2014年12月21日日曜日

20141221 森博嗣「孤独の価値」/三次元ホロスコープ中級しました

森博嗣の「孤独の価値」というのをキンドルで読みました。個々の部分は、ここまでツメが甘くていいのかと思いました。「子供かっ」と突っ込みいれたくなるような。たぶん、もうすでにやる気ないんだと思います。が、考え方としてはとても良かった。共感できる。
で、わたしもモンテーニュかエノクのような暮らしをしたいと言いつつ、なおリタイアだと言いつつ、どんどんその反対に進んでいるように見えるの で、2015年は軌道修正したいです。
いまは大阪の講座の帰りの新幹線だ。
森博嗣の孤独、孤立ということと、恒星をベースにした世界観は関係があります。そのことを、わたしは今日、講座の中で説明したんです。


占星術の惑星を軸にする生き方は、人間の生き方と言わず、準人間あるいは人間準備段階といいます。なので地球を投影した太陽星占いも、人間レベルに達しません。人間を哺乳動物化します。人間といえるのは、惑星を全部あわせた全惑星レベルのみです。
それぞれの部分的な要素はサインの影響があるが、全体としては、特定のサインの影響はないとみなすことも大切です。

森博嗣は、多くの人はマスコミのプロパガンダとか、宣伝イメージを信じ込んで、嘘の価値観の中に住んでしまうといいます。これに染まらないようにするには、孤立する必要があるけど、単なる物理的な孤立は問題となっているわけではなく、考え方の自立性が必要で、これは全惑星意識でないと実現しない。
惑星の相対性に振り回されないためです。そのぶん意識の密度が高くなるので、集中力が必要です。

森博嗣が言う例としては、仕事は楽しいという宣伝をして、若者は仕事は楽しいと思い込んでしまう。で、実際に就職してみると、苦しいばかりで、こんなはずではなかったと挫折感を抱くというのです。なので、はじめから仕事は楽しくない、苦しいと言っておかなくてはならない、と。
仕事が楽しくなるのはごく一握りで、しかもそれは自発性を発揮しないかぎり楽しくはなりません。
たいていの仕事は、言われてするわけで、自分から開発しているわけではない。なので、仕事は楽しいはずはないです。
わたしは10代終わりとか、書店にいたとき、こんなゆるい退屈な時間が続くと人はだめになるんではないかと思いました。だいたい学校の授業の時に、授業を無視してドストエフスキーとか読書していたのも、密度のない時間をだらだらとすごすのが耐えきれないと思ったから。それはその授業をしている先生にも言いました。先生のやってる授業はほんとにくだらない、と。先生はそれが理解できなかったみたいです。

で、全惑星イコール太陽かというと、違います。これは皿を割って、その部品を全部集めたものが全惑星意識。太陽は割れていないもの。なので、たとえば、イメージとしては、0.9999999999と1の違いがあります。

恒星は太陽と等価。惑星の惑う星としての相対的な人生から、ひとり輝く生き方を作り出すには、太陽あるいは恒星に生き方の軸を移動させる必要があります。そのための土台として、全惑星意識が必要なんです。

今回の三次元中級講座は、このマップを作ってほしいということを参加者に要求したので、これは中級でなく上級ではないかといわれました。
でも、それをするには、実はブレイディの恒星では数が少なすぎる。
レベル6の階段では、アクルックス、アケルナル、ファクトの三つしかないし。
梯子を作るための、辞書づくりをする必要があります。
それに恒星の意味の一覧表あっても、これは単なる言葉の座学になってしまうので、恒星を実感して、それを自分で知り探索することが大切です。知識的なものでなんとかなるわけではないです。

森博嗣はいまは一日一時間しか働かないと書いている。
それ以外は趣味が忙しすぎるらしい。全力で趣味に集中しているらしい。
で、電車には二年半くらい乗っていないのだと。

周囲の人々の影響に染まり、飲み込まれていくいき方は、グルジエフ水素でいえば、48の生き方です。で、孤立して、自分の判断をもって自立的に生きる、すなわち森博嗣のいう孤独な生き方は、24の生き方です。これは環境から頭ひとつ出て、互いに飲み込まれていく生き方に引きずられない。小アルカナカードの、ページとナイトの違いです。

で、この水素24は、思考、感情、身体の三つある。この三つがそろわないと、どれかが弱点で、また周囲の環境的な影響に飲み込まれていきます。
思考の24育成には専門家になる必要がある。専門家であることが重要というわけではなく、専門家になるまでの道のりの間で体験し得たものが大切です。もちろんそこには感情の対処も含まれてくる。
感情の24の育成には、人生体験が必要。実体験でなくてもいいです。虚構でも同じです。あらゆる種類を体験して、特定のでこぼこがなくなるように。何かに期待して失望したりすること、これは感情としては幼いし、依存的過ぎる。これは感情の貧しさをあらわしています。
身体の24は、あきらかに身体の訓練が必要です。もちろん身体は感情にも思考にも影響を与えます。この三つは互いに影響を与え合うが、混じってはいない。シュタイナーの言うように、一度切り離し、あらためて結合する必要があります。

わたしが今走るのがすきなのは、少なくとも、その時間の間は身体の24を継続できるからです。
このグルジエフ的な、意識の振動密度みたいなものの上下の落差を、
たとえば脳内エンドルフィンが出るから、気持ちが良くなるんだ、みたいな平面的なものに置き換えた説明をすることで、このあたりの事情が正常に理解できなくなるんですね。
ある意識状態を作り出すには、それのための能動的な働きかけが必要である。
でも、それは物質のせいだという話になるのです。それがあれば、働きかけはいらない、と。
中身なしで、形だけ取るみたいな考えかたは、実質が伝わらなくなるので、弊害が多く残ります。人間は思考の生き物で、思考は周囲の現実に対してはあまり関心がないので、思考で生きると、人はいつも間違った方向に走ります。そして時間をかけて、また修正します。つねに間違った方向に走るのが日常であると思ったほうがいいです。それを非難してはいけない。それが当たり前。そのくらい自分の思いの中に閉鎖されています。

久しぶりにグルジエフの話を思い出したのは、今日はある雑誌の原稿を書くから。
客観芸術について書いてくれという内容です。

森博嗣がちょっと怒ってる書き方をしているのは、孤独死という言葉で、それは寂しく見捨てられて死んだみたいな暗いものを連想させる。でも、現実は誰もわからない。死ぬ時に一人で死にたい人もたくさんいるし、むしろ死ぬときくらいは姿を消したい人もいる。死ぬときには姿を消すというのは、わたしにはもっとも正常なものに見えます。

実は死んだ後も自由にさせてくれないですね。引き止めないで。お参りに来ないで、と思う人はたくさんいるはずなのに。
孤独は贅沢なもので、それは簡単には手に入らない。作家になって、ひとりで作業してもまったく生活に困らないというところまで行ってやっと手に入る努力の賜物でもあるのに、孤独は否定的に見られているということが、森博嗣にとって気に入らないみたいです。日本は民主主義というのは形の上であって、実質は社会主義なので、ひとりだけ違う考え方をしていると、袋叩きにあいます。それに監視しあう社会が今はできている。これは東日本震災の時に如実に出ていたと思う。
文明の修正機能を発揮する孤独者としてのアウトサイダーたちをもっと増やすべきですが、アウトサイダーの走りのコリン・ウィルソンの話だと、その比率はとても少ない。

森博嗣の本を読んで、懐かしい思いをしたのは、これは、ヘルマン・ヘッセとか、ソーローとか、コリン・ウィルソンとか、しまいに、詩を書くために孤独を押し切ったリルケをどこか思い出すからですね。実際に詩を書けと言ってる。リルケの考えだと、詩を書かないと死ぬ人は書いてもいいが、書かなくても生きていける人は書いてはいけないという話です。谷川俊太郎は、それを意識して、昔、詩の中で、えーと、実は書くことなんて何もないんだよね、と言ってました。









2014年12月15日月曜日

20141214  はじめてのフルマラソン

はじめてフルマラソンに参加しました。12月11日にホノルルに入り、14日の朝五時からの大会に参加しました。時差ぼけはいつものようになかった。

マラソン当日は、朝の3時に集まるということで、前の日は午後七時に寝なくてはならず、早く寝つくには、シータ波に入るのがいいと思い、ファシーズに飛んでみることにした。
そこに行くと決めた直後に、そのことを忘れてしまい、しばらくすると、アメリカのドラマのブレーキング・バッドの主人公の男性みたいな顔を持つ大きな蟹の身体の生き物を見ていた。たぶんこの蟹のような身体がそのまま地図でもある、という。
で、そのときに、はっと気がついた。そういえば、ファシーズに行くんだった、と。
そのあと、乾いたオブジェがたくさんある世界を見ていたのですが、これがファシーズなんだろうか。数年前に見た、水星の世界とどこか似ている感じがある。
そんなことをしてしまった後で寝たので、夢が異様な感じだった。

で、マラソン当日、つまり今日は朝は雨で、走るには雨が都合がいい。呼吸がしやすいからです。
ホノルルマラソンは、具体的な参加方法がまったくわからないので、H.I.Sのツアーに参加したのですが、4時間、4.5時間、5時間、6時間というペースランナーがいて、それぞれのグループにわかれることになっていました。たぶんJTBも、JALも同じやりかたをしているのではないか。で、わたしは4時間のところに行ったのだけど、だいたい30人くらいいました。

出発の合図の花火が盛大に上がりましたが、三万人以上の参加者がいるので、すぐに走ることはできない。しばらくはずっとデモ隊みたいに、ぞろぞろと歩くだけ。で十分くらいしてから、走り始め。とはいえ、計測チップがあるので、実際に走り始めた段階からカウントされます。
ペースランナーの人にずっと張り付いて走りました。

途中、帽子が風で飛んで、それを取り返すために戻り、また靴紐がほどけたのを締め直すこと、二回。合計三回脱落しましたが、またすぐに追いついた。
で、ペースランナーの人の話によると、四時間のペースなんだけど、今日はいつもより一分早いので、最後まで一緒に走っても、ぎりぎり三時間台になりますよという話だったので、そのままゴール一キロ前まで、一緒に走っていました。最後にペースランナーと並走していたのは、四人だけで、最初の三十人くらいはどこに行ったんだろうか。

ネットで見たら、計測チップの記録は3時間58分30秒と、計算どおりです。
EPSONのGPSウォッチで確認していたけど、だいたいペースが一キロ5秒42から44秒の間をずっと正確に走っていて、このペースは、わたしがひとりで走っているときには、だいたい最後にへばった時の速度です。それが最初からのペースだったので、楽でした。心拍数はたぶん140とか150くらいをずっとキープしていたのでは。これは帰国して、EPSONのウォッチをパソコンにつないだら、たぶん正確なデータのグラフが出ます。

だいたいインターバル走みたいに、時々短距離を全力で走ると、その直後に余裕が出て、とても楽になることわかっていたので、脱落した時には、その後、全力で追いついたりしていたので、それもリラックスできる要素のひとつだったと思います。だらだら走るより、時折全力走を入れるといいというのが不思議なんだけど。

で、ホノルルマラソンには、ダイヤモンドヘッドの脇の坂道があり、10キロと、38キロのところで、この坂がきついという話をネットなどで読んでいたので、構えていたんですが、わたしから見ると、これは坂に分類されないような緩やかな傾斜でした。頭の中では、坂というと、紀伊国坂か、赤坂から皇居に向かうコースで出てくる傾斜を想像してしまっていたので、そこからすると、このダイヤモンドヘッド脇は、ほとんど平地に入る部類。
東京の地形がいかにでこぼこしているか、ということですね。東京ではこういうでこぼこを走ると、時には心拍数が200まで上がったりしますが、このホノルルマラソンでは、ずっと150程度の低中強度運動のような状態だったということの違いは大きいです。なんせ呼吸が乱れなかったし。

フルマラソンでは35キロの壁があるという話で、それもどんなものか知りたかったけど、走るのに夢中で見落としてしまいました。
フルマラソンを完走した達成感はあるかというと、そういう感動はあまりないかもしれないのは、いつも走ってるのが、少し伸びたという感じ。
もし3時間半レベルに持っていくのなら、ペースランナーと一緒に走らないことになるのですが、このペースランナーの正確さを自分では再現できないので、均一ペースで走る練習をすると良いと思いました。それはなかなかに難しい話なのではないか。プロの人は、これが機械のように正確にできるんですね。

ネットで、名前検索で、その人のレース結果を誰でも見ることができます。
で、今回は、パンフレット見て、モチダカオリさんが参加するということを見ていたので、というか、宣伝に利用されていたので、データ見てみました。6:42:56と書いてあります。
この6時間レベルの人は、往復の両方が見えるハイウエイのコースで見ていたけど、けっこう苦しそうな人がたくさんいました。七割がはじめての参加というのがホノルルマラソンの特徴で、それは時間制限がないから、というものです。まったく走ったことのない人も参加するらしい。
で、自分が走った後、午前11時くらいから、町に出てみましたが、びっこ歩きの人がたくさんいました。わたしも少し左足が痛んでいます。歩くと普通になるけど、据わっていたり、冷やしたりすると、痛みます。とはいえ、こんな感じのは、何十回も体験しているので、気にならないけど。
自分の場合、スタミナ不足とか息切れとか、それは問題にならないけど、いつも貧血になったら困るということは気になる。一か月に一度とか貧血になるけど、すると直後は歩くことさえ大変になるので。

youtubeで、見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=iIHP-rDSpfs&feature=youtu.be










2014年12月7日日曜日

20141207 昨日はマザーズオフィスで講座しました

新井薬師の教室で、参加者は50人でしたが、この人数が楽々入る教室で、とても広いです。前日の夜に宮川さんがロンドンから帰国して、まだ寝てないという話で、不眠と時差ボケでへたへただという話でした。
でも昔から、というか二十年以上前の記憶ですが、宮川さんも中安さんも、顔に力が入らないというか、ふたりとも、気抜けした顔をするのが特徴なんです。だから、ぼうっとした顔をした宮川さんを見ても、これはいつものことだと思ってしまうんです。
顔に力が入らないというのは、自己主張をしないということでしょう。俺が、わたしが、という主張をしないんですよね。それがマザーズオフィスのひとつの特性ですかね。
で、ブラバツキも、シュタイナーも、獅子座と水瓶座の180度があり、これをわたしは、「壮大な大風呂敷の宇宙像」というふうに言うのですが、マザーズオフィスのチャートも、獅子座の水星と水瓶座の木星が180度で、講座の3ハウス、9ハウスにあります。宮川さんも、金星と冥王星が獅子座、水瓶座で180度です。宇和島派かどうかわからないけど、宮川さんの講座では、シュタイナー教育という部分でカットされたシュタイナーの壮大な世界観は、ちゃんと出しているそうです。
わたしも月、冥王星は獅子座、水瓶座で180度です。
こういう場合、シュタイナーの、昔、大地も空も海も分離しておらず、流動的な世界の中で、人間は人間の形をしておらず、四肢を使って泳いでおり、男女の区別なく、言葉もまだ発明されていなかった、というような話も出てきます。で、こういう発想だと、日本の天皇も、初代から三代くらいまでは、人間の形をしておらず竜の形をしていたという、先代旧事本紀大成経の話も、わりにナチュラルに受け付けられるのです。

中之島の朝日カルチャーが参加者60人だったので、新井薬師のそれも、あまり人数的に変わらないですが、このあたりの人数で講座するのは、かなりリラックスした感じになります。
30人くらいまでなら、ひとりひとりのチャート読んだことあります。50人とか60人は、もう個人を扱うのは不可能です。
なので、個人サンプルはしないよという姿勢で話をするのですが、しかし中之島では、説明するために個人題材が欲しいということで、ラクシュミの図を出したわけですね。「こんな個人的な題材の例についてずっと話していていいんか?」とみんなに聞いたのですが、みんな黙っていたので、ラクシュミの話が続きましたです。
マザーズオフィスでは、来年の日食の話も入りました。
ゆっくりじっくりと、人為的な要素と、自然的な異変の両方で、日本の輪郭はじわじわと壊れていくよ、というような内容も言ったのですが、これは主催者の宮川さんが、そもそも日本にずっと住む気はない、という姿勢なので、わりに自然に受け入れられた話題です。ピアノや冷蔵庫は空中を飛ぶので、頭にぶつかると怖い。なので、持つのはやめようとは言えないけど、ライトな生活を目指すのは、未来的にはいいことです。
何かあったら二週間で移動できるような生活をしよう。火山大国の日本では、そもそもそれが本来です。

こないだの渋谷の検診では、わたしの身長は171.5センチでしたが、ずっと170センチだと思っていました。で、これは骨盤とか筋肉の調整、姿勢の調整をしている結果だと思います。インストラクタにこのことを言うと、「もう少し伸びますよ」という話だったのですが、すると、適正体重とか計算しなおしです。

2014年11月30日日曜日

20141130 大阪城の周囲

心斎橋からタクシーで、大阪城に行きました。
五時半くらいにタクシーに乗って、着いたら、まだ暗くて、コースがいまひとつわからない。初めての場所なのでよくわからない。けど、明るくなるにつれて、大阪城の周囲を回っていたことが判明。もう少し広い大阪城公園を回るコースがあることを発見。15キロ走りました。
コースがわからない時には、ときどき走ってる人がいるので、その後ろをついて走ればいいんだけど、たいていの場合、わたしが追い抜いてしまうので、先がわからなくなるのです。つまりみんなわたしよりも遅いペースで走ってる。かといって高校生とか大学生くらいの年齢の人が走っていると、こんどは早すぎてついていけないことも多い。

行きのタクシーで、運転手さんが、自分も走りたいけど、どうやって始めたらいいのか、というのを聞いてきた。私の場合には、骨折して、走りにくいだろうということが原因で走り始めた感じ。体育館のインストラクターも、わたしの右足首を柔らかくしようとしているけど、これがなかなか柔らかくはならない。
いずれにしても、大阪城の周囲のコースは、広くて、非常に良いです。でも、反対に皇居のようにでこぼこしていないので、練習にはなりにくい。皇居にいくまで、道はあがったり下がったりと、東京は傾斜した道が多い。大阪城周辺はコースが良すぎて、神宮外苑と同じく、自分がハイスピードで走れるんだと錯覚してしまいます。

今日はカイロンだ。
カイロンの近くにはスタバがない。
なので、カイロンが始まるまで、今日は、ドトールです。
ドトールのコーヒーはなかなか馴染めない。
スタバばっかり飲んでいるからですね。


20141201

毎日貧血ぽいので、コンビニで買ったヘム鉄飲んでいるけど、効果があると感じたのははじめの二、三日程度で、あとは変わらない感じです。
で、渋谷区の定期健診を受けてみたら、やはり貧血だ。
でも、貧血にはたくさんの種類があって、詳しく調べないと、どういうものかわからないですね。
もしかしたら、鉄摂取はあまり役立たないのかも。
低血圧は治ったけど、貧血はなおってない。

