8月にアップされたバージョンのiTUnesだと、前みたいに、自分のHDDに入った音楽データをアクセスできないという問題が解決されていました。もしかして、これはバグで、それに気がついて、急いで、改良版をアップしたんですかね。
おかげで、最新版のiTunesが手に入り、そこで、例の自由に際限なく音楽を聴くことができるというサービスを体験することができるようになりました。これは、とても良いです。いま、ボブ・ディラン聴いているけど、CDを買ってきてリッピングするという手間がないし、楽しいです。
マンハッタンのホテルの価格は異常に高く、だいたいいつもは日本の二倍くらいが相場らしいけど、平均的なホテル代金は、3万5千円だそうです。
さらに、9月はコンベンションシーズンなので、安いところはどんどん埋まっていき、残っているのは、一日五万円くらいのものばっかりだったりします。
安くしようとすると、ドミトリーしかない。共同トイレとか、共同バスは、わたしはちょっと適応できない。距離がほしいから。6日程度の滞在でも25万円くらい取られるというのは、驚きです。
わたしがハドソン川に近いところと、こだわるのも、お金かかる原因ですね。クランチで、毎日35ドル払うくらいなら、ハドソン川沿いを走りたいのだから。なかなか矛盾しているのは、クランチの35ドルは高いからハドソン川に近いところにしようとして、高いホテルを選んでしまうことです。なにか本末転倒でしょ。
クイーンズとか、ブルックリンとか、あるいはシコーカスになると、うんと安いのです。
いつかセントラルパークをぐるぐると回りたい。こないだ、この公園の中では、ジャッキー・チェンみたいな小柄な日本人のおじさんが、歩く観光客たちに、にがお絵の勧誘をしていました。油ぶんとか、贅肉が抜けて、柴犬みたいにさわやかなおじさんでした。でも、こういうふうに抜けきってしまうと、アメリカでは貧相に見えてしまうんですね。でもファットにはなりたくない。一瞬目があってしまい、お互いに、すぐに目を逸らしました。似ているものは近づかないほうがいいと、互いに思った。
先週の大阪で、夕方に、ペットショップに入りました。そこで、それぞれ箱に入った子犬たちをひとりずつ見て、目が合うかどうか、というより、目を合わせる犬か、そうしない犬かを見ていました。だいたい三割はそれを避けようとしている。でも、中には静止して、じっと目をあわせる子犬がいて、こういう場合、互いに食い込んでしまい、相手の意志を聞き取ることができます。で、全員が、わたしに飼ってほしくないということでした。わたしが冷たいから。道端で、排泄物の掃除したくないからです。水もやりたくない。犬とか人間以外の動物のすべては、動作と呼吸が一体化していて、しかも重い頭を横で支えなくてはならず、走る距離の限界があるんですね。人間だけが、動作と呼吸が分離して、果てしなく、いつまでも走ることができる。だから、動物が死ぬまで追いかけ続けるという狩ができる。たぶんわたしが犬を飼うと、休みたいと思っても、休ませないと思う。「走れ、走りつづけよ」ということです。だからたぶん、その犬は死にます。それがわかっているので、全員から拒否されたんだと思う。
若い頃は、わたしはボブ・ディランを理解できなかった。でも、今なら理解できるし、楽しめる。
渋谷のユーロスペースで、大岡昌平原作の「野火」みました。
ここでは、極限状況で、人の肉を食ったということに関しての拒絶感とか、複雑な屈折が描かれていますが、そもそも8世紀以前の日本人は、村落の指導者が死んだら、彼と一体化するために、
指導者の人肉を食べました。等々力遺跡には、そういう、こそいで傷だらけになった骨が残っていたのです。仏教が伝来してから、そこに禁忌が働くようになったのです。
だから、縄文日本ということを考えたら、別に、人肉食ってもオーケーなんです。そもそも刺身とか、活き作りとか、一体化ではないか。
西欧社会は、個人として自閉するので、肉にしても、カニバリズムというか、死んだ後で食べます。それは肉の提供者を受け入れず、抜け殻の肉だけを受け付けます。魂を一体化させることを拒絶します。そんなの牛に失礼ではないか。おまえは受け入れないが、お前の肉だけは食べるという意味です。どれだけ傲慢なんだ。
仲間を食えばいいじゃんか、とわたしは思います。そして一体化し、一緒に生きればいい。なので、大岡昌平は、悩むことも、また反省する必要もありません。仲間は死んだから、それを食って、一緒に日本に帰ろうと意志すればいいんです。さあ、自転車に乗って一緒におうちに帰ろう。
