不可能に近い。
真実なものは、かならずふたつに分かれて存在する。
実際はひとつなのだが、地上においては必ず単一の存在は表と裏に分かれていく。
この2種類の考え方は、社会に対しての姿勢としてかなりの違いを見せてくるのではあるまいか。
例えば社会はだんだんと整備されていき、完成された共同体になっていくという考え方は、人間は世界の1部であるという考え方をしていかない限りはうまくいかない。自分と同一化している世界はもちろん平和で進化していく世界でなくてはならない。
カバラ派の一部には、世界というものは、資材置き場であり、それは経験の場であり、進化することはなく、整備されるということもないという考え方がある。たくさんの人たちがいて、やがて彼らは死んで行き、また新しい人が生まれてきて、積み上げたものは崩れて行き、どこに目的を持っているわけでもなく、偶然の中でとりあえずまとめられた共同体である。
こうした考え方は、人間は世界の中に属していないということから来ている。
例えば、東日本震災のことを考えたときに、せっかくちゃんとした環境作ったのに、ある日突然、それがこわれてしまう。しかも科学の成果ともいえる原子力施設がよけい環境破壊してしまう。
社会というものは慎重によく考えて整備しても、 10年後には存在しなくなるかもしれないし、そもそもは社会全体が統一的に進んでいくパイロット波というものを持っておらず、だからどこに行くかはさっぱりわからない。人間は経験のために一時的にこの世界の中に生まれてくるので、つまり世界に染まってしまうのだが、時がくれば手付かずで離れた方が良いという考え方である。
総理大臣がグノーシス派だと、とんでもないことになるだろう。御嶽山が噴火した。本来の日本が蘇って元気になったんだねと言ったりする。おまえはヤマタイカか。日本の山は噴火するのが当たり前だ。それを忘れてぼけっと暮らしている方が悪いのだ、などということは総理大臣は絶対に言ってはならない。
ここまで全部ドラゴンスピーチで入力しました。朝スタバでキーボード入力で原稿書いているので、さらにキーボード入力というのはなかなか大変です。したがって、スタバから戻ってくると、その後は必ず音声入力になります。この程度の文章は音声入力で十分に入力することができるのです。
今日のように、月と土星が合だと、月の感受性が、土星の殻に入れられ、月は硬直して、居心地が悪い。そして、なんとなく気分が悪い。月が土牢に投獄されるから。
その時に、トランシット天体を見て、あっ、今日は月と土星が合だ。それでむっとしてるんだ、と思った瞬間に、この気分への漠然とした同一化から自由になるでしょ。
それまで曖昧な感じで、なんとなく無意識的に、自動的に(月だから。)この気分の中にある。
でも、見ると抜け出す。
というふうに、認識というのは、理解したり、意識化すると、そこから離脱する。
これがアサジョリーの言う、わたしは思考ではない、わたしは感情ではない、わたしは気分ではない、わたしは身体ではないというプロセスのひとつです。そのために占星術を利用しているということです。
世界は機械のように動く。中世の時代に、惑星は冷たい機械時計とみなしたではないか。
意識は、この機械のように動くものの中に幽閉されている。
機械のように動くものと、わたしは同一ではない。
しかしあまりにも多くの人は、この機械と自分を同一化する。
機械はちゃんと見ていないと、あたかも機械でないかのように精巧に動く。
しかしこれは機械だ。
グルジエフが、自己想起練習で、わたしは見ている。その見ているわたしを、わたしは見ている。わたしは、さらにそれを見ているというふうに繰り返すことを提唱したが、
機械を見ていないと、機械は人を飲み込んで動く。
で、グルジエフは、惑星のある組み合わせが発生すると、地上のどこかで戦争が起こると言い、それを避けることのできる人間などいないというが、これは機械作用です。
グノーシス派が、ヘルメス文書で書いていたように、惑星作用について、いかに怒っていたか。その感情を現代人は理解できない。なぜといって、これは飲み込まれすぎているからではないか。それを意識化できないからではないか。
というのも、人間の進化過程としては、グノーシス派の時代とか、プラトンとかアリストテレスの時代の人間は、今日の人間に比較すると、きわめて総合的な視点を持っていた。
今日、この時代の知性を再現できる人はいない。
もっと極端に小さなところでささやかに自由を満喫するという生き方しかできていないので、ヘルメスの怒りとか、理解できないのではないかと思う。