検診の時、朝ごはんは食べないで来て下さいといわれたけど
ほかに来ている人を見ていると、全員、食事してから来てる。
言われたまんま、食べないで来る人はいないようです。
そのおかげで、わたしの検診の時の血糖値は61になっていて、つまり
検診しているとき、貧血と低血糖で、このままここに座っているのは無理ではないかと感じていたような状況です。あと10分したら危ないんじゃないかと思いながら待っていた。
予定の時間に食事をしないと、体が震えるという状態になりやすいのは
つまりは空腹時血糖値が低いからか。
こういうふうに数字が細かく出ると、興味が出てきますね。


2014年11月29日土曜日

20141129 今日は中之島の朝日カルチャーです

で、のぞみに乗っています。乗車率がとても高いです。
中之島の朝日カルチャー講座は今日は参加者は60人なんだそうです。
わたしはあまりマイク使いたくないけど、60人の場合、使ってくださいと言われます。
どのパソコンを持っていくか、非常に迷いました。
プロジェクタで表示するのですが、結局MacBookにしました。
のぞみの中で原稿を書くには、これが一番いいかな、と。
iphone6にしてから、テザリングがかなり安定していてbluetoohでも、途切れにくくなりました。新幹線にはwifiがついていますが、これがスムーズに使えたためしがありません。3Gよりも混んでいるというのか、はるかに遅いです、3Gよりも数倍。

明日は大阪カイロンですが、午前10時から午後6時まで続きます。
で、最近、このくらいの時間が続くと、途中で血糖値が落ちて、ペースが崩れます。
だいたい2時とか3時あたりにそうなることが多いです。
こういう場合、ソイジョイはほとんど効かないことがわかった。ウィダー
ビタミンがいいのかな。
血糖値が落ちたり、あるいは心拍数が200以上になったりすると、自分がどこかに立っていて、何かしているという着地感にぐらつきが出てきて、なんとなく浮遊感というか、迷走状態の中に入り込んでしまいます。
トレイルランをしているとしたら、こういう時に崖から落ちそうになったりするだろうな。講座の時には、思考がそこで止まります。



2014年11月24日月曜日

20141124 また少しばかり体温が落ちている

今日の朝測ったら、体温は35.3度でした。最近少しずつまた低体温になっています。理由はよくわからないのですが、体育館のインストラクターによると、筋肉が疲労すると体温が落ちるそうです。毎日25キロとか30キロ走っているから自分で気がつかないうちに筋肉が疲労してるのかもしれません。何か対策が必要です。

今日は13800字程度書きました。毎日このぐらい書くと、予定の本はスムーズに出来上がりますが、しかしながらたくさん講座をしているので毎日このぐらい進むとは限りません。ともかくたくさん講座があるので、そうなると書けるときにたくさん書いておかなくてはならないということになります。

11月25日、火曜日はアルカノンで、数の原理で説明するタロットカードという講座です。最近この数字の原理で説明するタロットというテーマで、講座をして欲しいという話がここ以外でも出てきます。

2014年11月22日土曜日

20141122 分厚いのを書くことになりました

いまから書きはじめる本は、全500ページで、一ページは二段組、上600、下600という文字数です。つまりトータルで60万字で、これを三ヶ月で書きます。
でも、もうひとつ書かなくてはならないのはあるし、きっと、近いうちに、もうひとつ書くことになると思います。
かなり背負い込んだ状況ですが、コント55号の二郎ちゃんみたいに、ツルハシ抱えてないと、まっすぐ立てないみたいな感じで、本を抱え込んでいないと、リズムが作れないんです。
それで、今回の500ページ本は、コラムをいろんな人に書いてもらうことにしました。また、いつものように、グーグルドライヴを活用していくことにします。わたしが400ページ。コラムが100ページくらいの比率でしょうか。
スケジュール的には、人から見ると綱渡りみたいな感じですが、これがわたしの平常です。

マザーズ・オフィスで、二十年ぶりくらいに講座しますが、どんどん講座が増えているので、プロジェクタに接続するパソコンで、文字が書けるようにしました。ペン入力のできるタブレットパソコンがあれば、そこにフリーソフトの、JikagakiDesktopをインストールして、画面にそのまま手書きできます。
たとえばホロスコープを表示して、そこに書き込みもできます。
講座する人はたくさんいると思いますから、わたしは、教える人には、この方法を採用することをお勧めします。
以前は、ワコムの専用ディスプレイなどを使っていましたが、いまでは、ウィンドウズの8で、手書き入力できるのがあれば、それが気楽にできます。
このあたりになると、ペン入力が正確で早いSurface Pro3などがとても適しています。Ipadで、ペン入力をしても、反応がかなり鈍い。でも、Surfaceなどでは、早書きにらくらく追従します。いま一番安いSurface pro3は、i3版が、99000円くらい。けっこう安いし、実用的です。

EPSONから、腕時計型で心拍数が計れるGPSウォッチが出て、みんなが狂ったように買い換えています。LEDを使って血流を監視する方式です。これで計ると、今週の水曜日あたり、最後の10分くらい坂を上がっているときに、わたしはずっと心拍数が200超えていて、これはなかなかひどいですね。実際つぎの日まで、後遺症があった。で、パソコンにつなぐと、データが保存され、心拍数の推移とか、速度の推移がそのままグラフに表示されます。






2014年11月16日日曜日

20141116 昨日は三次元ホロスコープ東京講座

文化服飾学院の出版社、文化出版の主催する家庭クラブ会館というところで、三次元ホロスコープ講座しました。わたしのところから歩いて15分で、大変に近いです。代々木の駅前の、新宿に向かう斜めの道を歩くと、すぐに着きます。この場所がとても気に入りました。

参加者は25人くらいいて、ひとりひとりのチャートを読むのは、ひとつのポイントのみになりました。25人をひとりずつ読むというのは、かなりすごいですね。
三次元ホロスコープ、あちこちでしていますが、基本的に参加者は多いです。

で、参加者の印象だと、恒星パランよりも、このほうがリアルという話でしたが、実際に、個人的にはわたしもそうだと思います。とくにハウスを採用すると、もっと身近です。こんどはアーノルド・ミンデルみたいに、身体方位にこれを活用した展開をしたい。わたしの場合、朝目覚めて、右後方の方向に、九尾の狐が張り付いていたという話をしました。つまりわたしは少し左に傾いて寝ていた。で、わたしの図では、アルゴルは、この右後方にあります。

ここ最近、冥王星と火星が合だったせいか、火星ねたが多く、昨日も、火星の質問が多かった。これはわたしが、スコット・ジュレクを例にして、太陽と火星の180度は、太陽が火星を触覚として利用する。つまり太陽は自分の意識の手ごたえに、火星の領域のものを選ぶという話をしたことも関係あります。運動している時の苦しいとか楽しい、あるいは高揚感とか、そういうことを抵抗体=触覚にして、太陽は自分を意識する。それに火星は、いつもの自分よりも、さらに拡大した方向へ、マクロコスモスへと向かう。個人の可能性を少しずつ広げるには、火星がキーワードになるという話をしたからということもあります。

もっと突っ込んだ応用編、そろそろ書きたい。とはいえ、まだ入門編が書店に並んでない。一月くらいになるそうです。

こういう講座の時に、昼ごはんに何を食べるか、というのがまったく判断がつかず、結局どこかで食べるということをしないで、ソイジョイを食べることが多いです。正直何を食べていいのか、よくわからなくなっている。食とは何かというところで、迷路に入ってるんですよ。
スコット・ジュレクはビーガンで、スコットのように極限的な運動をする時には、肉を食べずビーガン食のほうが体力も持久力も高まるというのは当然の話で、でも、レストランではそういうのは珍しいので、スコットのように自分で全部作るというやりかたしかない。そこいらのレストランに入ると、たとえば、スパゲティとか出されたりするでしょ。すると、まさか、これは食べたくないなーと思うことになります。ならせめてサラダ頼んだりすると、こんどは濃いドレッシングが入っていたりする。
つまるところ、わたしは偏食なんでは。

何を食べればいいんだろうね。テレビの深夜食堂では、こないだ、紅しょうがの天ぷらの話題が出てました。紅しょうがの天ぷら、かなり好きです。千駄ヶ谷には、大阪発のつるまる饂飩があります。で、そこには大きな紅しょうが天ぷらがあります。これを食べたいためだけに、つるまる饂飩に入り、そしてうどん屋さんだから、饂飩を頼まないわけにはいかんねと思って、うどんも頼みますが、三本か四本食べて、あとは残します。目的は紅しょうがなんだから、しようがないでしょ。

いま、わたしの体脂肪は8.5なんですが、インストラクタはもう少し増やしたほうがいい、ちょっといまボーダーラインですよ、と言うし、しかしタニタのデータ表だと、少ないほうがマラソンとか長距離では記録もタイムも伸びるということもある。全盛期の高橋尚子は、体脂肪3.5だったので、わたしはそんなに少ないほうではないし、増やさなくてもいいのではないかと思うんですが、氷河期には早めに死んでしまうだろうね。
爪は半分くらいの数、内出血で赤黒い。長距離の場合、手術して爪を全部取る人がいるらしいけど、実際、長く走っていると、爪がどこか必ず損傷しています。







2014年11月13日木曜日

20141113 スコット・ジュレク

スコット・ジュレクのEat and Runをキンドルで読んでいたので、スコットの図を、ジオセントリックで出してみました。時間はわからない。

180度のアスペクトは、卵としての静止したホロスコープを割って、前進する、飛び込むという意味なので、このスコットの火星に飛び込むという太陽、火星の180度は、興味深いです。
走りの中に全身で飛び込むわけです。モーエンなら、海王星に飛び込んでいた。
180度は触覚的な鏡というような要素があり、火星の感覚の中に飛び込み、そこに触覚を作り出して、そこから世界を認識するという。

これがたんに蠍座、牡牛座の180度のみならば、閉鎖的な行為です。
でも、そこに水瓶座の木星の横槍が入るので、これが、世界大会とかあちこちに参加する「よそみ」姿勢を作り出していると考えてもいいのかもしれません。
本の中で、走るのは孤独な行為なのに、逆にその行為の中で友達ができたのが不思議と書いていて、つまり予期しない90度の影響で、水瓶座の木星が接触してくるわけですね。
で、火星が牡牛座の初期にあるので、これは生まれつきの資質ということがかなり加わっていて、後天的に訓練するだけでは足りない、先祖からの蓄積によってもたらされたものがあるということです。

運動能力に関してコントロールするというのは、やはり土星、火星のアスペクトですかね。わたしも土星期になって、火星と180度があるために、この運動のコントロールというのが大変に興味が強まった。
Eat and Runを読むと、果てしないロングランは、肉体感覚の制限を突破して、意識が神秘主義的な領域へと拡大する。このクレージーな挑戦がないのなら、誰もこんなばかばかしい長さのランはしないということが書かれていて、よく幻覚を見るそうです。
長距離ランのマニアには、もとドラック中毒者が多いのだそうな。走るのはそのかわりになる。

こういうふうに、火星という運動能力を通じて、(あるいはシュタイナーの言うように、マクロコスモスへの誘いとしての火星)形のない世界へと拡大するのは、冥王星か海王星と、火星のアスペクトだと思っていたけど、スコットジュレクの太陽、火星の180度、さらに牡牛座の初期の火星というパターンは、新鮮な感じでした。
シュタイナー式に言えば、運動感覚は、射手座なので、そこに世代としては海王星があります。金星も。

わたしが走り始めた頃には、10キロくらいでも、拡大意識みたいなものがあった。しかし慣れてくると、もう普通になった。で、昨日、30キロ走っているときに、20キロを過ぎると、いつもの日常意識から拡大したのだけど、たぶん、これも慣れてくると、普通になると思う。
スコット・ジュレクの本を読んでいて、わたしは自分がもしかしたら、長距離ランに向いているのではないかと思った。つまり結局は、変成意識へと入ることと、ランを結びつける考えをしているのだから。身体の耐久性は練習すれば高まる。そして身体的に耐久できる範囲が大きくなるにつれて、変成意識領域は遠ざかり、ますます無理をしなくてはいけなくなると思う。
で、わたしの年齢から考えるに、スピードとか競争をしていくのはあまり意義がない。
そもそも競争する気がない。
なので、ゆっくりとランしながら、どんどん距離を伸ばしていくのがいいのではないかと思った。

だいたいわたしが走りたいと思ったのは、「脳を鍛えるには運動しかない」という本の中で、毎日二時間とか三時間走ってる人がいて、周囲の人がその話を聞くと驚いていた、という内容のことが書いてあり、そういうことをしてみたいと思ったのだけど、今では、もうこれはわたしには普通のことになった。趣味で、毎日二時間半から三時間というのは、わたしの今の状態。もう少し増やしてもいいのではないかと思うし。

大阪の権藤さんは、牡牛座の火星と冥王星が90度で、これはアスペクトとしてはちょっと危険だ。つまりわたしのように、火星と冥王星が120度の場合には、ある限界を超えると、より深いバッテリーに切り替わり、活力が出てくる。
でも、火星と冥王星がスクエアだと、怪我とか事故ぽい感じのところに早めに近づいてしまう。それにスクエアというのは意識的コントロールが効きにくい。バルブの微調整ができない感じでスイッチが入る。

わたしの話に戻ると、一年か二年かかけて、100キロくらいできるようになるといいかな。東京体育館で、いつもサロマ湖に毎年参加してもう28年目の越智利国さんが、いつも決まった人に筋トレを指導しているのだけど、(非公認で)、それにこの越智さんとは、よく神宮外苑で顔をあわせてしまうのだけど、ネットで見ると、生年月日は、1964年4月24日ですね。
チャート作ったので、これものせる




火星は金星と60度のアスペクトがあるだけで、牡羊座の数え20度ですね。盛り上がらないときでも調子が悪いときでも継続的に続けられる度数ですね。
昨日は、アイフォンのNIKE+が、27.9キロでカウント停止していた。理由はわからない。

スコット・ジュレクの出生図を見て、まさか、そんなはずはないと思った人もいるかもしれない。あのクレージーなウルトラマラソンで世界一になった男が、たかだかこれ?と、感じた人もいるかも。
で、わたしは時々ハーモニック講座をしています。
最近も需要あります。なのでhnで説明してみるかと思いました。

どうしても実現したい自己実現のホロスコープは、定番で、ハーモニック7です。
スコットのHN7を見れば納得する人はいるかもしれないです。
出生図は自然体のわたし。HN7はどうしても実現したい、夢の身体です。




冥王星、火星が合です。
しかも土星、冥王星のスクエアをひきずった上での合。
つまり記録破りです。火星、冥王星のみだと限界突破したいということだけど、そこに土星があると、これまでの記録を破りたいという欲求も加わってくる。
タイトなセブタイルがいかに脅迫的に強く働くかの事例です。
この図は、場所も時間も正確ではないので、ASC and Mcとかは無視してください。月も。
やはりクレージーになるためには、冥王星か海王星とのかかわりが必要ですね。









2014年11月10日月曜日

20141110 ipadで、手書きするには

昨日から、心拍計を手に入れて、走るときに心拍数を確認してみました。
というのも、LSDは、運動強度が60パーセントから70パーセントの間といわれていて、この狭い範囲は心拍計がないことには、まったく不明だからです。
指につける製造完了の品物を手に入れました。
で、皇居に向かったけど、キロ5分30秒の速度でも、運動強度が60まで行きません。心拍数も、90どまりくらい。
でも、一時間過ぎたくらいから、走ってる人を追い抜いたりしているうちに、速度がわからなくなり、運動強度が100になったりしました。これを運動強度60台に戻すのは、そんなに難しくないです。これは速度よりも気分の問題ですね。気分を変えると、心拍数はがくっと落ちます。つまりは興奮してはいけないのだった。ふっと自分の位置感覚がわからなくなるときがあり、このときにはだいたい運動強度が100に近くなることがわかった。たぶんこのまま10分くらい続けると、昏倒したりする可能性もなきにしもあらず、という感じだと思います。予想では。できるかぎり100に行かないようにする工夫が必要です。
インターバルは80くらいがいいらしく、これはこれまで心拍計なしで行っていたインターバルよりも、少しだけ遅くするといいことがわかりました。80だと、いつまでも走れそう。あきらかに、全力疾走ではない。
平静時の心拍数は55程度で、ネットをみると、これはスポーツ心臓なんだそうです。いつのまにか、そういう体質に変化したんですね。

原稿を書くときに、最初に気合というか勢いをつけるために、スタバに行きます。そこである程度調子を上げておけばそのあとうまく続きますが、スタバに行かず、ずっと部屋の中に座ったままだと、この心拍数55から60くらいの低空飛行を続けてしまうので、つまりテンションあがらないことに。この低空飛行はあきらかに、副交感神経主流なので、仕事するには、心拍数を上げるために何か工夫したほうがいいということですね。
会社員の場合、会社に行くと、ほかにもたくさんの人がいて、必然的にストレスが増加し、交感神経が刺激されると思うので、そういうふうに気合を入れるという意味だけでも、会社にいく効果はあるのかもしれない。ともかく皇居を走っているときに、抜いたり抜かれたりすると、心拍数が急速に上がることがわかったので。おなじ5分30秒にしても、ひとりで走っている時には、運動強度60になかなか行かなかったのですから。
マラソン大会は、応援の人がたくさんいて、それがいると、挫折しなくて済むと高橋尚子さんが書いています。たぶん、それに乗せられてしまい、持久力がいつもよりも強くなるのでは。人がいるといないとでは、どうも心拍数がかなり違うような気がしてきました。わたしがひとりで走ってるときには、かなりローレベルです。

それで、Ipadを、まるで手書きの手帳のように使うには、細いスタイラスのペンが必要ですが、最近ペン先1.9ミリというスタイラスが販売されています。
おもに二種類あって、
ひとつは、evernote仕様のJot Scriptです。
これはPenultimateという手書きアプリと連動して使うものです。そのまま自動的にevernoteに転送されます。
もうひとつは、wacomから出ているBAMBOOのCS-600です。
これも専用のBamboo Paperという無料アプリ専用です。筆圧感知します。

で、どちらがいいのかというと、Bambooのほうが微妙に反応が早いです。ただ、わたしは手書きは筆圧が低いので、Bambooの筆圧感知式だと、かなり細くなってしまい、圧力をかけないとスムーズに書けないので、力仕事的な作業に感じてしまいます。たぶんほとんどの人はそう感じないと思いますが。筆圧感知の場合、圧力によって太さが変わるので、まるっきり万年筆テイストで、字面の感触は、とてもレトロぽいです。

紙に書いたノートは、たいてい二度と見ない。そしていつのまにか捨ててしまう。なので、全部Ipadで書いて、そのままevernoteに転送すれば、保存率100パーセントですから、わたしには適しています。色も変えられるし。
こんな使い方をすると、最後に一本残していたウォーターマンのル・マンという万年筆、二度と使わなくなりますね。それに紙のメモ帳も、日々たくさん使うけど、それでも二度と見ない。重要なものでも、そのまま捨ててしまったりする。これも全部Ipadで書くといいと思います。

