2014年5月16日金曜日

20140516 感覚を認めるべきか否か

シュタイナーは、生命の七つの層に対して、5つほど数の多い12感覚は、感覚として硬化し、霊性とか生命に従わない要素が作られたと説明した。つまりわたしたちは感覚的に生きている中では、本質には至らない、孤立した地上的な機能に閉じ込められる面があるということだ。7つが12になったのなら、もちろん5つほどの感覚は、生命からは孤立している。

それは物質的な生き方は、その後、もっと高次な霊的な世界には行けない要素があるということになる。なので、グノーシス的な生き方においては、感覚を通じて認識する次元のもの、すなわち「世界」を否定し、世界を創造した造物主を、真の神よりもずっと低い位置に置いた。ソフィでさえ、造物主よりも上位にある存在にみたてた。

ディートリッヒ・ギュンベルは、12感覚とは言わないが、(従来の通俗的な感覚の数え方として5感
ないし6感として扱っている)感覚は、すべて、より高次なものと連動し結びついているという考えを「コスモセラピー」で提示している。もしそうならば、どんな感覚でも、その感覚を極めることを通じて、上位の次元に参入することができる。感覚はすべてその道を持っているということになる。
アロマテラピーは嗅覚、オーラソーマとかは色など、もっぱら感覚を使うものだが、割に古いカバラ派みたいなわたしは、というよりもグノーシス的な思想の傾向のあるわたしは、こういう感覚的な手法については、そこに大いなる希望を持つというほどにはなれない。古いカバラ派というのは、つまり映像にも言葉にもならない、まったく感覚的な印象を持つことのない純粋な意識の働きこそが大事だという考え方だ。まったく感覚を使わないで認識することができるものがあるのか、と不思議に思う人がいるかもしれないが、もちろん感覚依存に生きていれば、それはできないことだと言える。霊的なヴイジョンは映像として認識したりする。なので、それは感覚を借りて認識していること。純粋知覚はそういうものを使わない。こういうカバラ派は、だから太陽の光のもとの世界は暗黒であり、光のない世界は、むしろ輝きの世界であるとみなす。

ズスマンの場合、シュタイナーと同じく、特定の感覚は、もとの本質とはつながらないものもあるということを考えるので、たとえば、水瓶座に対応する嗅覚は、未来の人類においては、そうそうに退化すると主張した。感覚的な嗅覚はなくなり、非物質的な嗅覚は残る、と。それは善悪を判断する時などに使う「価値の嗅ぎ分け」みたいなものとなり、第三の眼と連動する、と。
ギュンベルのように、感覚はすべて本質とつながっているという説と、シュタイナー、ズスマンの、感覚の特定のものは、地上的に孤立したものであり、本質からはかけ離れているとする説は、結局のところ、世界を認めるか、それとも否定するかということに行き着く。空海は、本質は感覚的ではない。だが、本質に至るには感覚的な道をたどるしかない、と言い、このあたりをけっこう曖昧にする。たとえば中沢新一は、グルメは人間を堕落させると主張しているが、これは味覚は本質とはつながらない。それは孤立しているということを言っているのと同じだ。

シュタイナーのように、12サインを12感覚に対応させるのならば、結果的に、この12サインすべて、12感覚すべてを統合的に発達させる必要性が出てくるのは言うまでもない。わたしはいま、カメラにハマっています。これは見たものを切り取る道具で、つまり視覚ということについて、いまあらためて考えているということです。視覚は思考に従って制限を受けるので、誰でも見たまま、無脚色で何かを認識するということはできない。言葉にないものを、わたしたちは映像として認識できない。黒船が来たとき、多くの人はそれを視覚的に認識できなかったと言います。言葉の辞書の中に、それに該当するものがなかったからです。トマベチが料亭に招待したフランス人たちは、目の前に置かれた香炉を視覚の中に捉えることができなかった。辞書の中に香炉がないので。

あらゆる次元のものが、ここに重なっているが、しかしわたしたちはわたしたちの思考によって、このレイヤーの多層性を認識しない。解像度に著しい制約があるということです。
その限界をできるかぎり、可能なかぎり拡大するということを、写真撮影で試みるのは面白いかもしれないです。大地は物質的な皮膜、つまり鉱物に対応し、植物はエーテル体に対応する。ギュンベルも、シュタイナーの、肉体は鉱物を、エーテル体は植物を、アストラル体は動物と対応するという思想に従っているのだが、ネットで見ると、写真の作例には、花の写真を撮るというのが非常に多いです。岩を突き破ってまでのびてゆく植物は、物質的な肉体に従属しない、その範囲をこえて拡大するエーテル体を象徴しており、だから、花を詠う西行法師は、魂が身体から解放されるような体験を頻繁にしていたということはうなづけます。満開の桜の光景は、物質から解き放たれたエーテル体の力強さを示していて、(と言っても、ちょっとだけはみ出しているだけ。)人間は、死をもって肉体から解き放たれるという意味で、桜の満開は、死の匂いを感じさせる。死体の栄養を吸って桜は色が鮮やかになるということからすると、墓地の桜は濃い色で咲く。