2014年3月22日土曜日

20140322 はじまりはどこから

昨日の雑記の内容に関連していることだが、
円環時間には、始まりと終わりがない。しかし、異なるコスモス単位へのつなぎの節目はある。
上の次元から、下の次元に降下するときの節目は、下の次元の円からすると、はじまりだ。
わたしたちは、感覚的な存在として生まれた時、この感覚的な知覚のありかたを手に入れ、それを使い始めることそのものによって、それ以前の記憶を失う。
なぜなら知覚のしかたがまったく違うからだ。

で、ホロスコープの場合、アセンダントつまり地球の地平線に、生命の帯である黄道が接触したところを、個人の始まりにする。もちろんこれは、感覚的、肉体的な存在としての個人の始まりだ。
でも、これは感覚に縛られていない本来の生命存在の始まりをあらわしていない。
あくまで、肉体的な存在として生まれてきたところのスタート点だ。
このはじまりの設定は比較的あいまい。
何をもって始まりと決めればいいのか、というところでは、すべての人に共通した基準がないのではないかと思う。

それにそもそも、親とか周囲の人が生まれた時間を記録しているからそれをもとに計算しているが、自分で自覚していたわけではない。昏睡状態で、本人にはまったくわからないスタートであって、自我の始まりとか自覚の始まりを自分の始まりとするのならば、アセンダントを決めた出生時間の時には、まだ「わたし」は始まっていない。
この自我のありかたは、この感覚的で、肉体的な器官と結びついたところでの自我の始まりと、こんどはたとえば気の身体としてのエーテル体を素材にしたところでの自我の始まりというものを比較すると、それぞれ異なっているので、自我の始まり、自覚の始まりというところでも、万人に決まった基準がないのだ。
エーテル体を素材にした自我の始まりというものならば、母体の中ですでに始まっている。
しかしこの知覚の形式は、わたしたちが大人に育っていく過程の中で、記憶を消去される。
多くの人と同じように感覚的な目や耳で自覚するというしかたをおぼえこむ段階で、それそのものの感じ方がそれ以前の記憶を消してしまうのだ。

どのレベルを自分とみなすのか、ということを先に定義しなくてはならない。
そしてそこから、スタート点、というか節目、大なる宇宙から切り離されて、小なる宇宙が始まる節目を設定しなくてはならない。

この問題は、ホロスコープという個人の起点を考えるときに必要なことなのだが、集団的な意識としてのスタート点を決める時にも、よく考えなくてはいけない問題になる。
たとえば、土地とか地図の占星術的な12サイン割り当てを決めてくださいという話になると、
わたしは以前雑誌で、日本地図を12サインにわけて、あちこちを旅するというコラムを書いていたが、日本の起点をどこにするか、ということで試行錯誤した。
中国が、いったいどこからどこまでが中国なのかわからないように、
日本もどこからどこまでが日本なのかわからない。
現在の日本国という地図でわかるではないですか、と言われるかもしれないが、
それは「現在の日本国というアイデンティティ」の上でのものであって、
たとえば、縄文日本とか弥生日本とか、朝廷の日本とか、徳川家康の日本とか、明治の日本とか、それぞれに「自我のありかた」が違うのだ。

で、わたしは以前、自分がもと出雲族であるということを本に書いたのだが、
このもと出雲はまだ大地に着地していない雲の状態であり、大陸と地続きで、西に長く伸びた筒のようなものだ。そして日本のあちこちにアームが下りているような状態。
これは個人のホロスコープにたとえると、アセンダントになる前の状態で、まだ肉体的に下りていない状態。出雲は、雲から出てきたのか、それとも雲が出てきたのか。