三次元ホロスコープのことを考えていて、自分の六角形の窓の前面60度の端が滲んでいるというものは、どういう理由でか、最近やっとわかってきた。
わたしの地球上においての知覚には、にじみがあり、そこに他領域の侵入がある。あるいは他領域への侵入がある。

明日は、まだいままで行ったことのないところでの講座です。

来年から、わたしの講座のほとんどを、
朝10時から、午後3時までのコースに変えたいと思います。
昼時間があると、実質四時間です。
これは東京以外でも、そうしたいです。
いままでは10時から5時までで、実質6時間でした。
たぶん、参加者の頭の働き方からしても、これは無意味に長いです。たいていの人は集中力はそんなにないです。

わたしがいま使っている世界最軽量のノートパソコン、レッツノートのCF-RZ4ですが、このままでも打ち間違いは少ない。しかし、このRZ4の良いところは、キーボードよりも、ごくわずかに、淵が高いことです。つまりこの淵に乗せるように何か乗っけると、キーボードには当たらないのです。
で、BluetoothのA4キーボードを、このキーボードの場所の上に乗せると、そのまま大型キーボード入力で、高速で入力できます。
なので、早くしたいときには外付け。そうでないときには、付属キーボードと使い分けができる。
ここまで便利なのは見たことない。
もしかして、製作者はそれを意識したのかな。そのために、ごくわずかに淵を持ち上げる。というよりもタブレットとして使う時に、蓋をそのままひっくり返しますから、キーボードが机にあたったりするとまずい。というところで、少しキーをひっこめているのでしょう。

いままで、シンクパッドなんかでもよくキーボードの跡が、液晶画面についていたりした。それはキーボードの高さがけっこうあったからです。閉じると、そのまま液晶に当たるのです。
大型キーボードも、上に乗せてそのまま使えるとなると、もう完全にA4ノートの意味がなくなります。というわけで、わたしはレッツノートA4と、Macbook Airを売り払いました。

RZ4は、タブレットとしても使用できるので、静電式のスタイラスペンを探して見ます。いま、手持ちのものはあらかた使えなかった。乾電池で、自分で静電気を出すものが最近は出ています。これがいいかもしれないのだが、ペンはいずれにしても、購入して試さないことにはまったくわからない。筆記具は、やはり手に持った感触とか、重さとか、筆圧とか、スムーズ感とか、人によって感じ方が違いますから。万年筆のル・マンはずっと昔、13万円で買った。万年筆はこういうふうにちょっと高い場合でも、数十年使うので、みんな買いますね。ペンはそのくらい、コストをかけてもいい感じがある。










2014年11月1日土曜日

20141101 インターバル走

いまは大阪行きの新幹線の中です。
「誰でも4時間を切れる!効率的マラソンメソッド」川越学著をコンビニで買って読んでからは、
インターバル走をすることにしました。
小出監督の本を読んだときも書いてはあったけど、なんとなく全力疾走をするのが苦しそうで、
避けていました。インターバル走は、有酸素運動が無酸素運動になるくらい、全力疾走をして、
その後、いつもよりも低速なジョギングに切り替えて、そこで、全力疾走の時に作られた乳酸を
逆にエネルギィにして走るというものです。

川越式の場合、1200メートルのうち一キロを全力の80パーセントで走り、残りの200メートルを
、ゆっくりとジョギングすることを五本繰り返すというものですが、体力がなくて、それはでき
ませんでした。ちょうど反対で、200メートル全力、残り1000メートルをゆっくりということに。
しかし繰り返しているうちに慣れて、半々くらいになってきた。
で、昨日は、これを16本やってました。
これはひじょうに楽しいです。全力疾走は、スピードが速くて、いつも速く走らないことの不満
があったのだなとわかりました。できるかぎり早く走るのだけど、やはり16回も繰り返すと、し
だいにもっと速くなりますね。

次に、いつもより速度の遅いジョギングをするのだけど、これがひたすら気持ちいい。全力のあ
とのスローなものは、ほとんど歩く気分だけど、実際には歩いてもこんなに気持ち良くはならない。
で、刺激が強く退屈しないので、気がつくと、もう20キロになっていた。
で、乳酸をスロージョギングで消化するからなのか、いつもの脚の痛みがないです。
非常に気に入りましたが、負担が高すぎるので、毎日するなと書いてあり、せいぜい一週間に一
度程度にしとけ、ということらしいです。
前に、少し早く走りすぎてひどく苦しくなった時、次の日とかその次の日に、その速度がそんな
に苦にならなくなっていたのが不思議でしたが、インターバル走も、そうやって、AT値をだんだ
んと、高くしていく手法らしいです。

いま、新幹線の中で、レッツノートのCF-RZ4で書いています。
これは、最近出た、重さ738グラムあたりだったかの、世界最軽量のパソコンです。
で、キーピッチは16.8ミリしかないのに、17ミリだったR4とかR6などのRシリーズよりも、打ち間違いが少ないというのは、やはりキーの形と、あとはストロークがやや深くて、深く打ち込まないと、文字を認識しないという作りが原因なのかもしれません。
で、いろいろ原稿をこれで書いてみたことからすると、この大きさで、実用的には十分で、ほかに持っているレッツノートの14インチ=A4パソコンはいらないのではないかと思いました。
わりに何も気にしないで、早打ちするのにはA4がいいと思っていたけど、このCF-RZ4で、十分に早打ちできます。

思い出したのは、十数年前は、NECのモバイルギアというのが、プロのライターの人たちには大
変に好評で、というのも、ウィンドウズCEマシンは、HDDでないので、辞書変換が高速だったし、蓋を開けると、すぐに使えるというのが良かったからです。
このモバイルギアは、キーピッチが、このレッツノートと同じく16.8ミリ。
でも、わたしはこれでなんでも書いていました。
今では、ウィンドウズ8は、比較的高速でブートできるし、辞書はもちろんSSDの時代なので、早い。バッテリーもこのCF-RZ4は10時間程度なので、現代のモバイルギアみたいなものです。
出先などはこれひとつでこなすのが良いのではないかと思いました。
ここから見ると、マックブックAir11インチでさえ、どっしりと重いね。





2014年10月29日水曜日

20141029 夢のシナリオのちょっとした書き換え

今日は夢を見ていて、しばらく使わなかった建物に行ったけど、肝心の鍵を忘れていて、入れない。また取りに戻ると四時間かかる、という段階で、目が覚めた。
で、鍵は持っていたことにしようと考え、また眠りました。すると、鍵は持っていた設定で、夢が続き、夢から覚める前に、鍵を取りにいくのに四時間かかるので、その間は外で何か時間をつぶしてくれと伝えていた男性には、二度目の続きの夢の中では、違う男性から携帯電話をかけて、呼び戻してもらうことになった。それがなかなか戻ってこないんだよね。
で、この建物は、旅館のようなもので、ここではかなり純度の高い自然食を出す。味付けは塩だけ、というものでした。これだけでも作れるもんだなと感心しながら、作っている。わたしが経営者だ。中には男性ばかりがいて、ひとりだけ女性いたんだけど、それは朝に追い出してしまい、その女性は、隣の家にかけあって、戻ろうとじたばたしていた。でも無理。

で、思い出したのですが、わたしはこういうふうに、途中で目がさめると、夢の内容を少し書き換えて、また続きを見るというのをよくやっていた。ヘミシンクとか、長い間してないので、というのも、昼は細かくいろんな作業すると、時間なくなってしまい、その余裕がない。
なので、夢で何かするというのがいいです。しばらくは。
途中で少し目がさめてしまう、というのが一番いい。
なんせ毎日寝てるので、わざわざ別の時間を設ける必要がない。

以下のようなメール。

>深川の前日の、走水でも話題にしていたんですよ。
>その、存在が消されて無意味化されるところを、
>光瀬が、百億の昼と千億の夜の中で、ディラックの海に還元されるって、
>描写しましたよね。そこがわたしの、ずっと憧れだった。渇望した時期もある。
>先生が、30年考えてきたってことは、先生も憧れてるんですね。
>わたしがN先生に対立するのは、そこの部分。
>N先生は、消されることにものすごい恐怖してる。
>でもわたしは消されることが救済だと、思ってきたのです。

わたしは憧れてるわけない。
30年考えているというのは、境界線をどこに置くかという問題。
果たして人間の意識って、どこまでをそれと定義できるのか、と。
人間の世界はトリトコスモスで、この下のミクロコスモスは、人間としては意識できない。書いたように、そこには無限の壁があり、無限というのは、意識が働かないということだ。しかしグルジエフは、トリトコスモスの上のメゾコスモスを理解すると、
同時にミクロコスモスに進展する、というふうに上下に意識は拡張すると主張する。
整理するために、このコスモスの種類を列挙しとく。

1.第一宇宙、プロトコスモス。これは創造の光における絶対の領域。
2.アヨコスモス、聖なる宇宙。あるいはメガロコスモス、巨大宇宙を示している。これは創造の光においては世界3と呼ばれ、全世界をあらわす。
3.マクロコスモス、大宇宙。われわれの星雲界。あるいは銀河系。創造の光では世界6
4.デュートロコスモス。第二宇宙。太陽、太陽系。世界12
5.メゾコスモス。中宇宙。全惑星、世界24。あるいは惑星界の代表としての地球。
6.トリトコスモス。第三宇宙。人間。
7.ミクロコスモス。小宇宙。原子。

アリストテレスは、プラトンの四元素の思想を「曲げて」怪しげな四元素論にしてしまったけど、プラトンの立体幾何図形としての四元素、さらに第五元素は、
メゾコスモスとしての、惑星グリッド。そして、ミクロコスモスとしての分子構造などに、そのまま拡張できる仕組みを持っていて、アリストテレスは、それに反して、人間をトリトコスモスの視点に閉鎖するきっかけを作った。その後、キリスト教などは、このトリトコスモス以外は「死物」とみなすようになった。そこに生命はない、と。
もちろん今日の科学も、トリトコスモス以外はすべて死物とみなしている。
トリトコスモス以外を死物とみなすことは、たとえば、地球とか日本とか大地は、人間が住むために存在し、御岳山がいきなり噴火したり、東日本震災があったりすると、それを意外な事件、不幸な出来事とみなすことになる。対応も対処もできない。
わたしたちが見ている天体図は、トリトコスモスの感覚で見ている宇宙で、メゾコスモスから見る宇宙は、まったく違う形に見える。
だいたい、火星に生命は住めるのか、金星にはどうなのか、という議論が出てきた時に、酸素とか水とか、温度とか、生命が住める条件を考えたりするけど、それは生命が発生できる条件でなく、地球に住んでいるかのような人間が生存できる条件であり、炎の中に生息する生き物だってありうるわけです。水がなくても、酸素がなくても、そこに住む生き物なんていくらでも想定できる。

フォーカス27は、人間としての意識として究極の頂点にある。
フォーカス35は、「非人間的な意識」で、つまりトリトコスモスからはみ出している。
ブルース・モーエンの死後探索3で扱っているギャザリング2の知性体ネットワークは、ブルース・モーエンの「解説者」が作り出した投影で、こんなんあるか、と突っ込みを入れたくなったので、こんど実際に突っ込み入れてみます。
で、人間に前世はあるのかということを検証する時に、トリトコスモスの視点では、それを確認できない。
トリトコスモスの真上のメゾコスモスの視点に入ると、ひとつの人生が葡萄の粒ひとつとみなしたような、葡萄の房が見えてくる。その段階ではじめて意識の連続性を確認できるけど、この連続性は、トリトコスモスの視点によって遮蔽される。
世界をプラトンの視点に戻すと、わたしたちはメゾコスモスと、ミクロコスモスに行ける。
以前、モンロー研のヘミシンクの初歩的な会にいった時に、地球を見るというのがあって、で、ヘミシンクの中で地球が「実体を見たいのか?」と聞いたので、見たいと答えたら、地表の芝生をはがすようにして、中に、正八面体の骨組みが組んであった。
シュタイナーは、地球が球体だというのは大きな間違いだと強い口調で断定していたけど、このロシアの科学者たちが言うような地球は巨大な水晶という見え方は、すこしばかりメゾコスモスに近づいたことをあらわすと思う。
わたしが関心があるのは、この領域が、文字の起源を作り出しているという点です。

人間は人間の意識の中に閉じこもった。それ以外を死物とみなした。フォーカス35は、この視点を打破する。
それと、トリトコスモスに閉鎖すると、それを基準に天国とか地獄が生まれるけど、この枠組みは、フォーカス35に行くと、いったん全部解体しないといけない。この解体過程で、問題の「クラスターに吸収できない、本来はクラスタの一員であったが、地球にやってきて、この地球の特殊条件にさらされたあげく、もとのルートを失い、しかも、アーリマンに入れ知恵されて、無条件の愛に戻れなくなった孤立した魂」を切り離すかどうかの判定する基準が変わってしまう。クラスタが親クラスタになると、下限も拡張するからだ。無だけが無限に近づくことができる、というもの。
消滅する人というのは、地獄に幽閉されるわけではないのね。
なぜなら地獄に住むのは、ずっとそこで閉鎖され、苦しみ続ける。
消滅する魂は、この地獄よりも下に行くのです。そして存在そのものがなくなる。
しかしエネルギィ不変の法則から言うと、消滅というのはないので、それは
「有機化できる限界」を超えた領域へ、分散化するという意味です。
有機化というのは、簡単に言えば、もっとも単純な素子の三角形になるかどうか。
この三角形が、意識が成り立つ限界だからです。

N先生が恐怖するのは、わりに想像できることでしょう。
トリトコスモスの中で消滅したかに見えて、より拡張された枠組みの中に入り込む可能性は、まったく新しいリスクのあるものだけど、可能性がないわけではない。
アーリマンも、意味のある意義によって生まれた。
トリトコスモスの中の愛着に生きている哺乳動物的な感性からすると、こんなに恐ろしいことはない。

わたしが言いたいことというのは、
無条件の愛の方向で、一体化していくコースは、ずいぶんとルシファー的なもので、
それは全体性、ユニティに戻るように見えて、実はトリトコスモスに幽閉される。
ということでしょうか。
二極化された思考の中で作り出された概念が無条件の愛というもので、それは実際には、ゼノンの矢のように目標に到達しない。











2014年10月28日火曜日

20141028 先週は二日続きで対談していた

土曜日はヒカリエ、日曜日は深川で対談していました。
ヒカリエは至近距離。深川も、大江戸線で25分くらい、一本で行ける場所だったので
行きやすかった。
それで、対談というのは、いずれにしても、人間相手で、相手のスピードに合わせるので、
それはとても緩い、リラックスしたものとなり、強い集中力を要求されないことなので、
やはりわたしにはこれはレジャーのようなものだと思いました。

直居氏との対談では、直居氏が、終末論の話に持って行ったので、結果的に、その話をせざるを得なくなった。毎度いうことですが、直線時間と円環時間の対比で考えると、
たとえば世界が終わるとか終末というイメージは、直線時間においてのイメージです。
つまり直線時間には、はじまりと終わりがある。
円環型の時間では、円の中にある4つの区切り、あるいはひとつの円から次の円に移行する時に
節目があり、この節目は、それまで続いていたものからすると、終末になるが、
しかし次の円につながるものなので、段差、変化などをあらわすものになる。

直居氏との対談では、終末の話になったけど、
その前の土曜日でも、わたしは、リタイアの年齢になったら、世の中の役に立たないことをしたほうがいいという話は出しました。
つまり直線時間において、老年は終わりに近づくことであるが
円環時間においては、老年は、次の円とかサイクルにつながるための準備などをする。
そのための知識などを提供する役割がある。
それは世の中の合意的現実の世界に貢献することではないという意味です。

で、終末論的な話でいうと、直居氏の口から、とても懐かしいとも思えるような話が出てきた。
世の終わりに、宇宙船が救済のために準備をしている。そして少数の人は、特定の場所に運ばれて、保護される、というものです。
こういう話がわりに話題になっていたのは、70年代くらいでしょうか。
昔はそういう時に、肉体を持ったまま、生身で連れていかれるということをみな考えた。
しかしそれはあり得ない話だと思うので、今の直居氏の話でも、死んだ後で、とか、
死んだ後なんだけど、またもとの肉体に戻される可能性もあるとか、そのあたりが微妙にあいまいなまま、話が続きました。

円盤に運ばれていく、という懐かしい話が出てきたので、わたしはその話の続きをいかにスムーズに運ぶかと考えて、モンローとかモーエンのギャザリングの話を持ち出した。
これは地球大転換の様子を見に、多くの宇宙知性がフォーカス35に集まっているという内容。
様子を見に来ているわけではない。
それぞれ、直結の子供たちが、地球の中に埋もれている。
そのつながりを、子供たちは忘れている。このつながりを取り戻して、
地球経験のエッセンスをレポートするというもともとの役割を思い出してもらい、
本来のルーツに再接続するために、ぎりぎりの至近距離まで来ているということなのです。
地球は極度に過酷な場所なので、ここに生まれると、すべての人が記憶を失うのです。
暗闇の中に沈んでいる子孫を、リトリーバルするというようなイメージです。
これはそれぞれのクラスタへ、再接続するという点では、
直居氏式の、円盤が待っているということに繋がらないことはないと思うのです。

で、モーエンは、このクラスタが回収される時に、どうしても引き取れない魂があり、
この引き取れない魂は、最後の最後には、クラスタは切り離す。
すると、この魂は、存在が消滅する、ということを、死後探索の三巻あたりに書いている。
これはごく稀な話です。
でも、ないわけではないと思われる。
というのも、ひとりの重すぎる負荷のために、クラスタが永遠に縛られるというのは無理だから。
そのあたりの見極めをしなくてはならない。
で、この切り離される魂というのは、存在の両端、無と無限で言えば
無限の部分、有機化不可能な領域に近づきすぎている存在です。
無と無限は、両極で似ている。
無に近づく魂は、つまりワンネスに向かうものたち。
聖なる固きもの、無限に近づくものとは、ばらばら、ちりぢりになる者です。文字通り無限。
無限にまで分解することで、救済される。つまり完全無意識になってワンネスに回収されます。
シュタイナーのいうアーリマンは、こういう存在たちを増やそうとしている。
そこに絶対悪の存在たちがいる。
クラスタは、完全なワンネスに近づかず、その途中にあるもので、まだ生命として
種々の活動をしていく集団意識だ。
でもこのクラスタが回収できない、クラスタそのものを壊してしまいかねない分離者たちは
一足飛びに、無限へと向かい、魂は無意味化され、逆ワンネスとも言える闇に吸収される。
この状況を、ブルースは描写している。
わたしはたぶん三十年くらい、この境界線はどこにあるのかな、ということを考え続けている。いつも、頭の片隅では。
だから、グルジェフの水素96と水素192の境界線のことばかり気にしていたんですね。
意識として存在する。意識として存在しない。その境界線だ。

