2015年9月21日月曜日

20150921 今後はいくつかの場所で精神宇宙探索講座

今後はいくつかの場所で精神宇宙探索講座を開くことになります。
アメリカで、リロケーションの話題ばかり出していたのですが、このリロケーションは、つまりはハウスは相対的なもので、生まれた時に設定されたハウスにこだわる必要はないという考えでした。
でも、この生まれたときのハウスに固着する人はたくさんいます。というよりは、通常の占星術の考え方では、生まれたときのハウスはずっと固定され、それは変えられないと考える人のほうが多いのです。
わたしが考えるには、というか見ていると、自分の感覚(つまりハウス)に固着する人と、そうでない人がいます。といっても、リロケーションして、生まれたときの配置が全部覆されるわけではなく、それは壁の上塗りです。その程度が人によって違うのです。

で、太陽を中心にした三次元占星術の場合には、この地域性はいっさい関係ない視点です。さらに、精神宇宙探索講座になると、太陽系の外に飛び出すのですから、ますますローカル性がなくなりますね。精神宇宙探索講座に対する申し込みの人が多いらしく、わたしには、この参加希望者の人たちが何を考えているのか、まだ把握できていません。仕事とか生活とか、そういうことにテーマを置くのならば、精神宇宙探索講座はまったく貢献しないし、三次元ホロスコープでさえあまり役に立つわけでなく、リロケーションさえやめて、普通のホロスコープをしたほうがよほど参考になります。でも、ほんとは仕事とか生活ということならば、ホロスコープもやめたほうがいいです。地上の仕事などで、人間のアストラル体に適合するような種類の仕事のしかたはそんなに多くないので、「天職」などというものがあるなどと空想しないほうがいいです。職業は人工的なもので、そこに天の意など反映されません。

で、精神宇宙探索講座は、かぎりなく生活から程遠いものであり、それを十分にしていくには、地上生活部分は全部自分でできている、という条件も必要なのではないでしょうか。あちこちの恒星に意識をあわせるには、身体「的な要素の」底上げが必要で、グルジェフが言う、身体、感覚、感情の調整がなされなくてはいけません。このレベルでの重いものを持ち込むと、内容が大幅に曲がるのです。
で、究極の、理想の条件は、身体が肉体ではなく、エーテル体にかなり比重がシフトしていると、なんの努力もなしに、コンステレーションとか恒星に行きますよ。
肉体とエーテル体の間の階層は、まあたとえれば、虹の階層くらいの段階があり、人により比重はさまざまに違います。体は軽いけど、感情は重いという人もいます。体は重いけど、感情は軽いという場合には、単純に体と感情に亀裂があり、生活に矛盾がいつも起きていることでしょう。

もとの大きな自己を割って、二極化してゆき、この個性的な二極化、すなわち幸せはひとつしか種類がないが、不幸には多数の種類があるというふうに個性的にしてゆき、その不幸のシナリオを作り出すのはケンタウルス領域で、そのシナリオが作られたら、次に、それに時間と空間という劇場を与えて実践してもらうのが、二極化された時空間、すなわち一方的な時間の流れの世界としての惑星生活です。つまり生活の中で陥ったカルマ的な要素は、美術館の絵のように、その鋳型は、ヒュドラの毒で死ぬというケンタウルスで作られるので、地球からケンタウルスに行けば、このフィルムのもとの形を自分で発見するという課題が生まれてきます。地獄に落ちるシナリオは、天国の下のほうにあるということですね。不幸の遺伝子コードみたいなものは、アルヘナに保管されています。とはいえ、このアルヘナの倉庫を便覧しにいくことはしません。行けば、あなたの蝋燭が見つかるでしょう。

でも、こうした精神探索講座は、たいていわたしが午前の10時から、午後の3時まで、と指定しているので、そうなると、七つの宇宙のうち、だいたいひとつくらいしかできないということになります。あるいは多くてふたつかな。七つするには、結局三日くらい連続でしなくてはいけないのだけど、負担のきついものを、わたしが嫌がってるというのはあります。
なので、ブツ切れでするということならできると思いますが、たとえば、わたしがキンドルかなんかで、この旅行の案内書を書いて、あとはそれぞれの場所で研究会をしてもらって、継続的に「集団探索」してもらうというのが、一番効率的ではないかと思います。
あるいは日本地図に、プラネタリウムを投影して、みなみじゅうじ星とか、ケンタウルスとかを九州などでしてもらったら、プレアデス、オリオンなどを富士山から東京くらいとか、北海道では、北斗七星とかポラリスなどをもっぱら追求するセンターにしてもらうなどというのも面白いかもしれません。ほんとは地球を使うのがいいけど、すると、大がかりすぎる。
で、わたしは北海道で、精神探索講座をしたいというケイザブロウ氏に、今後は日本地図は九州を頭にするのでなく、九州を足にして北海道を頭にする考えにして、蘇我氏は北海道からシリウスネットワークをスタートして、南下してヤマトに攻め入ったという考えを言いました。蝦夷に攻めたのでなく、蝦夷が攻めたのです。北斗七星、すなわちアメノウズメは、天の鳥船で天下ったという時に、それを受け止めたのは猿田彦のアンタレスですが、この天下りは北海道のほうからという話になります。
こんな感じで、日本地図を箱庭として使うというのはどうでしょうか。
そのくらい遊べるのならば、わたしは日本地図に対応させた、宇宙探索マップを作りますよ。いまはまだ、このマップの詳細に関しては、そんなに詳しく説明していないのです。

