2014年3月29日土曜日

20140329 で、今日は非常に近いところに

数日は、気配がなかったので、その間kは、わたしをサーチしていたのだと思う。そして、通路ができた。物質的には東京の渋谷区にいる、という感じで、探す必要などないけど、そういうレベルではなく、心理・アストラル的なレベルでは、差位性があると、接点をつくるのに時間かかる。

今日は、寝不足だったのでひさしぶりに、ゲートウェイのF12を聞いてみた。寝不足の時に聴くと、体力回復する。つまりずっと使っていなかったのだ。

聴き始めると、すぐに、2メートルひだりに、彼が立っていた。直後に、10センチの距離に来た。まだ、死んだ直後なので、荒れている。少し。たぶん時間の問題。この荒れている感じというのは、まず生々しさがあるのと、ちょっと怖い雰囲気というところ。無理矢理身体から引きはがしたところでできた、ゆがみみたいなもの。調整されていくと、これがスムーズにまとまる。

彼は自分が住むことになっている場所を示した。巨大なツボのようなものの中の、中腹にある穴。あまりにも大きな壷なので、ひとりが入る穴は非常に小さく見える。でも、そのまえに、彼の背後に女の人がいる。感じとしてお姉さんみたいな。これは、だれなんか?

彼は、丸い白い絨毯を見せた。わたしは、なら、中間領域で、展開しなよと言った。しばらくは、エーテル体の世界にとどまるつもりらしいので。
心残りは、わたしが提案した、ゲーム手法のTRPGらしい。それは、これからでもできるね。ここからその中二階にいけば。参加者は、そこにいけばいい。絨毯のサイズからすると、参加者は三人か四人程度しか入れない。

いずれにしても、わたしが異常な数日を過ごしていたのは、もやもやと気配を感じつつ、これ、自分の感情では、ないなーと感じつつ、それに包まれていながら、はっきりとKを、認識していなかったからだ。今日ははっきりと、接触した。なので、すっきりした。これからしばらくは、彼はわたしの、そばにいるらしい。

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で、わたしはモーエンとかに、今後はエノクかモンテーニュのような暮らしをしたいと言ってたのだけど、エノクは特に、死者ないし天使のようなものに囲まれて生きるという意味のことを指している。わたしの土星期には、土星のそばに海王星があり、しかも8ハウスなので、死後の人か、あるいは人になったことのないものが近くにいて、わたしはそれを対象化しておらず、(つまり合なので。)共存している感じ。こういうところでは、Kが十年くらいいても、違和感はない。

問題はわたしの生きている側のバランスの取り方で、関わり続けると、わたしのほうが、半分引きずり込まれている感じになるので、なんとも言い難い異常な精神バランスになること。前にも書いたけど、元気に爽快に生きていて、なお死者と関わり続けるというのはありえんでしょ。現代社会は、というかある時代から、生者と死者は分ち難く分離するという文化、精神の形を作り出してきたのだから。エノクのようになりたいというのは、共存可能だから。
生きた人々のいる社会と、霊・魂・死者・宇宙的な法則の領域には分離があると何度も書いたけど、この分離感が原因で、生きた人々に囲まれてにぎやかに生きている人は、宇宙法則や、霊との接点が薄くなり、霊との接点がある人は、結果的に、生きた人と仲良くない状態になりやすい。両立させようとしても、大きな溝があるので、生きている世界で何かしっかりとやっていきたい人は、いったん霊との関係を切り離したほうがいい場合もある。とはいえ絶対いいとは言い切れない。

雑記に書いたTさんの夫は、昨年死んだのだけど、講座で聞いた話では、その後、小さい娘と一緒に、ドコモタワーの隣のフレッシュネスバーガーに行ったことがあり、帰りに、娘が「いま、お父さんがいた。知らないおじさんと一緒に座ってた」と言ったんだそうです。死者と接点を作りやすい場所というのがあり、これは物質的な意味では、ちょっと良くない場所とか落ち込みのある場所、事故になりやすい場所で、物質的に脆弱なところは反対にエーテル的に強くなりやすい。身体でいえば縫合部で首とか股とか。

で、わたしはまとめて、死者、異次元、そしてUFOの来る場所というものはみな共通していると説明する。
なんとなく、体験的には建物の形が円形とか、螺旋階段があるとか、ぐるぐる回っている感じのものが多い。あのフレッシュネスはそういう構造。なので、わたしの見解としては、死者が来やすい。
いま思い出したけど、シュタイナーは肉体的な運動は直線に運動し、エーテル的な運動は、円形になるという話をしていた。ということは、ぐるぐる回転するような形は、エーテルレベルに接触しやすいということだ。これがわたしの体験と合致する。螺旋階段のある家で、客が異常な体験をたくさんする家があった。昨年行ったタンパのスティーヴのペンションも階段は回転していた。神宮外苑のマラソンは、直線に見えて、結果的に1.2キロの長さの円運動だ。クアラルンプールから飛び立った飛行機は直線で中国に行かず、回転した。

で、今どうして、この話を出したのかというと、死者はわりにひとりで来ない。Kの場合も、姉のような人が背後にいて、それはKの胴体よりも少し大きい体躯。Tさんの夫のそばにいたオジサンとか、この姉みたいな人たちは、案内者の役割でもあると思う。で、いつのまにか、わたしは一人で来る死者はさまよっていることの暗示。ほかに誰かいるのは、通路があり、助けがあることの暗示と解釈することにした。

人が死んで、肉体から離れると、肉体すなわち感覚組織が使えなくなるので、わたしたちが見ているような土地とか、建物とか、机とか、ものを認識できなくなる。なので死者は、わたしたちがものを見ているようには見ることができない。だからKも渋谷に行こうと思っても、行けない。つまり死後の世界はまったく違う地図、違う認識の線上で行動する。時間も進まない。あたかも空間を歩くかのように、時間を歩かなくてはならない。時間が進むためには、行動する労力が必要だ。
二メートル隣とか、10センチとかは空間的な意味でもないし、部屋の中という意味でもない。それは意識の共鳴の度合い。これがあたかも距離であるかのように見える。
なので、Tさんの娘が、お父さんが隣の椅子に座っていたという時も、死んだお父さんは、テーブルとか椅子を認識できないが、象徴的な意味としてのものには接近できる。象徴的な意味として、隣の椅子に座っていた、という。ちょうど夢を解釈するかのように受け取るといい。
もし誰かのところに、Kがいたら、共鳴したということです。シュタイナーの言い方がわかりやすいかもしれない。「思い出したらもうそれはすでに貫通してきている」