で、ここにはちょっと特別な条件があって、
グルジェフは、上に進化する意識は、同時に下にも向かうということを述べている。
つまり、わたしはこれを水素の絶対値の拡張という言い方をしたんですが、
グルジェフ式にいうと、地球の生命を感じはじめると、それは同時に原子の生命を感じることになつていくという話です。大を理解するものは、小にも向かうと。
フォーカス27よりも、フォーカス35の生命たちは進化している。
これは言い換えると、27のクラスタが切り離そうとする孤立者を、35は、そうでもない、まだまだ境界線はもっと下にあるよ、と言えるということなのです。
27が否定したものを、35は否定しない。
クラスタが扱える境界線をどこにするか、という見極めは、ひどく重要なのだ。

ちなみに、死後は存在しないという考えかたの人は、死後は存在しないという信念体系に凝り固まっていると考えられているけど、死後は存在しないと考えているのではなく
死後は存在したくないという願望の表れであるケースもあり、
アーリマンが提唱するように、一足飛びに、全存在を消して、無限の闇に吸収されろ、それもまた、逆ワンネスへの回帰だという誘惑に乗った人々でもある。
ひとつの次元は他の次元と断絶があり、
ひとつの次元の上は無。下は無限。
そして、この次元のひとつ下から見ると、その下の次元においての無は、この上にある次元の底辺の無限と結びついている。
このコスモスの中で分解した魂は、ちりぢりばらばらになって無限化し、そして、実はより下の次元においての無の上空から降り注ぐパーツになる。
なので、わたしはブルースの見解には不足があると思っている。
でも、トリトコスモスに住む、わたしたち人間には、この無限の下の世界はとうてい認識できないのです。それは人間の知覚の限界、それこそ無限というつるっとした板の向こうにある話だから。
それを覗きに行きたいと思ったものは、自分がそこに引き寄せられ、もう脱出できなくなる。
自分が塵にならなくてはならない。

絶対者だけが無限に触れられる。つまり神だけが地獄に行くことができる。
神、人、地獄という三つの世界では、人はこの上にも下にも行くことを許されない。
無と無限は連動した開閉弁になっている。




2014年10月21日火曜日

20141021 コーヒーメーカー

アメリカのタンパにいったとき、そこで宿泊したスティーヴのペンションでは、キューリグのコーヒーメーカーが置いてあって、カップを入れたら、そのままコーヒーができるので、大変に気に入って、帰国した当日、夕方に日本についたので、そのまま秋葉原に行って、キューリグのコーヒーマシンを買いました。
これは一度壊れて、またもう少し大型のものを購入した。
でも、面倒なのは、キューリグのKカップのコーヒーは、日本ではあまり普及しておらず、新宿のヨドバシカメラに行かないと手に入らない。
で、ヤフオクで、アメリカ製の、徳用カップというか、ケースだけあって、中に自分でコーヒーを入れるという詰め替えアダプタを三つ手に入れて、使っていました。中に、コンビニで買ったレギュラーコーヒーを入れるのです。

わたしはコーヒーメーカーはあまり詳しくなかった。で、最近、知ったのは、自分でレギュラーコーヒー入れるのならば、紙パック式の、コーヒーメーカーのほうがもっと簡単だということですね。キューリグを使う必要性があまりない。
で、ゾウジルシのものを手に入れました。水を入れて、紙パックを入れて、そこにレギュラーコーヒーを入れ、電源をオンすると、そのまま三分くらいでできる。非常に簡単だ。掃除も簡単。だいいち値段がやたらに安い。

紙パックに感動したので、近所のコンビニで、三種類のメーカーのものを手に入れたけど、だいたいどのメーカーのも同じサイズなので、どれを使ってもいいようです。で、たくさん買いすぎて、これだけでも数百枚あるね。500枚程度だ。

いまは、また新しい本を書きはじめている。また、PDFの初校も、校正しています。
最近本の校正は、紙ではなく、いつもAdobe readerの注釈機能を使っているので、校正用に一本だけ持っていたウォーターマンのルマン100の使いみちがないです。
これ以外の万年筆は全部、新宿のマップカメラのビルの上にある万年筆中古屋さんに売ってしまいました。

何か書くときに、以前なら、紙の本を何冊か開いて、引用したりしていたけど、いまはPDF自炊本にかなりのものが入っているので、Ipadmini、IpadminiRetina 、IpadAirなどを複数置いて、それらを使い分けていけばいいのではないかと思った。さらにキンドルホワイトがあり、こないだ手に入れたonyxのE-inkリーダーもある。スタバで、机の上に、Ipad miniをふたつ置いて開くのもどうかなーと思うけど。でも、本の場合には二冊程度置くことはありますからね。
DropBoxは、無料版でなく、有料会員になったので、かなりのメモリーが使える。で、ここにPDFを大量に入れておくと、どんなマシンでも、そのままpdfをダウンロードして読めるのです。これはかなり便利なものです。




2014年10月16日木曜日

20141016 E-ink ブックリーダー手に入れた/ウエアラブル・ビデオでランニング撮影

おとといくらい、onyxの9.7インチのE-inkのブックリーダー手に入れました。
これは目が疲れなさそう。いま、またプラトンを読んでいます。
プラトンみたいに、対話形式で、抽象的な話をするのは面白そうですよね。
ただ、onyxは、動作速度はとても遅いです。
それとコントラストは弱い。

14日に、ウェアラブル・ビデオカメラで、走る光景を撮影してみました。
http://www.youtube.com/watch?v=-uzmvFiqa3Y&feature=em-upload_owner

19号台風が去った直後なので、風は強かった。
30分過ぎた後の、皇居の光景は、以下のものです。これはパート2ね。
ただ走っているので、退屈かもしれないけど、わたしはなぜか退屈でないです。

https://www.youtube.com/watch?v=bwSYMEEZOng&feature=youtu.be


二番目のビデオのほうは、youtubeの側で、画像の揺れを除去しますか、ということで、除去にしてみましたが、一番目のほうは、そのまま。なので、かなり揺れますが、
揺れているほうが、走っている感じが伝わります。
このパナソニックのHX-A500は、バッテリーが二時間しかもたず、
走る時間をフルで収録できない。
携帯電話充電用のポリマーのバッテリーを持っていけば、記録用のSDカードそのものは
8時間まで撮影可能なので、全部録画できるけど、大げさな装備で走りたくない。
こんなに面白く画像撮れるのならば、あちこち、違う場所を撮影しながら走りたいですね。
ただ都内は信号が多く、信号が多すぎると走った気分になれない。



2014年10月13日月曜日

20141013 今日は、渋谷のアルカノンで、三次元ホロスコープ講座

ですが、ソーラーファイアがないので、
おそらく、基本的にヘリオセントリックの部分が多くなると思います。
以前に、アルカノンのほうで、ソーラーファイア購入したら、できますか、という質問があったのですが、使い慣れていないので、いきなりソーラーファイアやっても、うまくいかないです。
そもそもSGでさえ、使い慣れていると感じたのは、ラクシュミだけで、他の人で素早く扱える人は見たことないです。これらは頻繁に使わないと、なかなかうまくいかないです。占星術のアプリはみなそんなものでは。

で、大阪のレディナダでは、はじめからずっとソーラーファイアばかりで、参加者も、みなソーラーファイアばかり。時々SG使う人がいたら、特殊な人、みたいな扱いなので、
そこでならソーラーファイアでやっても、素早いです。
ただソーラーファイアはかなり癖があり、まずインストールの段階で、挫折する人もいます。
Windowsを英語版にしないといけない。そしてWindows7だと、ファイルがうまく入らないこともあり、出生データを記録しようとすると、アプリそのものが強制終了したりする。
MacBookAirで、WindowsXPをエミュレーターで走らせたときには、この状態で、やはりデータを保存できない。
で、Windows7をインストールして、この中で、さらにXPモードというややこしい設定でソーラーファイアをインストールしたら、正常に保存できるようになった。しかし動作が遅い。
いまはWindows8マシンに、クライアントHyper-VマネージャでWindowsXPを入れて、ここにインストールしています。正常機能するし、速度も速い。
要するに、いちいち英語版にしなくてはいけないので、それが面倒で、普通に使うWindowsに常駐させたくないということがネックになるのです。

Hyper-Vは、マウス操作が、いちいちCtrl+Alt+左矢印を押さないと解放されないので、これが面倒くさいです。

このソーラーファイアのあまり便利とは言えない癖が原因で、大阪のレディナダにはノートパソコンが四台くらい転がっていて、これはわたしの推理では、うまくインストールできないと、新しいパソコンを買って試すということを繰り返した結果ではないか。
たぶん、これを正常にインストールするには、パソコンのマニアのようなスキルが必要なのかもしれません。
でも正常にインストールできて、安定して使えるようになれば、ソーラーファイアはわりに便利です。マップは、astro.comと似たような感じです。

占星術ソフト、ごたごたとすることが多く、いろんな場所で講座している時に、主催者が参加者の出生データをあらかじめ入力してくれている場合がありますが、だいたい、いままで見ていると、三か所以上で、生まれ時間とかかなり間違いの入力が多く、逆に時間かかっていたりします。

昨日も、30キロ走りました。こんどは空腹も感じなかった。マラソンの後に、ビール飲むのが好きという人は多いし、そもそもアースマラソンをしていた間寛平も、マラソンをするのはビールを飲みたいからなどということを言ってますね。
で、わたしは最近、走った後に、炭酸水にはまっています。
これは、ただ水を飲むと、一気に飲んでしまいますが、炭酸水だとそんなに早く飲めないからという理由だったけど、どうも、この炭酸が、乳酸を減少させる効果があるらしく、
つまり走った後の筋肉疲労回復に、少し役立つということらしいです。
500ミリリットルでも足りないと感じることがあるのは、これが原因かもしれない。
そして炭酸水を飲むと、そのあと、食べたくなくなる。なぜなら胃がいっぱいになってる感じがするから。これもネットで見ると、最近は炭酸水ダイエットがあるそうで、この胃がいっぱいになった感じが、ダイエットに効果的らしいです。わたしは知りませんでした。






2014年10月12日日曜日

20141012 PDFのリーダー/火星について

今度出るKindleの新機種も、6インチなんだそうで、高解像になっても、わたしの用途からすると、見にくいと思います。
自炊PDF本を読むのに、6インチとか7インチは小さすぎる。Kindle本ではないので、文字数が可変にはならないからです。かといってIpad airは、目がひどく疲れるので、一時間以上は読み続けられないことが多いのでは。

やはり読書に理想的なのは、E-inkで、この大型サイズを探すと、9.7インチのKindle DXが、2009年に発売され、その後しばらく品切れだったのが、最近少しずつどこかで手に入る状態にはなっている。日本では発売されていないけど、日本語版にするのは可能。
新製品は出さないようで、この古い2009年版のみが手に入ります。

もうひとつ中国のOnyxから、KindleDXと同じ解像度、同じサイズでE-inkのものが出ていて、これは2011年発売。このときはM92で、最新のものはM96。でも、ロシアとかでしか発売していないかもしれない。
これはKindleDXに比較して、SDカードで32Gまで読めるらしく、これだけでも、KindleDXよりは優れている。あるいはmicroUSB端子で、外部の2.5インチのSSDのストレージが読めるならば、それを接続すれば、KindleDXでも変わりはない。
わたしはあまったSSDドライブを、2.5インチのHDDケースに入れているので、これは軽いし、使いやすいのです。

オランダのメーカーからも9.7インチのものが出ているけど、これは手に入りにくいと思われる。

昨日は、30キロ走ってみました。30キロはとても退屈だろうと思って、土曜日、つまり皇居でたくさん人が走っている時を狙って、皇居をぐるぐると回りました。人が走っているのを見ると、退屈しないんです。ただ横並びで走るグループが多く、進路妨害がすごいです。で、走ってみて、20キロとあまり変わらないことが判明したが、さすがに、25キロ過ぎてから、かなり空腹になります。20キロだと水も持っていかないけど、水も飲みたくなります。

表示を見ると、だいたい1930キロカロリーの消費なので、空腹になるのは当たり前か。
しかしいつも不思議だけど、走った後は、空腹感は感じなくなるのです。
スタミナ的にはあまり困らないけど、やはり、足が痛くなるのは早いです。これは、靴が合わない場合には、決定的にダメージあると思いました。だいたい体重の三倍の加重がかかるので、これは大型バイクがのしかかったようなものです。大型バイク、いったん倒れると、起こすのが大変なんです。
昨日はだいたいキロ5分30秒程度の速度で走っていたので、つまり二時間半前後続けているのだから、足に負担がかかると、ずっとこの時間連続してかかり続けるわけですね。自分に合う靴をもっと積極的に探したほうがいいと思いました。
あと、わたしの場合、骨折の影響で、足の外側の筋肉を使い過ぎ、内股の筋肉が弱い。このアンバランスもかなり出てきます。つまり足の筋肉が痛みやすい。
少し距離を伸ばすと、20キロの時にはわからなかったことがいろいろ出てきます。
ならば、やはり42キロも走ってみないことにはわからない。
パーソナルトレーナーは、30キロ走ったときの状況を教えてほしいと言ってて、それによってトレーニングのメニューをまた変えるらしい。しばらくは毎週一回か二回は、30キロにしたい。

動物捕獲の記憶で、42キロ走ると、人類は満足感を感じるという説があって、これは狩猟の時に、動物をずっと追い続けると、だいたい動物は42キロくらいで死ぬらしい。そういうスローな狩猟の経験が集団的な記憶として刻まれているために、42キロ走ると達成感があるというものです。昨日のことから推理すると、この距離になると、かなり足が痛くなるはずで、この対処を考えよう。

基礎代謝があがって今は1450になって、それで30キロ走ると、これに1930キロカロリー足して、3380キロカロリー必要だということになる。これは高校生並みに食べないといけないという話ですね。
でも20キロ走っていた時には、もう当たり前になっていたので、テンションが上がらず、だらだらとやっていたけど、30キロになると、少しまたテンション上がりました。少し無理をすると気力が高まることを確認。

先月書いていた本で、火星のことを説明するのに、達成したものは当たり前になるので、すると火星にスイッチが入りにくいということを書いた。火星をある程度活発に活用するには、今の自分よりも少し無理な状態をチャレンジし続ける必要があるということです。
当たり前が太陽。少し無理をして広げるのが火星。
当たり前が月。少し無理をして広げるのが金星。
という具合です。
シュタイナーは、火星はマクロコスモスへの誘いと書いていて、マクロコスモスへ向かうというのは、ある種リスクがある。火星はこの多少危険なところにチャレンジするとともに、その危機管理にも関係する。地球に外接し、火星に内接するのは、正十二面体で、これは面の部分が五角形なんだけど、このキリスト・グリッドと言われるものは、わりに矛盾しているように見えるのは、地球の防衛網として、地球に外宇宙の外敵が接近しないようにする「編み目」なんだけど、この編み目そのものが、同時に、外敵を誘発するものだからです。
モーエンの先生が、「防衛は必ず打ち破られる」と言っていたのをおぼえているけど、防衛網があると、それを打ち破る目標を相手に与えてしまうのです。

で、人間には現状維持はなく、拡大か、縮小か、どちらかしかないので、いつもの状態を安定して続けようとすると、結果的に、それは縮小、停滞、低下になる。それがいやなら、後は、拡大、チャレンジしかないんです。すると安定するという性質がある。
これを単純に、わたしの運動=火星的ということに結びつけると、20キロを続けるのは、もう後は停滞しかない。わたしはどんどんやる気失う。速度も、同じ速度を続けると、だんだんと低下する。ちょっと心臓苦しいなーと思っていても、少し無理をしていると、すぐにそれが当たり前になって、楽になるからね。

占星術の、全部の天体を均等に使おうという、わたし流儀のスローガンでは、10分の1は、誰でも火星あるわけですから、生活の中で、10分の1は、この「今までからすると、ちょっと無理なことをチャレンジする」ということをしなくてはならないわけです。誰でも。
30代から、自分でこれは無理かなーと思うと、いつもそれをやっていたけど、そういう加減が一番健康なのかもしれない。







2014年10月10日金曜日

20141010 今日は白金の講座の日/Steve Jobs

昨日、村上春樹関連で、テレビで千駄ヶ谷の鳩森神社近辺が映っていました。
で、ノーベル賞を取らなくてよかったと思いました。
村上春樹は、どうみてもラノベ。それはそれで悪いと思わない。読んで面白い。けど、これでノーベル賞取ったら、かなりジャンル違いではないのかと思います。やはりノーベル賞は、大江健三郎とかが取るのが似合ってる。賞をもらったフランス人作家のほうがはるかにふさわしいと思います。

昨年は基礎代謝が1350だったのが、昨日久しぶりに調べたら、1450になっていた。年齢平均の数値よりも高い。やはりトレーナーについて筋肉運動しているからだ。トレーナーはさらに上がる可能性はあると言ってる。レッグプレスも、最近は55キロ自力で3セットできるようになったし。
週に12時間以上トレーニングしている人を、アスリートと言うそうです。ということならば、わたしはアスリートに入るね。

今年はもう、燃え尽き時期にきたので、なんとなくスローにしますが、
来年は、たぶんわたしの打ち出す理論というのは飛躍したものになると思います。
たとえば、ハーモニック62では、水星と冥王星が獅子座のはじめのほうで合だ。
で、この62のもとの31でも、火星・木星と、水星・冥王星はともに合なんだけど、31歳の時に何をしていたか、まったく覚えていない。冥王星は5度なので、無理難題を言い始める。天秤座の壁を、牡羊座が突き破ろうとすることに関しての言及という配置。


いま、思い出しましたが、昨日、沈み行く帝国を読んだので、あらためて、astrodatabankで、ジョブスのホロスコープを見ていた。


活動サインのグランドクロスの激しさが、あの激しい仕事のやりかたになったわけですね。
山羊座と蟹座のラインは、いわば集団的平凡さをあらわします。これまでの前例みたいなもの。
で、それを左右の牡羊座、天秤座が、横に大きな振り幅を与えて、拡大しようとする。牡羊座は限界を突き破る。天秤座はこの牡羊座に対する抵抗体としての境界線。
でも、ジョブスの限界の境界線の天秤座は海王星なので、基本的には境界線はぬかるみで、限界のイメージはあたかも存在しないかのように見せられる。
この蟹座、山羊座に対する新しさのアプローチがあるからこそ、たとえば多くの人が使う電話機とか、パソコンとか普及するものに対しての新しさを打ち出すことになる。

こういう活動サインの強い主張は、静かにおとなしく暮らすことはできないし、静かにおとなしい暮らしをすると、だんだんとおかしくなってくるので、ぼろぼろになるまで活動すればいい。
待ちの姿勢を柔軟サイン、同じことをするのを固定サインとすると、6個もある活動サインは、これまでのものを継続するということが念頭にないので、はまり役の仕事を手に入れられない場合には、たんに壊して歩くだけになる。生活の中で六割が、現状維持できません、何か新たにいじります、というバランスですから。