世界じゅうを旅しても、その旅先では、当然のことだけど、その地域ごとの地元の人たちは、その地域になじみ、そこで生活しており、他の地域についてあまり考えているわけではないのです。なので、たとえばわたしがニューヨークに行っても、マンハッタンの現場では、もちろん、みんな自分の場所に張り付いて生きている人々ばかりです。それそのものは、そんなに面白いものではありません。
精神宇宙探索をするには、身体がエーテル体に近いほうがいいといいましたが、それは惑星グリッドに「グランディングの場所」を置くということも役立ちます。つまりはどこの場所にも、定着しすぎないことも、貢献します。

夢の中で、父親に会ったことを書きましたが、ひとりで来たのでなく、もうひとりいて、そのもうひとりは、わたしが頻繁に会っている親近性の高い存在、つまりわたしが変性意識の中で、あるいは夢で、あるいはヘミシンクみたいなもので接触しているものです。それと肉親というのはまったく無関係なのですが、なんと父親は、その存在と知り合いになってしまっていて、ふたりで来たので、わたしはそれに驚いたのです。
霊界では、知り合いはできません。霊界は果てしなく広大な宇宙みたいなもので、違うグループに出会うことはないのです。出会うとしたら、極端に特性を落としたミニチュア世界の地球であり、地球で出会うことのなかった人は、死後出会うことは永遠にないです。
ということは、わたしに近い霊界の存在と父親が知り合いになったというのは父親が死後にそうなったということはありえず、実際に、わたしを通じて、死後の父親とわたしのつながりが、その存在との接点を生み出したのですね。
えーっ、いったいどうしてなんだよ、と、わたしは夢の中で驚き、ま、それもありか、というふうに思いました。で、死後の霊界では、お金をもうけるために仕事するということはないので、基本、実務的な面では、すべての存在は暇です。
逆に地上では、お金をもうけるために働き、このお金をもうける為に忙しく働くのは時間を消費するけど、内的な体験はきわめて希薄なので、いわば体は忙しいが、内面は恐ろしいほど暇ということになるのです。わたしの親しい存在と父親が知り合いになったということは、霊界において、活発に活動する体制に入ったということです。暇人ではなくなったのです。
生きているときの父親は、戦後復興期とかからの世代なので、お金をもうけず、趣味に時間を使う人間は無益な存在と考えていました。遊びとか趣味性を馬鹿にしていたのです。これは表向きの表層自我の特性であり、その裏側の人格を母親が請け負っていたと言ってもいいです。つまり母親は金儲けのためにならないような趣味性、芸術性を追及したからですね。母親は書画の先生ですが、それを父親は「習字」と読んで、母親を怒らせていたのです。
死んだときは、どうやら、この戦後復興期の忙しく働く性質を、霊界的な活動に置き換えつつあるみたいです。
死んだ時、出生図の太陽と、トランシットの海王星が重なっていることに大きな影響がある。でも、たいていの場合、人格は、この海王星に乗ることはできない。海王星に同調しても、なおかつ自我は損なわれないという条件がないと、海王星に乗ろうとした時に、人格的自我は目減りを起こして、もう自分といえるものをキープできないくらいになってしまう。「存在しているけど、存在していない」つまり深層の自我はあるが、記憶を保ち、個人として名前があり、ここに生きていましたという具体的な存在性は消え去るというのが本来です。
なので、父親が死んだとき、何かが起きた。多くの人が体験できないようなことが起きたのです。要するに、それを参考にしてくれ、メカニズムとして公式化しよう、と父親は言ってます。個は消えるが、そのエッセンスを回収し結晶化し、それが海王星というものに乗ることができて、その速度でも消失しないようにできたら、すくなくとも、150年くらいは、海王星軌道面で、延命できます。

で、海老名病院で入院している時に、まるでボケ症状のように「パソコンのハードディクスを取り替えるように」「一眼レフカメラのレンズ交換するように」腸を交換してくれるように、医長に頼んでくれという話をしていました。そもそも腸が機能しないし、排泄できないことで死んだのですから、ここを取り替えたら生きていける、と。人間の個別性が存在するのは、より下の領域、場所としては腸辺りかもしれませんね。上のほうに個別性はない。普遍性の高い、ジェネリックの腸みたいなのがあるといいわけですね。

わたしの三次元ホロスコープ講座とか、アカシックの橋本尚子さんに、明日9月22日も、今後、違うときにも二回くらい講座をコーディネートしてもらっていますが、わたしが告知する前に申し込み者が満席になってしまうので、講座案内に載せることでできないです。載せるには、会場をもっと大きくしないといけないのか。それと、12月には、来年のことを考えるという講座、マザーズオフィスですることになってますが、これもマザーズオフィスの会員だけで、前回は50人埋まってました。結局、主催者の集める力がやたらに強大なのですね。