で、雑誌の連載の時には、暫定的に、九州の伊万里あたりを起点にした。つまり徐福がやってきたときを、現在の日本の「自我のありかた」の原点とみなした。
そこを春分点、すなわち牡羊座のはじまり、前の宇宙の記憶を喪失する場所、そして新しい自我のうまれる起点としたのである。
地球で12サインの地図を作るとき、ジオデティックはグリニッジを起点にするが、
もちろんそんなでたらめを採用したくない。これは政治的な、イギリスの覇権のスタートを示した本初子午線であり、それは今日の国家意識をもとにして作られる人間意識のスタート点でしかない。
人間個人が生まれる前に、青い狐がいた。
この青い狐のスタートを意識するならば、起点はグリニッジでなく、ニジェール川にしなくてはならない。そうシリウス意識が降りてきた場所だ。
アフリカのすべての種族はそこから始まった。そしてエジプトでさえ、そこからの子孫なので、古地図で使われるように、大陸がもっとも大きなサイズになるピラミッドの経度位置を、本初子午線にするよりも、より精密だ。
でも、わたしたちは、青い狐は存在せず、人が生まれてきたところをスタート点にしたい。さらに、政治的、国家的な成立ののちの自我を人とみなすならば、グリニッジにするかもしれない。

地球の春分点すなわち始まり。日本の始まり。個人の始まり。
これらは共鳴しあう、異なるサイズの円なので、基本的には同じ理屈で考えることができる。
で、わたしはもと出雲族だとするならば、肉体的な始まりを自分の始まりとはしないタイプだ。
つまりエーテル体の上に立つ自我を、つまり"肉体"よりも、"意図"を重視する考え方で決めようとする。降りてきた後でなく、降りようとする意図、目的の部分を、まずは降りてきた後の自分の始まりとみなすのだ。結果からものごとを判断するわけでないということだ。

意図は動作よりも早いので、武道の達人になるには、この動作よりも早い意図のほうを読まなくてはならない。攻撃の始まりは、常に攻撃の意図の後、ワンテンポ遅れて始まる。意図を直接読めば、動作が始まる前に反撃できるのだ。
これがエーテル体を基盤にしたところのわたしということだ。
たとえば、真っ暗の中で会議してみよう。すると、誰かが発言する前に、発言しようという意図が先に発信されるのがわかる。明るい場所では、この意図が見えにくくなり、感覚的に誰かが口を開くのを見てから、その人が発言することがわかる。

一方的に流れる時間意識の中では、物質的な輪郭によって、タイミングとか起点を決める。なので、今日の午後六時に待ち合わせというときには、午後六時がスタートだが、実際にはそこに向かってなだらかに盛り上がる気の流れがある。物質的な輪郭としては午後六時だが、気の流れとしては、朝からかもしれない。昼からかもしれない。物質的に会合する六時には、もう形骸化して、もう残骸しか残っていない場合もある。そうでない場合もある。
たとえば、わたしが何か買い物するときには、たいてい実際に買う時間にはもう形骸化している。わたしはその購入するモノに対して、もう関心を向けていない。関心が向かっているのは、買う前までだ。
なので、買い物に行っても、実際には買わないことも多い。むしろそのほうが多い。現物を目にすると、気抜けするのだ。
物質的なものは、常にどんな時でも、表象、気、エーテル体よりもエネルギィが弱いので、現物を目にすると、それ以前よりもテンションが落ちる。常に。そして意図が間違っていたのではないかとさえ思う。こんなもの買うつもりではなかった、と感じる。

意図を意識せず、常に物質的な輪郭のみを重視するのならば、すべてを結果から判断するということで、こういうギャップは感じないと思うが、しかし日ごとに萎縮して、最後は石になってしまう人のことを示しているので、そんな生き方をお薦めしないのは言うまでもない。

個人的な話では、わたしの進行の新月は今年の七月ならば、七月から始まるというよりは、そこに物質的な節目があり、その前後に均等に山に向かう傾斜があるので、実際には、わたしはそれよりももっと前を始まりとみなすことになる。もと出雲族ならば、感覚的な始まりの前に、真の始まりがある。