やはり、こうなるとクックのチャートも比較したいです。
クックは、ずっとジョブスと一緒にいて、補佐みたいなことをしていたけど、この補佐を長く続けていけるということ自体が、活動サインがそう多くはないという証だ。活動サインの多い補佐がいたら、社長は絶対ノイローゼになる。ともかくうるさく、じっとしていないから。

今後、iphone ipad Macbook路線を続けるかどうか、クックの図を見たい。
ソニーが盛田亡き後に、だんだんと今のソニーになるみたいに、アップルも、だんだんと普通の企業になるとは思いますが。

牡羊座を自我感覚、天秤座を触覚とみた時に、
ジョブスの場合のように、天秤座海王星、牡羊座火星だと、触覚=存在の境界線の抵抗がないに等しいので、火星は確実に暴走する。すると、抵抗体としての手ごたえを、スクエアでかかってる山羊座や蟹座のグループに求めることになる。
で、沈みゆく帝国を読むと、ジョブスの権力志向みたいなものも露骨に描かれていますが、この権力志向というのは、集団社会の中で発揮するものなので、やはり水のサインの特徴。
たとえばジョブスみたいに、蠍座に土星があって、蟹座に木星、天王星などがないと、権力に興味がいかないでしょう。このあたりがアップルの閉鎖性とか、守りの強さなどにも出てくる。
権力を必要とするというのは、単独では生活できないタイプ、という意味でもあるわけだし。

年に何度か、経営アストロロジー協会の講座やってて、社長とか会社のチャート見てますが、やはり、会社は社長が支配するものなのかもしれない。

天秤座の境界線、鏡、触覚のラインは、たくさんの種類があって、このどれかに設定することで、それが抵抗になり、抵抗があることで、牡羊座は働きかけの意志を持つことができる。
天秤座の境界線がないと、牡羊座の働きかけは、闇夜に働きかけたような感じになり手ごたえがない。で、同時に、この抵抗体によって、働きかけの意志の総量も決まるので、
天秤座と牡羊座は、お互いに相対的に成り立ち、支えあっている。
抵抗を感じるというのは知覚にあがってくるという意味。つまりそこに注意を向けている。
境界線は数多くあるのに、そのうち、どれかが目に入り、それ以外の多くが目に入らない。
設定した天秤座の境界線によって、その存在の形が決まる。
自分と似たような境界線の範囲に生きている人どうしはコミュニケーションできるし、相手を認識できる。
でも、異なる境界線の場合には、目に入らないどころか、存在さえわからない。
情報はすべてわたしたちを貫通しているけど、この貫通しているままのものは、何一つ気が付くことはないし、わたしたちは吹き流しのようなものだ。
(この中で、どれかを捕まえて意識すると、逆説的な言いかただけど、
この捕まえたものだけが見えず、この捕まえたもの以外のすべてが、捕まえたものを重心にして、知覚できるようになる。捕まえたものだけが意識できない。)

モーエンの場合、牡羊座の太陽と、天秤座の海王星が180度で、天秤座の海王星が触覚となるので、牡羊座の自我は、この境界線上で働くようになり、すると、すぐそばを歩く死者と会話をする、などという話になってくるわけです。そこを知覚の抵抗体にする。
モーエンの場合、ジョブスと違って、この牡羊座と天秤座セットには、蟹座・山羊座との強い関係がない。だから、ありきたりのもの、集団性に働きかける気がない。
以前から、蟹座に天体がないと、多くの人に普及するものは作れないと言ったけど、
ジョブスの場合には天王星と木星のセットが蟹座にあり、これが蟹座世界に新しい機器を持ち込むことになり、普及する電話などができたわけですね。そして、そこに牡羊座・天秤座の絶え間ない、休みない働きかけが、なされたわけです。
この牡羊座と天秤座が忙しすぎると、働きかけのターゲットとしての蟹座の天王星・木星すなわち機器のリニューアルのサイクルが早すぎることになる。













2014年10月7日火曜日

20141007 本はだいたい書き終わった/霊界文字、神代文字

三か月の間、ずっと本を書いていて、これは9月の終りに完了したのですが、最後の本について、ちょっと気になっていた。「女子中学生でもわかるような本にしてください」と言われていたけど、相変わらずの書き方をしていたので、大丈夫かなと思っていた。

でも、昨日、編集の人から、「後半は特に軽いですよ」と言われ、全体にポップな感じです、という感想なので、これが自分としては予想外の反応ではあるが、ちょっと安心しました。
軽く用語説明補足する程度でなんとかなるらしい。
だいたい最近は、原稿を書き終わってからまとめて渡すというよりも、グーグルドライヴで書いて、編集の人に、はじめから共有設定をして、経過を全部見せるというやりかたをしている。

それで、いまは10月なので、そろそろ一年のサイクルでは、わたしの燃えつき症候群の時期に来つつあるので、少しペースを落とそうと考えた。
以前カメラに興味がなくなったと書いたのは、三か月の間、本を三冊書いていたので、この間は、講座以外はまったく何もできず、カメラを持っても、まずどこに撮影も行けないということもあったわけです。だいたい一日二時間とか三時間走ると、外を散歩する気はなくなります。
デジカメは1000万画素いらないという新書があって、確かに高画素になっても、わたしは4Kテレビをパソコンモニターにした画面でしか見ないので、高画素の特徴もわからない。
で、アイフォンは800万画素で、これでいいのではと思ったこともあり、カメラは全部なくなったのですね。一時大三元セットも持っていた。が、これを持ち歩くことは不可能だと思った。
撮影画像の違いという細かい部分は、実はどうでもいいことなんです。

それで、静止画カメラは、興味をなくしたのですが、実はウェアラブルのビデオカメラを手に入れました。いまウェアラブルは、ソニーとパナソニックが代表だと思うけど、とりあえず、パナソニック。で、頭の左側に装着します。カメラ部は40グラムの重さしかない。コントロール部は、腕に取りつける。
これで何をしようかというと、走っている時に、映像を撮りたいからです。

となると、神宮外苑をただ退屈にぐるぐると回るのではなく、もっと山とか、地形が変化する場所を撮りたいですね。前から走っていると、歩く時よりも、景色が鮮明に見えていたのだが、やはり走る時に景色を見るのが一番いいです。
フルマラソンのセドナやホノルルはすごくいいそうです。景色が。
youtubeで、こういうマラソンの動画をのせている人はたくさんいるけど、最近のカメラは手ぶれ防止がかなり進化しているので、走りながらでも画像はそうとうに安定している。
あとは、バッテリーが2時間マックスなので、オンしたりオフしたりしながら撮影すればいいわけです。

象徴文字、秘密文字、霊界文字、神代文字

シュタイナーは「いかにして超感覚的認識を獲得するか」で、ごく一部に、象徴文字というか霊界文字について書いている。
霊界文字と、神代文字には少し共通点がある。
表音文字は、もとは象形文字から来ていて、ものの形を簡略化したものから始まったというのが定説だが、占星術は農耕民族が星を見て、そこから始まったというのと同じく、これは古代人を馬鹿にした考え方で、プラトンのいうアトランティス時代の記述などを考えてみれば、わたしの考えでは、事物の形が出来上がる前に、抽象概念とか、イデア的なもののほうが先に発達したのではないかと思う。占星術の12区分にしても、統計的とか経験則的に、この法則ができることはありえない。まずは理念や概念、イデアなんですよ。

で、事物の形が出来上がるのは、神々が没落した後。つまり「神代」ではなくなった段階で、少しずつ事物の形が固定されてきた。というのも事物が固定する、すなわち感覚が硬化する、というプロセスは、主客が固定的な関係を作らないことには進まないのだから。
なので、事物が固定されてはじめて作り得る象形文字の中に神代文字はないというのが、わたしの考え。

とくに日本の中で、神代文字的な要素を損なったのは、漢字だけど、漢字を使うことで、わたしたちは、意識の深層に入り込むことを阻まれる。
で、神代文字はたくさん記録に残っているけど、この中でハングルのコピーみたいな怪しげなものは除外する。たとえばアヒル文字などは取り除いて、だんだんと精密な形を探していけば、ちゃんと見つかるのではないかと思う。

こないだの、アボリジニの文字を受け取ったということについては、わたしは日本の文字との共通点についても考えています。日本の文字という時に、漢字ははじめから除外する。ひらかなも除外する。すると、いまのところ、カタカナしか残らない。

アボリジニの祖先と、日本人の祖先が分離したのは、いつかな。スンダランドが沈没をはじめた時期から考えてみると、面白いです。
ただ、こういう「地を這うところで伝わるもの」ということにこだわりすぎると、普通の歴史家が考えるようなものになってしまうので、間違った推論に行き着くでしょう。二極化した片方でしか考えないということになるからです。
というより、そもそも霊界文字や神代文字というのは、この「二極化の片方からしか考えない」という偏った脳の使い方を補正するための言語なんですね。

霊界文字や神代文字は、二極化の片方からしか考えないことを補正するためにあり、両方使ったところで成り立つ意識をあきらかにする。
つまり霊界文字や神代文字を使うと、「地を這う伝達」で推理する歴史の流れとは違うものをあきらかにする。となると、わたしが受け取ったアボリジニの文字と日本の文字の関連性を考える時に、スンダランドなどのことを考えたりする必要はないということですね。
霊界文字や神代文字は、二極化の片方からしか考えないことを補正するためにあるので、こんにちの研究者や学者は、二極化の片方からしか考えないのを正当の研究姿勢にしているので、霊界文字や神代文字は、必ず否定される立場にある。とうていそれらは受け入れられないものだからです。

それで、ゲリー・ボーネルとかは、アカシックリーディングに使う文字は、結局自分で作り出すしかないんじゃないかという意見らしいのですが、(身近な関係者に聞くと。)前に聞いた話では、いったん決まった文字も、少しずつ変化するという話だった。
たぶん、このボーネルの言う文字は、霊界文字とか神代文字とは違うニュアンスだ。

で、こないだのアボリジニの文字を受けとった時に、同時に、「この文字と、その後の世界の展開には、ひずみがある。世界を正しいとみるよりも、まずこの文字をリファレンスにして、のちの世界をひずんだものとして、そのひずみを修正してほしい」と言われた内容について考えていたのですが、この考え方は、ヘブライ語のサメクにも関連した話だと思った。

サメクは支柱という意味です。世界の階層について考える時に、中央の柱のはじめの部分、ケテルからティファレトは、女教皇であり、ここには原初の歪、破れ目、砂漠がある。
カバラでいう歪は、たぶんここに関してのみだ。
そのあとティファレトとイエソドの間の柱が、このサメクです。
昔から、これは人馬宮が割り当てられているけど、射手座ということから離れて、人馬というイメージをそのまま当てはめると、ティファレトが人、イエソドが馬の部分にも当たります。

で、太陽系の中でケンタウルス惑星群、太陽系の外でのケンタウルス座が、それぞれまっすぐに通過できない傷をあらわすのですが、これも人馬の絵柄で説明されることが多い。
ケンタウルスのアジェナ、トリマンは足の傷ですからね。
夢の中で、世界の歪という時に、これはケテルからティファレトの間の傷か、あるいはティファレトからイエソドの間の傷ということに関係する。
まだまだある。イエソドとマルクトの間の傷です。
世界が源流からひずんでしまう要素は、この三か所あるわけです。
しかし例の、わたしがよく使うヤコブの梯子、四つの生命の樹の連鎖で考えると、この三つは、互いに入れ替えられるので、全部同じだよと考えてもいい。アッシャーの女教皇は、イェツィラーの節制(サメク)のことなのだから。

サメクとしての支柱は、傷を受けて、柱が割れている。この歪がいろんな芸術の創作の原動力にもなっている。女教皇のギメル、節制のサメク、世界のカードのタウの歪は、上と下の領域が地続きではないことをあらわしていて、身近な話としては、多くの人は、生活のための仕事と、自分がしたい仕事が違う。昔の神道の本を読んでいると、天のアマテラスの代行を、地上の天皇がするという考えがあって、これはギメルが歪なく通っていることをあらわしていますが、もちろん現代においては、天皇はそんな役割はしない。天皇は最近は税金も払っているという話で、これは地上の法則にしたがう天皇なんで、税金を払いつつ同時にアマテラスと通じるのは難しい(かもしれない)。
地上においての経済法則とかは、地上世界が独自に発展した結果のものであり、個人の権利を守るということと連動している。こういうものも、またサメクの傷のひとつでもある。
この点では、傷とか歪はそのままで残しておいて、もうひとつ二重的に、そうではないまっすぐに通ったものを想定しないといけないわけだよ。この両方が必要です。
単純にひずみを修正するというところまでシンプルに考えなくてもいい。

共産党ビルの前に出ている赤旗新聞の一部の記事に、大江健三郎が、阿部首相は、時代精神を侮辱していると書いてるのを見た。でも、わたしが思うに阿部首相が持つ悪意はもっと根深いと思います。大江健三郎は、阿部首相は、戦後のレジームに対する憎悪で行動していると書いているが、実際はそれよりももっと黒いのでは。

ゲリー・ボーネルを書いたので、それで思い出したけど、ボーネルは、原子は存在しないと言った。シュタイナーも原子は妄想だと言ってる。
で、原子論が、その前の四元素論を淘汰したんですが、
まさかアリストテレスの四元素論、つまり四気質論はともかく
わたしはプラトンの四元素論は、未来の科学で復活すると考えています。
物質の最小単位は、あるのか。というと、プラトン式に言えば、ない。
しかし人間が認識できる限界という意味での最小単位はある。
グルジエフは、次元と次元の間には、無と無限の壁があると言ったけど、
物質の最小単位はなくても、人間の知覚の限界として、最小単位は無限だ。
それを人間の視点としてのトリトコスモスの領域から推理すれば、ただの知的な遊びになってしまい、とても自閉症的な行為になってしまうので、ある段階からはやめたほうがいいと思うけど、
物質の究極の最小単位を考えることは、宇宙の極大の最大単位を考えるのと同じ行為で、
どちらに行っても、トリトコスモスが仮死状態になる領域に到達する
わたしたちは、壊れたくないので、そこまで考える前に引き返してくる。



















2014年9月30日火曜日

20140930 スケジュールは、いまひとつ不安な要素はあります

次第に講座が増えて行ってるのですが、このスケジュールに関しては、わたしが把握しているつもりでも、時々、スケジューラーからデータが欠落していることがあります。
実はこないだ、12月予定がふたつ、抜けてました。

で、アル・リシャさんにも、またフェイスブックのラクシュミにも、わたしのスケジュール表を作ってもらっていますが、両方とも、全部乗っているわけではなく、
11月29日も、中ノ島の朝日カルチャーの講座があるけど、次の日に、カイロン大阪もあるとかは、記録には出てこない。

わたしはアルカノン、カイロン、朝日カルチャーセンター、レディナダ、アカデメイア、安川さん、九州カウンセリングセンター、経営アストロロジー協会、宇都宮、青柳さんイベント、川本さんプロデュース、和の大学、ほか(えっ、まだ他があるのかよ)などで講座をしていますが、これだけ数が多いと、やはり、時々とりこぼしあるようなリスクあります。
アイフォンにスケジュール入力していますが、こないだ、消えていたものがあったし。

ここ三ヶ月、毎月一冊という比率で本を書いていましたが、本を書かない隙間があれば、その時に、全部講座を埋めてもいいです。走る時間さえ確保してあれば、それ以外は埋めてもオーケーです。トランシット土星は、しばらくはこれから9ハウスにあります。以前に、進行の月が9ハウスにあった時には、休みありませんでした。

で、今考えているのは、海外のフルマラソンに参加するという理由を作って、定期的に、あちこちの国に行きたい。その予定を作る以外は、講座してもいいわけです。本を書くのは、日本でも海外でもどこでもできる。オクタサトシさんの対談で、原稿書くだけなら、どこにいてもバレないと言ったけど、オクダさんに言わすと、写真に映るTシャツとか帽子とかでバレるはずという話でした。でも、それは写真を撮ればの話で、わたしは写真撮らないし、撮ってもあまり公開しない。たまたまこないだ、五反田でのモーエンとファロンとの写真は映したけど。

もうすこしスケジュールを完全に把握したいです。

iPhoneのiOS8.にバグがあるらしく、今日、iOS8.0.2に更新したら、いきなり、iPhone6の初期化、復元という状態になりました。

トランシットの土星が8ハウスにある時に、"連合"との契約が行われ、わたしはしばらくは地球上において、いくつか存在するフォーカス35センターのひとつを担当することになったので、この契約に基づいて、今後のわたしの数年間の活動の方針が決まっています。あらゆる活動は、これをベースに展開します。ちょっとそこからはみ出しているものは、調整していきます。



2014年9月29日月曜日

20140929 昨日は対談をしました

渋谷のヒカリエで、オクダサトシさんと対談をしました。
対談の場所を探すのに結構手間取りました。
私がそういう風にヒカリエの中をウロウロ探しているのを、オクダサトシさんは目撃していたそうです。しかしながら、話しかけるのは失礼だと思って話しかけなかったそうです。
やっと目的の場所を探したのは、スタート時間にかなり近い時間でした。

今までMacBookProをよく使っていましたが、これはスターゲイザーと、ソーラーファイヤーを両方とも使うにはMacの方が便利だと考えていたからです。
今日は、 Windows8のマシンに、クライアントHiperVをセットアップして、そこにWindows XPをインストールしてみました。英語版にして、ソーラーファイヤーを入れてみました。割と安定しているので、これからはWindows8のレッツノートを講座にもち出そうと考えています。

昨日の対談は、 2人とも座って話していたのですが、私からすると、この座って話をするというのは、わりに不自然な感じがあります。やはり話をするのは立ってが良いのではあるまいか。
座るというのは、のんびりとリラックスするという感じがあって、考えたり話したりと言う体制ではありません。レッツノートを主なマシンとして使うと便利なのは、このまま少し高い場所に置けば、立ったまま音声入力ができるからです。デスクトップではこのように移動できないので不便です。
高さは1 mくらいの台に置けば、立ったまま音声入力というのがちょうどいい感じでできる。ヘミングウェイは、立ったままタイプライターを打っていたらしく、そのための台が壁に打ちつけてあったそうです。やはりその辺が1番いいのではないだろうか。

宮川さんが日本に戻ってきていて、バイノーラルビートを自分で作ってカスタマイズするというような講座をして欲しいそうです。自分用に脳波の調整を作っていくというものです。フリーソフトで信号が作れるので、この講座は不可能ではありません。それぞれ全員がノートパソコンとヘッドホンを持参すれば、そのままできます。確かにα波の時間を少し伸ばした方が入りやすいという人と、いきなりシータ波にした方が良いのだというタイプもいます。私の場合は全部のプロセスが出来る限り短時間の方が向いていて、全て完了するのが5分程度というのはいちばん好みかもしれません。