おかげで、最新版のiTunesが手に入り、そこで、例の自由に際限なく音楽を聴くことができるというサービスを体験することができるようになりました。これは、とても良いです。いま、ボブ・ディラン聴いているけど、CDを買ってきてリッピングするという手間がないし、楽しいです。
マンハッタンのホテルの価格は異常に高く、だいたいいつもは日本の二倍くらいが相場らしいけど、平均的なホテル代金は、3万5千円だそうです。
さらに、9月はコンベンションシーズンなので、安いところはどんどん埋まっていき、残っているのは、一日五万円くらいのものばっかりだったりします。
安くしようとすると、ドミトリーしかない。共同トイレとか、共同バスは、わたしはちょっと適応できない。距離がほしいから。6日程度の滞在でも25万円くらい取られるというのは、驚きです。
わたしがハドソン川に近いところと、こだわるのも、お金かかる原因ですね。クランチで、毎日35ドル払うくらいなら、ハドソン川沿いを走りたいのだから。なかなか矛盾しているのは、クランチの35ドルは高いからハドソン川に近いところにしようとして、高いホテルを選んでしまうことです。なにか本末転倒でしょ。
クイーンズとか、ブルックリンとか、あるいはシコーカスになると、うんと安いのです。
いつかセントラルパークをぐるぐると回りたい。こないだ、この公園の中では、ジャッキー・チェンみたいな小柄な日本人のおじさんが、歩く観光客たちに、にがお絵の勧誘をしていました。油ぶんとか、贅肉が抜けて、柴犬みたいにさわやかなおじさんでした。でも、こういうふうに抜けきってしまうと、アメリカでは貧相に見えてしまうんですね。でもファットにはなりたくない。一瞬目があってしまい、お互いに、すぐに目を逸らしました。似ているものは近づかないほうがいいと、互いに思った。
先週の大阪で、夕方に、ペットショップに入りました。そこで、それぞれ箱に入った子犬たちをひとりずつ見て、目が合うかどうか、というより、目を合わせる犬か、そうしない犬かを見ていました。だいたい三割はそれを避けようとしている。でも、中には静止して、じっと目をあわせる子犬がいて、こういう場合、互いに食い込んでしまい、相手の意志を聞き取ることができます。で、全員が、わたしに飼ってほしくないということでした。わたしが冷たいから。道端で、排泄物の掃除したくないからです。水もやりたくない。犬とか人間以外の動物のすべては、動作と呼吸が一体化していて、しかも重い頭を横で支えなくてはならず、走る距離の限界があるんですね。人間だけが、動作と呼吸が分離して、果てしなく、いつまでも走ることができる。だから、動物が死ぬまで追いかけ続けるという狩ができる。たぶんわたしが犬を飼うと、休みたいと思っても、休ませないと思う。「走れ、走りつづけよ」ということです。だからたぶん、その犬は死にます。それがわかっているので、全員から拒否されたんだと思う。
若い頃は、わたしはボブ・ディランを理解できなかった。でも、今なら理解できるし、楽しめる。
渋谷のユーロスペースで、大岡昌平原作の「野火」みました。
ここでは、極限状況で、人の肉を食ったということに関しての拒絶感とか、複雑な屈折が描かれていますが、そもそも8世紀以前の日本人は、村落の指導者が死んだら、彼と一体化するために、
指導者の人肉を食べました。等々力遺跡には、そういう、こそいで傷だらけになった骨が残っていたのです。仏教が伝来してから、そこに禁忌が働くようになったのです。
だから、縄文日本ということを考えたら、別に、人肉食ってもオーケーなんです。そもそも刺身とか、活き作りとか、一体化ではないか。
西欧社会は、個人として自閉するので、肉にしても、カニバリズムというか、死んだ後で食べます。それは肉の提供者を受け入れず、抜け殻の肉だけを受け付けます。魂を一体化させることを拒絶します。そんなの牛に失礼ではないか。おまえは受け入れないが、お前の肉だけは食べるという意味です。どれだけ傲慢なんだ。
仲間を食えばいいじゃんか、とわたしは思います。そして一体化し、一緒に生きればいい。なので、大岡昌平は、悩むことも、また反省する必要もありません。仲間は死んだから、それを食って、一緒に日本に帰ろうと意志すればいいんです。さあ、自転車に乗って一緒におうちに帰ろう。