対談の主催者の青柳さんから、昨日の対談に関しての感想文を雑記に書いてくれませんかという要請がありましたが、わりに私から見ると楽しいものであったのでないかと思います。
獅子座の16度の木星の話をしましたが、
つまりそういう風に仕事としてではなく、ある種のレジャーのような感じで話をしたわけです。
多分この対談はシリーズになったとしても、やはりそういう風にレジャーになると思います。私からすると。
日頃は7時間の講座というのが多いので、そういうところからすると2時間というのは、かなり気楽な時間になります。

2014年9月28日日曜日

20140928 占星術に興味を持つ人たちが所持する根本的な反抗心

占星術に興味を持つ人たちが抱く根本的な反抗心について。

私が思うに、占星術に興味を持ち、さらに深入りして、それを勉強する人たちの中には、根本的な反抗心というものが潜在しているように見える。それは例えば社会のルールには従いたくないとか、自分で勝手に人生を作り出したいとか、あまり順応的では無い要素を持つところが、占星術に興味を持たせるのではないかと考える。

これについて思うのだが、キリスト教の初期の段階でいろんな考え方というものが成立していた。グノーシス派では、世界を創造した造物主という者がいて、それは神とは別個の存在で、そして人間はこの世界を創造した造物主には従っていないという考え方である。動物は造物主が作った。しかしながら人間だけは例外であり、人間は神の側にいて、造物主の近くにはいなかった。

ある段階で人間はこの創造された世界に好奇心を抱いた。好奇心を抱いた瞬間に、世界の中に入ってしまい、そこから抜け出すことができなくなった。それ以後、人間は世界の中に住んでいるのだが、しかしながら人間の本性そのものは世界と同一化していない。
このようなときには、世界のメカニズムというものを研究して、そこから自分を分離する。つまり、自分は世界そのものではなく、世界から離れたものであり、自分の身体の奥深くまで入り込んだ世界を、自分自身から分離するのである。

アサジョリーが、自分は思考では無い。自分は感情では無い。今、私は疲れているが、疲れているのは身体であり、私では無い。だから私は疲れていない。という風に人間のいろんな属性を次々と分離して、それらに自己同一化していない自分を切り出すという行為は、グルジエフの自己想起の手法ととても似ている。
占星術を使った場合に、人生のいろんな出来事は、かなりの比率で惑星というものが影響を与えており、詳しく考えていけば、人間の行動や人生は惑星の作り出す操り人形のようにも見えてくる。これが世界の動きであると考える。それらに同一化せず、自分というものを、そこから取り出すには、世界は動くメカニズムについて考えるツールがあると便利なのだ。

占星術に興味を持つ人たちが、根底に抱く反抗心が無くなっていけば、次第に占星術に対して関心はなくなっていくかもしれない。自分にある程度決まった性格とか運命的なものがあるとしたら、それに従って、同一化して生きていけばいいと言う素直な感情だ。
と言うよりは、そうした条件付けそのものを意識しなくなる。同一化したものは、意識できなくなるものである

占星術に詳しい人ならばホロスコープに抵抗して違う人生を歩むというのはなかなか難しいということがよくわかると思うのだが、そういう場合に、グノーシス的な反抗心を持つ人と言うのは、そうしたコースにあわせつつ、自分自身を分離していくチャンスを狙う。いったん染まってしまったのだから、脱出のチャンスを狙うのである。その場合には行き当たりばったり、自分の性格とか、運勢に抵抗するのではなく、合わせつつ、脱出の場所を狙うのがいいと思われる。
あるサンプルであるが、その人のホロスコープでは働く場所が弱く、しかしながら本人は働きたいという希望があり、このホロスコープの条件を覆すにはどうすればいいかと何度か聞かれ、それが私には面白く感じたことがある。こうした葛藤というのはホロスコープそのものに内蔵されていることが多く、この人物の場合には働くサインの天体と、そうでないサインの天体とがスクエアを作りだしていた。
つまりホロスコープの条件に対して抵抗しているわけではなく、ホロスコープが持つところの葛藤をそのままリプレイしている、ということでもある。つまりホロスコープに従って発言しているということなのだ。
天体作用からの独立というのは、この場合、こういう葛藤、働きたいという衝動、それとは違うことをしている自分など、このループそのものからの分離ということを意味する。

今日、こんなことを考えたのは、コリンウィルソンの能動的な人間は5%存在するという話を思い出したからである。囚人に性格テストを行い、積極的な5%を隔離する。そうすると残り95%は羊の群れのように従順で、決して反抗しないし、脱走も企てない。

キリスト教の場合に、アントロポースとしての人間は、造物主に属しておらず、そこから独立しているという考え方ではなく、反対に、人間は世界の1部であるという考え方の流派もある。この世界の1部であるという考え方はその人の人生をスムーズで素直にしてゆくだろう。科学の姿勢として、冷静で客観的な私というものがいて、それが対象に対して一歩離れた所から見ているというのは、この人間は世界から独立していると言う考え方から来ているのかもしれないが、実際には勘違いをしてしまった。
世界から独立したアントロポースは、二極化されていない存在である。
一方で世界の中に入った存在は、主体と客体に二極化される。
そして通俗的な科学の姿勢としての観察者は、この主体の側にいる。
こうした観察者の存在は誤った姿勢であって、量子論のように、観察者も世界の中に属しているので、現象の一部であり、冷静に対象を観察することなどできないという考え方の方が正しい。
主体は世界の中の部品だ。それは客体と相対的な関係の中にあるので、決して世界を観察することなど出来はしない。

人間は世界から独立しているという考え方と、人間は世界の中の1部であるという考え方の2つの流れは、キリスト教の初期においてYの字型の分岐をして、その後、それぞれが異なる地域へと移動していったと考えてもいいのではあるまいか。古典科学は、人間は世界の1部であるという流派の中で、さらに主体は対象を客観的に観察できるという勘違いをしていった。
グノーシス派の1人、キリストの双子の兄弟の1人聖トマスはインドのチェンナイで死んだ。
彼の流派は、人間は世界の中に属していないという考え方をベースにしている。

観察をしたり、意識化したりするのは、それと自分が同一化しないという方向に向かう。
占星術で惑星の動きが人生のいろんな変化に結びついているということを観察すると、その動きと、自分を同一視しないきっかけが作られる。
気分から自分を引き離す。
感情から自分を引き離す。
行動衝動から自分を引き離す。
こうしたことのために占星術を使うというのは比較的便利かもしれない。
つまり世界と自分を同一化しないために、世界の動きを知る、ということである。
私が見ていると、占星術に関心がない人というのは、星の動きにあまりにも素直だ。
そのことにまったくのところ疑いがないように見える。実際に抵抗する理由なとありはしない。
無意識な場合には従属し、意識的な場合には分離する。
キリスト教の2つの流派のように、どちらに属するかによって、占星術が意味を持ったり持たなかったりすると思う。

エドガーケーシーは、 12歳のキリストが女性教師に連れられてアレクサンドリア図書館に行き、そこで占星術を勉強してきたと言うのだが、これはグノーシス派的なキリストなのかもしれない。
シュタイナーによれば、 2人のキリストがいて、彼らはやがて一緒に住むようになった。
グノーシス派によれば、キリストは双子の兄弟がいたという話になる。
これらは同じ話ではないのだろうか。
それが後にYの字型に分離した歴史を作った。
つまりはじめふたつがあり、合流し、またふたつにわかれた。
地上は二極化されているので、 1人のキリスト像というものを想定するのは不可能に近い。
真実なものは、かならずふたつに分かれて存在する。
実際はひとつなのだが、地上においては必ず単一の存在は表と裏に分かれていく。

この2種類の考え方は、社会に対しての姿勢としてかなりの違いを見せてくるのではあるまいか。
例えば社会はだんだんと整備されていき、完成された共同体になっていくという考え方は、人間は世界の1部であるという考え方をしていかない限りはうまくいかない。自分と同一化している世界はもちろん平和で進化していく世界でなくてはならない。

カバラ派の一部には、世界というものは、資材置き場であり、それは経験の場であり、進化することはなく、整備されるということもないという考え方がある。たくさんの人たちがいて、やがて彼らは死んで行き、また新しい人が生まれてきて、積み上げたものは崩れて行き、どこに目的を持っているわけでもなく、偶然の中でとりあえずまとめられた共同体である。
こうした考え方は、人間は世界の中に属していないということから来ている。
例えば、東日本震災のことを考えたときに、せっかくちゃんとした環境作ったのに、ある日突然、それがこわれてしまう。しかも科学の成果ともいえる原子力施設がよけい環境破壊してしまう。
社会というものは慎重によく考えて整備しても、 10年後には存在しなくなるかもしれないし、そもそもは社会全体が統一的に進んでいくパイロット波というものを持っておらず、だからどこに行くかはさっぱりわからない。人間は経験のために一時的にこの世界の中に生まれてくるので、つまり世界に染まってしまうのだが、時がくれば手付かずで離れた方が良いという考え方である。

総理大臣がグノーシス派だと、とんでもないことになるだろう。御嶽山が噴火した。本来の日本が蘇って元気になったんだねと言ったりする。おまえはヤマタイカか。日本の山は噴火するのが当たり前だ。それを忘れてぼけっと暮らしている方が悪いのだ、などということは総理大臣は絶対に言ってはならない。

ここまで全部ドラゴンスピーチで入力しました。朝スタバでキーボード入力で原稿書いているので、さらにキーボード入力というのはなかなか大変です。したがって、スタバから戻ってくると、その後は必ず音声入力になります。この程度の文章は音声入力で十分に入力することができるのです。


今日のように、月と土星が合だと、月の感受性が、土星の殻に入れられ、月は硬直して、居心地が悪い。そして、なんとなく気分が悪い。月が土牢に投獄されるから。
その時に、トランシット天体を見て、あっ、今日は月と土星が合だ。それでむっとしてるんだ、と思った瞬間に、この気分への漠然とした同一化から自由になるでしょ。
それまで曖昧な感じで、なんとなく無意識的に、自動的に(月だから。)この気分の中にある。
でも、見ると抜け出す。
というふうに、認識というのは、理解したり、意識化すると、そこから離脱する。
これがアサジョリーの言う、わたしは思考ではない、わたしは感情ではない、わたしは気分ではない、わたしは身体ではないというプロセスのひとつです。そのために占星術を利用しているということです。

世界は機械のように動く。中世の時代に、惑星は冷たい機械時計とみなしたではないか。
意識は、この機械のように動くものの中に幽閉されている。
機械のように動くものと、わたしは同一ではない。
しかしあまりにも多くの人は、この機械と自分を同一化する。
機械はちゃんと見ていないと、あたかも機械でないかのように精巧に動く。
しかしこれは機械だ。
グルジエフが、自己想起練習で、わたしは見ている。その見ているわたしを、わたしは見ている。わたしは、さらにそれを見ているというふうに繰り返すことを提唱したが、
機械を見ていないと、機械は人を飲み込んで動く。
で、グルジエフは、惑星のある組み合わせが発生すると、地上のどこかで戦争が起こると言い、それを避けることのできる人間などいないというが、これは機械作用です。

グノーシス派が、ヘルメス文書で書いていたように、惑星作用について、いかに怒っていたか。その感情を現代人は理解できない。なぜといって、これは飲み込まれすぎているからではないか。それを意識化できないからではないか。
というのも、人間の進化過程としては、グノーシス派の時代とか、プラトンとかアリストテレスの時代の人間は、今日の人間に比較すると、きわめて総合的な視点を持っていた。
今日、この時代の知性を再現できる人はいない。
もっと極端に小さなところでささやかに自由を満喫するという生き方しかできていないので、ヘルメスの怒りとか、理解できないのではないかと思う。









2014年9月27日土曜日

20140927 昨日の夜11時30分の夢、なんでアボリジニ

走る速度をいつもより早くしているからなのか、
体調に異変を起こしています。少しだけ。
で、昨日はいつもより早い時間に寝て、というか倒れてしまったかのようになって
夢を見ました。夢を見た直後、目覚めて、時間は午後11時30分。

アボリジニの、最初の文字を受け取ったというもの。
もちろん、どの形なのか覚えている。というか、これはくっきりと覚えるために
わざわざ、その直後に目覚めたのだと思う。

この最初の文字をリファレンスにして、立て直すべきなのだと。
最初の文字と、その後の環境というのが、ずれがあるんです。
その場合、この文字に周囲を合わせなくてはならない。
この環境というのは、アボリジニとは限らない。
それで、修正すれば、まっすぐの道が立つわけです。

なぜ、アボリジニの文字の夢を見たのか。
これはふたつの要素が影響しています。

1.アボリジニの教えという日本人女性の書いた本を、さわりの部分まで読んだ。
で、80ページの、はじめての原始的生活というところで、ストップしていた。
こんなにありきたりの文章を書く人は、珍しいと思って、なかなか進まなかった。

2.神代文字について、雑誌の原稿を書くことになっていたけど、まだ書籍が書き終わらないので、10月はじめになったら、着手します、と言ってあった。

この世の文字は、この世で孤立した文字になってしまい、これをガラパゴス文字といいます。
本来の文字は、霊界と地上がつながるものでないといけない。
それを神代文字といいます。シュタイナーも霊界文字についてはいろいろ言ってます。
特にゴルゴタの秘蹟の部分のアカシックリーディングに関しては、間違いがないのか
何度もその文字を確認したけど、間違いはなかったと書いてる。

神代文字が発見されても、今日の言語学者は、
二極化された一方の知性のみで判断するようにしつけられているので、
こういう神代文字という存在そのものを、否定します。
つまり神代文字は、二極化された知性を乗り越えてしまう鍵ともなります。
それは学者の分野では認知されません。
認知されないほうがいいと、わたしは思っています。
つまり神代文字は、その起源が怪しい、とお墨付きになります。必ず。

神代文字というのは、非常に中途半端な位置づけにある。
なぜなら、文字を発明し、使うことで、わたしたちの知性は孤立した。
霊界との関係を失った。
しかし神代文字は、霊界と地上界をつなぐのです。
というわけで、境界領域にあるのが、神代文字です。
神代文字を手に入れると、地上と霊界が筒抜けになります。
つまり情報がそのままなだれ込む回路になります。

で、いきなりわたしは、アボリジニの最も重要な文字を受け取ったというか、もらったのだけど、
この時間は、わたしの8ハウスで、トランシットの水星と月が合になっており、もらうとしたら、一番適切なタイミングだ。8ハウスは、継承ですからね。
水星は天秤座の29.09度。月は蠍座の0度00度。
つまり知識が、エーテル的な力に変換される際の部分。
それに月と水星というと、太陽のカードのパスで、ふたりの子供のうち、もうひとりが活発化する。
なんせ夢の中では、激しい流れがあったからね。
グーグルアースの地図のN極が傾斜して、地図が斜めに表示されているような感じを
この文字を基準にして、ぴたっとN極あわせをしてほしい、というような内容でした。
ジョン・ディーのことを考えていたのに、どうしてアボリジニなのか。予想外の角度から入ってきた感じです。




2014年9月20日土曜日

20140920 iphone6 plus

昨日19日の朝に、予約していたiPhone6plusの128Gを、取りに行きました。
9時にいったら、もう10人以上並んでいました。
40分で、私の番になりました。
やや大きいので、打ちやすい、見やすい。
ただ、大きいので、走る時スパイベルトに入らない。
いま、iPhoneで、これを書いています。練習で。
ほんとは、iPhoneの文字入力は、音声入力がが便利。でも、新幹線の中では、しゃべることができない。
さすがに128Gは、思い切り高い。
しかし、いずれは、ライトニング端子に、ハイレゾ出力出来るらしい。
これを、待っています。買収したbeatsのヘッドホンは、わたしが一番バカにしてるものだけどね。



2014年9月18日木曜日

20140918 やはり暑い夏は走りにくかった

夏場、外を走ると、けっこうヘバることが多くて、体力なくなったのかなと思っていましたが、涼しくなるにつれて、持久力が戻ってきたので、たんに夏の暑い時は、外を走ってもスタミナ切れしやすいということに過ぎなかったのか。急速に楽になってきたので、びっくりしました。

パーソナルインストラクターに禁止されていた一日20キロの走行ですが、また最近元に戻しました。毎日20キロです。インストラクターによると、筋肉が疲労して、筋肉が成長しないから、10キロ以内にしてくれという話だったのだけど、でも、10キロには、まったくのところ、爽快感がありません。
5キロ以内にセロトニンが出て、10キロくらいだと、β・エンドルフィンが出るという話だけど、どちらもわからないです。というのも、慣れすぎていて、以前みたいに、高揚感がないです。楽しい気分を作るには、もっと距離を伸ばさないとダメなんでは。
初心に戻って、フォレストガンプみたいになりたいということであれば、一日三時間とか続けるのがいいと思うね。4時間でもいいけど、すると、何もできない一日になります。

この三ヶ月、毎月一冊くらい本を書いているうちに、写真撮影とかカメラということにまったく関心がなくなってしまい、もうカメラ全部処分しました。写真はiPhoneでいいよ、という話になりました。とはいえiPhoneでもあまり撮らないけどね。
で、やはりカメラの何が面白くないのかというと、既に存在する映像をコピーすることしかできないということですね。そこからすると、水晶透視とかヴィジョンのほうがいい。そのほうが面白いに決まってる。カメラを持っていた時も、写真撮影したりして、そのデータはパソコンに移したりしていましたが、肝心の写真を見てないというのが多かった。

神宮外苑を走っていると、いつも出会う中年男性がいて、非常に早いスピードで走ってるんですね。いつも出会う人は数人いるけど、この男性は格別早い。なので、プロだと思っていたけど、たまたま東京体育館で、外部インストラクタみたいなことをしていたので、わたしのパーソナルトレーナーに「あの左後ろにいる黄色いTシャツの人、誰なんよ」と聞いてみたら、サロマ湖100キロマラソンに毎年参加している人なのだと。で、ネットで調べたら、もう28年間もサロマ湖ウルトラマラソンに参加している人ですね。走るには、筋肉を鍛えなくてはならないという本を出してる。

筋肉を鍛えないで走ると、自転車のタイヤに空気入れないままで走るのと同じという話を読んだことがあるけど、このサロマ湖の人も、筋肉トレーニングのプロですね。

ガーミンのGPS時計にも、またiPhoneのnike+にも、オートポーズの機能がついていることに、最近気がつきました。
これは、交差点なんかで止まると、自動的に、カウントを止める機能です。
それをオンにして使ってみると、自分は、自分で思っているよりは案外と早いタイムで走っていることに気がつきました。
いままでのタイムは、交差点でじっと止まっている間も時間カウントしていたのだった。
ということならば、もう少し早いスピードということを練習してもいいのだけど、いままでは、具体的な目標というものがまったくなくて走っていたんです。
目標のない人がタイムを縮めるなんてことは考えられない。
健康法のためにゆるゆる走ってます、という感じなわけです。
大阪の権藤弁護士先生も、わたしの走ってる速度を聞いて、「あれ、それジョギングじゃないやんか」と言ってたけど、ジョギングとランニングの境界線は、一キロ6分なんです。
細かいことを言うと、それで使う靴も違うという話になります。権藤先生はジョギングしてるけど、わたしもジョギングしていると思っていたらしい。とはいえ、ジョギングもランニングも似たようなもんだと思うけど。

なら、時々フルマラソンに参加してもいいのかもと、少しずつ考え方が変わってきました。これ、パーソナルトレーナーがこないだ、「東京マラソンにエントリーしましたよ」と嬉しそうに言ってたことに影響を受けたこともある。
それまで、このトレーナーは、走るのは嫌いだと言ってたのに。要するに無酸素運動の男だったわけです。それなのに、こないだは、ちょっと外練習してきました、とか言ってる。

ちょっと筋肉つける。そしてタイムを縮める。わりにこれは具体的な目標ですね。夏場を過ぎると、多少無理しても、へばらないし。少し目標作らないと、走ることのモチベーションがあまり上がらない時期になってきたということですね。







2014年9月11日木曜日

20140911 わりに講座が多いです

今日は経営アストロロジー協会で、亀戸です。
7日は、祐天寺で、十牛図の講座をしました。

十牛図とエニアグラムは同じものだと前から説明していますが、
これは太陽系の中の惑星全部を統合するのに、役立ちます。
そして十牛図でも、またエニアグラムでも、9の位置は、外宇宙に開いた場所ですが、
そこから外に飛び出すことのできるのは、身体、感情、思考のうち、感情のみ。
飛び出すことができるくらい、感情に力がなくてはならない。
そしてまた戻ってきて、身体と思考に突破力を提供しなくてはならないけど
これは飛び出した先でチャージした力によって、なんとかなる。
まずは飛び出す力です。

太陽系のものを統合化することと、外に行くことは密接に関係があって、
統合化できないと、飛び出す意味もないのだけど、
こないだ話していて、第八図で、主客が溶けて、複数の主体なども出てくるようになり、
これは第二図の牛の足跡と関係があるので、第二図の模索は、バラエティがあったほうがいい
つまり迷いの時間がある程度は長いほうがいい、ということを説明した。

で、この第八図で主体が複数化する時に、それらは太陽系内の惑星の種々の影響が反映されているのかというと、実は、太陽系外の恒星の影響も入り混じっている。
これは9の位置を視点にして、∞マークのように、外と内が反射するために
外のものが、第八図の中に、ちらちらと影になって出てくるのです。
そして主体という防壁がなくなっているから。
それは太陽系内の惑星と類似していない。
結晶が溶けてしまうと、早く次の段階の結晶を作らないといけないので、
第二図はだらだらと伸ばしてもいいけど、第八図は、長々とすごしてはいけない。


三次元ホロスコープと、ヘリオセントリックを書いているうちに、
しっかり12サインに対する解釈とか概念とかが、変わってしまいました。
とくに牡牛座に対する解釈が大幅に変わった。蟹座もかな。



2014年8月27日水曜日

20140827 毎日原稿を書いていると楽しいです

ぼちぼち今書いているのが、終わりの時期に来ました。
でも、すぐ次のがあるので、楽しいです。
先週、新大阪の講座に行った時、主催者の描いた絵が、荒れた海のようで、この感覚、感情の不安定な揺れ動きはどうしたのか、と聞くと、今本を書いていて、この試行錯誤で、大変なんだという話でした。
根底から嵐のようにダイナミックになるのは、本を書いている時の特有の体験であって、
それは書いている人にしかわからないのは当然だ。果たしてできるのか、いったいどうなることやら、という感じは、その行為の中で、エネルギィを掘り出すことになるわけです。外部のどこかにいっても、これを手に入れられない。自分で掘り起こすと手に入る。

最近見たホドロフスキーの「リアリティのダンス」では、お母さんのサラはオペラ歌手で、いつでも歌っていました。で、このサラが歌う曲のトーンは、メキシコのオペラ、カターンの「ラパチーニの娘」にも似ているし、さらにブラジルのバッハ、ヴィラ・ロボスにも似ていると思ったら、ほんとに最後はヴィラ・ロボスの曲を歌っていました。

ホドロフスキーの映画見ていると、ほんとにこの人は精神異常のような感じに見えてくる。で、それは面白い。作品の数が少なすぎる。もっと徹底して映画監督してほしいです。こないだ来日したときは、ほんとにタロット占いしていたらしいです。





2014年8月14日木曜日

20140814 モーエンに会ってきました

今日は、はとバスツアーに行くらしく、その前に、ちょっとの時間モーエンに会ってきました。
今回はETと接触するということも含んだ講座しているそうです。
マカバ体験したことあるかと聞いたら、マカバという言葉を知らない時に
その体験をしたことを話してくれました。
わたしもマカバという言葉を知らないときに、そういう体験のことを話したら、「同じだ」ということになりました。
日本に来た時には講座で忙しいので、それぞれ自国にいる時に共同で作業するアイデアを考えつきました。秋から、それしようと思います。ファロンがかなり古いカメラ持っていて、自動でレンズ蓋が開かないらしく、指で開いてました。




2014年8月13日水曜日

20140813 大画面にした

ずっと原稿書いています。急いで。
毎週、土日が新幹線でどこかに行き、講座して、
それ以外は原稿です。平日にも、わりにたくさん講座あります。

で、前から、デスクトップのパソコンは、大画面趣味でしたが、
40インチの東芝の4Kテレビを、パソコンの画面に使うことにしました。
4Kは横が4000ドットなので4Kといわれています。
だいたいフルHDの四倍ぶん表示されます。

いまのところ、これに対応しているパソコン用のグラフィックボードがあまりない。
しかし少数はあります。
で、昨日、ELSAのGEFORCE GTX750Tiを買ってきました。
安いボードなのに、ちゃんと4096×2160ドットで表示されます。
たぶん、これを使って一番楽しいのはグーグルアースとかでは。
だいたいA4一ページの文章が、大き目の文字サイズでそのまま表示されます。

デスクトップの文字表示は、最大にしないと、よく読めません。

はじめ文字の表示とかマウスの表示が遅くて、使い物にならないかと思っていたけど、
レグザの映像設定を、モニターモードをD93というのにしたら、速度が速くなりました。
まだ、時期的に、パソコンで4Kは早すぎるという意見が多いけど、
実際に使ってみたら、なんの問題もないです。HDMI一本で簡単につながる。ディスプレイポートもいらない。









2014年7月25日金曜日

20140725 進行の新月が過ぎて

進行の新月は、7月十何日かにありました。
本来は、ぼうっとしていると、進行の新月は三年くらいは気がつきません。

で、わたしは新月前の一年、二年はやる気がないといつも説明していますが、自分の体験として言うと、進行の新月が過ぎてから、やる気がありすぎて、自分でびっくりしています。
体温は最近は、36度5くらいとか、それ以上あることもあります。
スポーツインストラクタは、深層筋を細かく指定して鍛え、とくに最近は骨盤の角度にうるさいです。
傾斜角度をミリ単位で指定します。
それは熱が上がることにおおいに貢献したと思います。

で、わたしは、牡牛座の23度の宝石店の度数で、新月が起きて、それは3ハウスの入り口なので、土地の色を見る、土地の資質を見る。土地の奥で眠るものをアクセスする。そして旅だということで、それならば、やはりオーストラリアのアボリジニのソングラインだよね、と思っていました。
牡牛座の21度の書物の一文というのは、概念としてのソングラインでもあるんです。本の中の行でなく、土地の中の行なんだ。それを実際に適用するのが、23度。

で、やはりブルース・チャトウィンだよ、What am I doing here? だよ、なぜって、わたしは18歳のときにランボーにはまったけど、チャトウィンを読むと、ランボーを連想するわけだし、と考えていた。今のわたしにチャトウィンは大いに関係する。彼は牽引力を持っていると思っていた。

どうせチャトウィンが好きなら、今日、今書いている本に、チャトウィンの例題を載せてみるかと思って、チャート探したら、チャトウィンの太陽は牡牛座の22度51分でした。進行の新月のときに、チャトウィンを思い出し、これからチャトウィンだよねーと思っていたら、同じ度数なんですね。




8月25日に、いま書いている本が完了予定。で、その後、10月末までに、違う本を完了予定なんですが、この10月末に書き終わる出版社の担当者が、いま書いている本と、書店に一緒に並べるようなキャンペーンしましょうと提案。で、わたしはなぜか、そのアイデアも思い切り乗り気です。
なんでこんなにやる気になったんだろ。




アリス・スプリングスにいくと、チャトウィンの獅子座1度の冥王星は、4ハウスに入る。土地から爆発するような力がわき上がってくる。そして月も土地に関心を抱く。アセンダントの支配星の火星は、3ハウス、ふたご座で、ひたすらうろつきまわる。


2014年7月18日金曜日

20140718 タブレットパソコン

昨日、マイクロソフトのsurface pro3が発売されました。
これはタブレット型の、ノートパソコンです。
わたしはsurface1を買って、使い物にならないと手放し、surface2を買って、やはり使い物にならないと手放しました。
こんどは使い物になるのかなと思いつつ、昨日入手して、いろいろ試してみましたが、まあなんとか使い物になる気がしました。
なので、しばらくはこれを使ってみます。
といっても、一時的に持っていたソニーのtype11と、ナニが違うのか、どこが発展しているのか、さっぱりわかりません。マイクロソフトは、ハードづくりという点では、ほんとに冴えないメーカーだと思います。

ノートパソコンも、マックbookAirも持っているのに、どうしてタブレット型のパソコンを買うのかというと、ノートパソコンはたいていキーボードがついていますが、これが気に入らないです。
Airも便利ですが、マックのキーボードは最低です。
で、タブレットの場合には、本体をたてかけて、キーボードは好みのものが使えます。
USBで接続してもいいし、Bluetoothでつないでもいい。
で、surface pro3を手に入れたことだし、キーボードを五つくらい買ってみました。
手持ちは五つくらいあります。合計で、10個くらい、キーボードが試せます。
surface pro3に付録の、カバー兼キーボードは、本格的に使うには、まったくのところ役立たずです。ストロークが低い上に、勢いよく打ち込みすると、べこべこします。

最終的には、デスクトップ専用のReal Forceのキーボードを使ってもいいですね。これは今のところ、市販キーボードの中では最高品質のものです。
新宿のスタバは、ビジネスマンが多く、かなりの人がノートパソコンを開いて仕事しています。
わたしもここが好きで、ノートパソコンをもって行きます。
で、ここで勢いをつけたら、その後は、どこでも勢いよく仕事が続けられるのです。
スタバで、あるいはルノアールで、Real Forceのキーボード使えたら、これは最高ですね。
でもこのキーボードじたいは、どっしりと重たいので、荷物としては重装備になります。

で、surface pro3を手に入れたもうひとつの理由は、
ペンが正確だという噂だったからです。
わたしは本を書いていると、やはりその中に図形とか書きます。
で、この図形を描くのに、Ipadの手書きソフトを使いますが、ipadでは、Jotなどを使っても、あまりきれいに描画できません。
それにそもそもわたしは、ウィンドウズ付録のpaintを使い慣れていて、どんなものも、これで描くのが一番単純なのだと思っています。
試すと、surface pro3では、ペイントが描きやすく、またone noteでも、比較的まともに文字が手書きできます。いまどきワコムのタブレットはまったく意味がないです。
タブレットパソコンで、正確なペンがあれば、高額なワコムの液晶タブレットと同じです。

one noteは、わたしはしあまり慣れていないです。
いつもever noteを使っているからです。
これから慣れるまで試してみます。

今年は、前半は、体温も低くなり、あまり本を書いていませんでした。
で、今は、三冊抱え込んで、同時進行しているので、
こうなると、いつものストレス性世界に入ってしまい、
こうなると、本一冊につき、ノートパソコンを一台、みたいに次々と買い換えてしまいます。漫画家が、いきなり洋服をばか買いするみたいな感じですね。

ノートパソコンは、貯めることはないです。ひとつ新しいのを手に入れるたびに、古いものを手放します。
このsurface pro3の前は、レッツノートのA4型で、5月発売の今年の夏モデルでした。それがもうすでに、古機種になってしまいます。
でも、万年筆を何個も買うように、キーボードを10個持っているというのは、なかなか楽しいですね。ただ、どうもカフェに行くのに、三つくらいキーボードを持ち歩き、入力最中に取り換えるというのは、なかなかへんです。今日はそうやってました。




2014年7月5日土曜日

20140705 今日は、馬堀海岸で、走水神社のイベント

川本さんの企画で、走水神社に行きました。

直居氏と、1130から、三十分くらい対談しました。
どのくらい久しぶりですかと聞かれたとき、十数年と答えていたけど、
これは記憶違いです。
わたしが直居氏に最後に会ってから、23年くらいたってる。

前回の東北での、川本企画講座のときもそうですが、
わたしはほとんど働いてない。今日も、走水神社で、数十分話して、
それと直居氏と、三十分弱話しただけで、
わたしからすると、働いてない感覚が強いです。

で、時間が短いので、どうしても十分に説明しきれてないと感じることは多く、
しかし説明仕切るには、数時間が必要だ。
走水神社はかなり元気です。
縦横に走るエネルギィラインの場所が決まったら、そこで回転してボーリングするのを説明しましたが、空中で木の棒をまわして、綿菓子が絡みつくみたいに、回転させるとこってり巻き込むのと、
周辺の情報を振り切ります。振り切らないと入れない。
メブレビーの旋舞は、身体を貫通するH想念帯の信号を振りきる効果もあるわけなんです。
やってみたらわかる。しかし慣れないと吐く。
縦横軸で、座標決定と、その後、回転で、ねじ込むのと、一連の使い方を説明しようと思ったけど、
わかったというまで、説明してないね。
でも、いま書いている本で、しつこく説明します。

明日は九州カイロンだ。飛行機で行き、日帰りです。







2014年6月26日木曜日

20140626 カウンセリングの項目をはずしたのは

問い合わせがありましたが、わたしのサイトの、カウンセリング項目をはずしたのは、はずしている間は、それをする時間はあまりないです、ということだからです。

予定として、七月の前半から半ばに、書き終わりたい本がある。
それと、8月25日に締切になった、予定としては「けっこう長い」本があります。
で、大阪とか九州とかあちこちに講座に行ってるので、
カウンセリングは無理だと思います。とはいえ、そもそもそうでなくても、わたしはあまりカウンセリングしてないんですけどね。一か月にふたりとか、三人とか、そのくらいがほどほどです。





2014年6月24日火曜日

20140624 水晶スクライイング講座はできないか

昨日から、運動のトレーナーはより高度な段階に入りますといって
深層筋を鍛えるモードに入ったので、かなり筋肉疲労が激しいです。いままで使ったことがないような場所を使っているという実感がありますが、ついていくのが大変です。

で、メールを送ってきてくれた人で、海外で水晶透視の授業受けたけど、期待するものではなかった、がっかりだったという内容が書いてありました。

水晶透視は、はっきりと映像が見える段階が理想です。
しかし、それを短期間で教えるというのは、これほど難しいことはないと思います。
で、その準備段階として、イメージがリアルに浮かぶとか、印象がやってくるというものがあり、これはあくまで準備的なものでありますが、それを教える人がいるというのもありでしょう。

でも、肉眼で見る、はっきりとカラーの映像がでる、メガネかけていないのにボケない映像が出る、というのは、衝撃であり、やはりそこまでいかないと水晶透視とは言えません。

で、写真のようにくっきり見るのに、それが物質的にどこかに存在するものかというと、微妙に編集がかかっているというのも、驚きです。たとえば、わたしはある神社をすみからすみまで、くっきりと見ていましたが、それがどこなのか探ろうとして、周囲をすべてくまなく見ましたが、どこにも文字がないんです。普通何か書いてあるでしょう。しかし文字だけがない。作りは完璧。解像度の高い映像。しかし文字だけが抜かれています。

映像をくっきり見るというのは、わたしが知っている範囲では、十人弱、それができているね。
しかしバトラーが書いているように、最長で七年くらいかかりますから、スクール形式にはできにくい。
とくに、わたしは自分で長期的に継続する講座はできないです。
ただ練習するシステムを考案、設計はできるかもしれない。
長く重苦しい領域。
エーテル体を見るというのは、奈落を見ることなので、何か世界の底を覗いたような感じです。
重いです。
そしてこれが水晶を見る時の、初期的な入り口なのです。

2.
どうもその先生は、水晶透視でなく、シンボル読みのようなものだったらしい。

ちなみに、四次元的領域とか死後の世界などを見る時に、
多くの人は、この世の映像と似ていると思うかもしれないし、また似ていてほしいと思うかもしれないが、この世の映像と似ているものは、この世しかない。
別次元は、まったく似ていないので、あたかもこの世であるかのような読み方をできない。

というのは、ともかく、シンボル読みと共通面もあるものとして、五つのタットワを練習として、映像化するというのは、水晶透視トレーニングの基礎としてやりました。
こないだ、大阪では、チャクラの下から四つぶんは、四つのタットワとして見てもらった。
四つぶんだったのは、時間切れもある。
五つのタットワは、ふたつ組み合わせると、25になる。
日本語の場合、母音は5つなので、この五つのタットワと関連付けてもいい。
でも言葉が25よりも多いですが。
エノク語は、19個なので、これを扉にして、水晶透視の領域に入ってもいいですね。



火星は逆行から巡行に戻ったけど、冥王星や天王星とのアスペクトに関わりつつ、てんびん座の15.00度に入ったのは、6月22日あたり。
この現象の例としては、塩村議員のセクハラやじあたりをサンプルにするといいのでは。
いま牡羊座には天王星があり、牡羊座は自我感覚。つまり外に自分を押し出す。もちろん均衡を打ち破って外に。
で、反対に火星があり、この反対の天秤座は、触覚で、
人間は肉体に閉じ込められ、宇宙にはもう戻れないという感覚。
牡羊座の自我感覚が押し出して、てんびん座の、個人の触覚に衝突し、
なお火星はてんびん座の15.00度なので、傷つく体験をします。
天王星は山羊座の冥王星と90度が続き、
山羊座は均衡感覚。つまり立ち位置なのだが、冥王星のこともあり、
いまは多くの人の立ち位置の変更を迫られている。
この立ち位置が変わると、それによって、自我感覚の押し出しも変わり
牡羊座の天王星がてんびん座に向かって押し出したときに、
天秤座では、それが、触覚の被膜を突き破るような損傷を与えるという循環になる。

塩村議員の場合には、わかりやすい例で、やじをとばした議員のほうも、自分の立ち位置をキープできなくなったのは、結果から見るとそういうふうに見えるだけで、
この冥王星、天王星、火星のかかわりの中では、冥王星が「意図の発信者」なので、
立ち位置が変わり、それによって、いつもは言わないことを自我感覚が押し出されるようにして言い出し、つまり何かわけのわからないストレスに誘引され、
そして目の前にいたターゲットに、損傷を与えたというわけです。

こういう場合、馬鹿だねーとか、議員にあるまじきという判断を下すのは、とりあえず当然の見解だが、わたしたちはこういう冥王星、天王星、火星などの作り出すエネルギィの流れに、抵抗はできないですね。

で、地上の三次元世界では、常にどんなものも二極化して、この二極化によって時間の流れ、ストーリーの流れ、方向性、などが生まれることになるので、
地上においては、二極化し、この二極化の「ひとつだけを正」とみなして、片割れ的な世界を作り出す原理が働く。
そういうところでは、塩村議員被害者、鈴木議員悪い、というわかりやすい一方通行的な解釈が成立する。二極化し、いっぽうを表に、一方を裏にして、裏は存在しなかったかのようにみなすのが、地上の法則なので、これを通じて、わたしたちはこの世界に縛られていく。
冥王星がまっすぐ立っていられないぐらつきをおこし、それが天王星に伝わって、前に倒れ掛かり、そのまま、塩村議員のほうにもたれかかって、彼女の皮膚に傷がついた、みたいな展開の時に、ほら、ぐらつかず、まっすぐ立て、というのは、いまのところ無理だったのでしょう。
この場合、火星がキャリアとして、このぐらつきと、自我感覚の突き出しの矛先を、「人を傷つける」という方向に向けた。火星が違う位置にあった時には、もっと違うところで噴出した。

で、この地上においては二極化し、そのひとつが主導権を握るというのが、
ひらかなタットワだと、空の元素から地の元素までの、「あ」から「お」までの絵文字として描かれているのかもしれない。はじめは十字にからみつく蛇だった。これが「あ」
そのつぎに、このからみつく蛇は、ふたつに二極化する。「い」の段階で。
そのうちのひとつは地上に降りていく。力をこめて。これが「う」
下に降りた一方の存在は、地上をはい回って、探索する。「え」で。
そして、そこに自分独自の世界を構築する。「お」

カタカナは、ヘブライ語と同じ、英語圏のサウンド文字なので、図から意味が読めない。
それに比較して、ひらかなは、形態符号化なので、もとが表象文字的で、つまり漢字の単純化みたいなものなので、(途中、借字が仲介媒体になる。)母音の五つは、絵文字として見やすいです。

で、空のタットワにたとえられる第五元素、空をあらわす「あ」のもとの漢字は、「安」らしい。
家の中で、女性が両手を重ねてひざまずいている姿なんだそうです。
守られた中で安心している姿。
上にある家の屋根の象意が、ひらかなでは、「あ」の十字になり、下の「女」という家の中で腕を交差させてひざまずいている女性が、十字に絡みつく蛇のような形に変わる。

わたしがヘミシンク体験の初期に見ていた、ふたりのじいさんは、文字体系のもとにあるふたりの大天使なのだが、ひとりはサウンド文字体系。ひとりは形態文字体系。ここでいう大天使は、民族霊と同一視される種類のもの。
ヘブライ語、カタカナ、エノク語などをするには、サウンド文字体系の大天使側になるけど、漢字、ひらかな、などの形態文字体系方向で考える時には、もうひとりのほうになる。

タットワに入るときに、「ア」から入るのか、「あ」から入るのかでかなり違う。
アだと、これはヘブライ後のアレフのことなので、角のある暴れた牛から。
あ、だと、家の中でひざまづく女性から。
サウンド文字は、波動的な雰囲気から入るので、その点では水晶透視の下地の練習として、エーテル物質のタットワを見る場合には、この形態文字体系、つまりイメージとしてみる方がはるかに楽なのではないか。

地上の物質は、表象と事物の結合で、しかも組み合わせが多層的。
水晶でくっきりと映像を見る時に、地上の物質そのものをそのまま見ることはできないと書きましたが、視覚は思考の反映という点では、誰も、実は地上の物質をくっきりと精密には見ていないということにもなる。
で、地上的な視覚は、事物を先に見て、そのあとで表象にゆきつくのかもしれない。
水晶とか遠隔透視は、表象を先に見て、それに付随する事物を後で見る。
この表象は、もとをたどっていくと、タットワとかエレメンタルになる。
なので、エーテル物質としてのタットワを見る練習は、ピアニストがハノンやったり、走る人がストレッチやったりするのと同じで、見やすくするための、基礎トレーニングとみなせばいい。

たぶん、多くの人が理解できにくいのは、くっきりと映像をテレビとか映画のように見るという時に、この映像は、地上にある固有のものであり、そこに原理的な普遍性はないし、ある風景はそこにある風景で、それは他のどこにもないものだと考え、
この固有の風景なり事物なりを見るというのが、くっきりと映像として見ることなんだと解釈しているからだと思う。
それを覗き見することができるのは、不可能だ、と。

で、地上に降りた「二極化された片方のみ」の事物的な映像を見るのが、わたしたちの感覚としての視覚で、遠隔で見るには、もうひとつのエーテル物質、すなわち「イ」の段階で、分離して、空中に残ったものの側から見る。そうしないと、そのターゲットまで、わたしたちが運ばれてゆかない。
あらゆるものは、エーテル体と物質体のふたつでできているけど、
エーテルの側から見ると、映像には多少欠損とか、あるいは編集が入る。
つまり、エーテル物質は、生命物質そのものなので、そして物質は、その形骸化した死骸、せみの抜け殻みたいなものなので、エーテル物質が希薄な物質は、水晶の映像としては見えなくなり、生命が残った部分が映像として見える。これが編集の理由だ。
そしてこの複雑な映像は、ちょうどテレビの映像が、RGBの三つで組み立てられたかのように、もとはタットワから組み立てられている。
どんな映像もRGBという三つの色から作られていると考えてみたら、水晶透視の映像は、どんなに複雑でも、そのベースにタットワがあると考えるのは不思議ではないです。つまり五つのタットワを均等に視覚化できれば、テレビ映像のRGBがそろったよ、とみなしてもいいような感じです。水晶テレビの部品揃いましたと。
で、RGBのうちどれかが壊れていると、映像が正常に映らないように、タットワの五つが揃わないと、水晶映像も見えにくい。というよりは内容が歪むか。
シュタイナーがいうように、気質の偏りは、世界をその気質で見るので、火の強い人は、エーテル界に入ると、すべてのものを燃えるように見てしまう。
水晶透視は地上でものを見ているのでなく、エーテル界で見ているのと同じなので、自分のタットワの偏りがそのままあらわれます。
タットワが偏ると、そのタットワの奔流に流されてしまう。
映像の静止は、テレビの場合、同期というけど、シュタイナーが人間が静止するには、六つの方向の力が衝突し、均衡を保つ必要があるというように、映像が静止するには、この五つのタットワが均衡を保つように同期する必要がある。
瞬間瞬間流れていくものを、ぴたっと静止させて見ることができるのは、同期を取った中心点にチューニングした時です。つまり静止映像は全部揃ったもので、タットワの五つそれらは、互いに、お互いをぶち壊し続けているので、静止の瞬間が必要。
それは空の元素においての静止か、ないしは地の元素においての静止しかないようにも見えるけど。そのふたつは互いに反映しあう傾向がある。


チャクラの場合、よく下から上まで、七つのスペクトルの色としてみることがあるけど、たとえば、ムラダーラは赤とか、これは、電気的、光学的レベルのチャクラで、エーテル物質に接触していない。
エーテル的な領域でチャクラを考えるには、やはりタットワとチャクラを結合することになるので、すると、ムラダーラは、プリディヴィ、仏教用語では、地天で、黄色い正方形の図形。地の豊穣をあらわすタットワです。

くっきり映像を見ることと、シンボルを見ることの間にはけっこうなギャップがあるけど、シンボルを見るのは、身体が地上に属して、その法則に縛られていて、そしてイメージが解放された状態で見ることかな。
くっきり映像を見るのは、身体と感情の一部が、「二極化の鉄則」から少しだけ自由になっている状態で始まる。

3.
こんなことを書いていると、次のようなメールが来ました。
長いけど、そのまま引用。
------------------
やはり国見国褒めが気になりました。
よむことは数えることでもあり、一つ一つのものをピックアップすることが祝福になる。
パノラマを表すには、山紫水明のような漠然とした既製品の文句か、
ひとつずつものを数え上げる、いわゆる「物尽くし」をするしかない。
言葉という低次元の世界では、ものすごく乱暴に言えば、
論理(物語)か羅列かの二つしか方法がない。
一定のイメージでまとめてしまうことは一種の呪いですが、
その呪いを解くには、この世界では、羅列しか方法がなかったのではないでしょうか。
(ほんとうはもっと、大事な呪術的な役割がありますよね。これは極端な話です。)

ある人のひととなりを表すのに、
「彼はこういう人です」というありきたりのレッテルを張ることは、
思い込みであり呪いです。
それに対して、その人に関するエピソード、その人の行動を
ただただ羅列することのほうが、よほど豊かに人間性を表していたりする。
中国のお話では心理描写というものもあまりなく、
たとえば水滸伝などでも、ただ人物の行動を詳細に並べていくことで、
どんなにその人物が周到で計算高いかを表したりします。

歴史は物語にしないと人の記憶に残りませんが、
物語によって思い込みが生まれる。
専門家が細部を検証していくことでそれは崩されますが、
それぞれ部分的すぎます。

いくら細部を数えあげても、けっして全体像に届くことはないけれども、
「市場」に近づくまで、ただただ細部を積み上げることしか、
不自由な次元では、ほかに祝福を行う方法がない。

でも、「ひとつのレッテルでいっしょくたにしない」や
「個々のありようを認識する」がプラスの意味になるのは、
あくまで現世においての価値観でしょうか。

吟遊詩人の語りの構成法(オーラル・コンポジション)は、
もともと文字を介さない、声の技法であって、
ギリシャのホメロスにも、セルビアにも、中国にも日本の琵琶法師その他にも
共通するものです。
敦煌にまでさかのぼる絵解きの系譜もあります。
ものを並べること自体は珍しくない、いろんな国で共通している話法でもあります。
でも漢字文化圏は羅列、物尽くしの習性がやはり特に強いです。

羅列は本当は同時に起こっていることで、対して論理(因果)は時間と関わる。
中国語や日本語にはほとんど時制がありません。
日本人や中国人の書いた論文は、
よくヨーロッパの人から「ただ羅列すればいいというものではない、論理がわかっていない」と怒られるそうです。(中国の論文で一番参考になるのは巻末の一覧表だ、と先輩が言っていました。)
中国語にはそれでも時系列どおりに語を並べるというルールがありますが、
比べてみると、日本語は更にわざわざそれを入れ替えて、
時間性を消そうとしているところがあります。
掛詞枕詞の多重性もそうですが、

日本語は少しでも一本線の論理から解放されようとしているように見えます。

------------end

武満徹の音楽が、多時間性と言われていることと、武満徹の日本的な感性は随分とかかわりがある。
結局、空間的なものと時間的なものは、数字の、砂描き算と、小石並べ算との関連と似ていて、意味を考えるのは、同時に並んだ図形に、時間的な手順を加えていくプロセスかな。そして時間の流れは二種類ある。地に落ちる方向と、天に解放されていく方向と。

エーテル的な映像は、そもそもエーテルがより上位の次元と結びつき、また物質は、こうしたより上位の次元から孤立しているというのが特徴なので、太陽が自己分割して、惑星の七つにという分解プロセスは、(つまり言い方を変えると、アナハタはすべてのものと同調して、その情報を読み取ることができる働きがある。どんな音にも落とせる。)エーテル的な映像にしか反映できないのですね。

こないだ大阪で、みんなが自分のチャクラを見ている時に、わたしも見ました。で、自分のスワディスタナは、山の清水のように透明な水の流れがあり、その底に、白骨が沈んでいた。白骨はムラダーラに行き着いたもので、水はスワディスタナの素材的なもの。
わたしはスワディスタナの水と、ムラダーラの土を分離していて、いまのところ、それを混ぜないようにしている。
まぜた場合には、そこに腐敗した肉体の映像が、つまり硬化と分解・昇華の入り交じったものが出てくるはず。インドではこのスワディスタナのもとになるガンジス川では、半分腐った死体を流したりする。なおかつそれを飲み水にしたりする。そうやって、あのインクレディブルなインドができたりする。

つまりスワディスタナという水のタットワをあらわすチャクラは、
純度の高い水、まるで蒸留水みたいな水にとどまることはあり得ず、
これはかならず腐敗プロセスをたどりつつあり、その腐敗プロセスの途上を写し取るはずなんです。地上のすべては融合と崩壊を繰りかえす中で作り出されている。その動きがゆっくりか、早いかだけの違い。















2014年6月21日土曜日

20140621 目線の範囲をどこに

カメラの話の続き。
眼球は、脳が外界に関心を持って、その一部が前方に飛び出してできたものだというのが、シュタイナー/ズスマンの考え方。
なので、視覚は、思考の反映であり、そもそも視覚は全体を見ることなどできはしない。特定のものだけを注視する。

占星術のサインでは、視覚は乙女座に対応している。乙女座は、たくさんあるものの中の一部を取り上げ、それを拡大し、それしかないかのように思う。自己を部分化するので、全体は見えてこない。
で、乙女座の反対にある魚座は、この全体を見るという姿勢がある。雲、霧、境界のあいまいな水の元素は、特定のものに視点をあわせず、漠然と視界を広げて、入ってくるものを捉える。魚座の1度の市場は、なんでもかんでも取り込む場をあらわし、このためには、特定のことに集中していてはいけない。
乙女座の部分集中と、魚座の全体への拡張という範囲は、カメラでは、視界の広さの違い、つまりレンズの焦点距離にも関係する。
魚座は視野が広い。つまり「魚眼レンズ」と言われるような、極端な広角から、こんどは望遠などになると、小さな範囲を拡大していくので、これは乙女座的な方向だ。
で、人間の視線に近いナチュラルな焦点距離は、だいたい50mmと言われていた。なので、昔はこれが標準レンズだった。最近のコンデジでは、標準域は35mmで、少し広角寄り。

現代では、個人の視野とか個人の視点が中心で、これによって政治経済も生活も組み立てられているので、全体に乙女座的と考えるといい。土の三角形、つまり牡牛座、乙女座、山羊座は、乙女座が視覚。山羊座が均衡感覚。つまり狭い立ち位置の確保。牡牛座が思考感覚だと言われている。
土のサインらしい点から見ると、人間は肉体的な個体の輪郭で判断する。たとえば、これが水のサインを中心に見てしまうと、この輪郭は曖昧になり、磁力的なあるいは気の身体になってしまう。気持ちとか感情などによって判断する人の輪郭となると、当然それはアメーバのような形で見ないわけにはいかないだろう。何かに愛着を抱くと、それに身体の一部がのびてゆくのが見て取れるのだから。土の元素がもつような、閉鎖的な形骸化した輪郭を見る訳にはいかない。実際、水の活動サインである蟹座では、批判機能は存在しないので、判断の輪郭(境界線)は、浸水する水のように拡大してゆく。どんな犯罪を犯した息子でも、母はあなたは正しいんだからね、とか思ったりする。外部から見た、比較の上で成り立つ価値判断は蟹座には存在しない。どんなひどい国でも、自分の国は最高の国。これは輪郭ぶちこわしということなのです。土の視点からすると、地図のように日本の輪郭は見えるが、水の視点からすると、輪郭は拡大し、洪水のようになってる。

カメラの話に戻るけど、魚座に海王星がやってきているために、魚座が強まり、全体的に知覚しようとして、目線を特定のものに集中させないという傾向が強まる時代にあり、これは行き過ぎると、細部に対して不注意になるのは避けられない。
全体的なところではうるさいが、細部に関してはあまりうるさくない、ということに。
で、わたしが最近、カメラで何か撮影しようとしているのは、この一部切り取り。そしてそれを強調という撮影作業そのものが、乙女座的なものなので、強くなりすぎる魚座に対して、バランスを取ろうとしているのかと思うこともしばしば。
魚座と乙女座の交互の作用は、拡大して、全体を見て、また細部に入り込みというズーム機能みたいになるが、この場合、わたしはどこを定点にすればいいのかなと、決めかねている。
旅行にいくなら、ズームがいいですよ、という人もいれば、いや、森山大道なら、28mm一本ですべてこなすだろう、とか。

乙女座は狭い視点に集中するというのは、もっと広げて解釈すると、何かの価値付けについても、価値の優劣はくっきりはっきりしていて、その輪郭は明確である。もともと、乙女座の土のサインは、真偽ということを問題にする。
なので、文字に書かれていることは読み、その行間は「偽」と判断して、読まない。白黒二価のスキャナーみたいだ。この排他性は極端だ。

そうすると、写真を撮る場合にも、わたしのように、価値の崩れたゴミ、蜘蛛の巣、掃除のできていない空間、などを撮影することに意味を感じないはずだ。感じないというよりも、それを撮影することを拒否するかもしれない。価値体系は明確だからだ。
この乙女座の輪郭を解体し、信念体系の偏りをもっと均等にしようとする魚座は、当然乙女座が排除したノイズ、ゴミなどを拾い込むことも多い。
乙女座が拒否し、もう既に影となって、乙女座が認識さえできなくなったようなものを、魚座がクローズアップすることで、乙女座の土台は16度で足場そのものが覆されてしまう。

わたしの父親は、昔の男らしく、カメラとか写真が好きだったのだが、その父親が撮影する写真は、つねにあまりにもありきたりの、記念写真的なものがほとんどで、それはいまだに変わらず、そもそもそんな写真撮るなら、特別なカメラなんていらないし、いまならスマホの写真だけでいいのではと思います。
どうして一歩踏みこまないんだろうなー、というのが、わたしの中学生の時の感想。ちょっとでも踏み込めば、面白い世界が展開しているのに、と。
で、わたしは、ひねくれていたので、学校の修学旅行でも、みんなで撮影するようなものには目もくれず、まさか、と思うようなものばかりを撮影した。

このように他の人が目を向けない隙間に目をつけてしまうので、つまり乙女座視線がぐらつくようなところに目をつけるので、乙女座的な、表のとりつくろいを重視する人からすると、わたしの写真の撮影のしかたは、動揺させるようなものだった。つまり、人物写真で言えば、一番撮られたくない、本人が管理できていない瞬間を切り取ってしまうからだ。でも、わたしとしては、もっともナチュラルなところを撮影します、というところで撮影しているに過ぎない。
見られたいところと、わたしが思う実体というのはズレがあって、わたしはその相手の「見られたい」という部分は、部分的過ぎて、嘘くさい部分だと思うので、それを重視しない。
たとえば集合写真では、全員が構えた時には写真は撮らない。瞬間を過ぎて、気を抜いた時に、わたしは撮影します。あるいは構える前とか。構えた瞬間は、一番内容のない瞬間であると、わたしはみなしていた。


恒星のコンステレーションと、12サインはもちろん位置が違うし、時代によってずれていきますが、この12サインの乙女座に、いまは、獅子の心臓のレグルスと、獅子の尻尾のデネボラがある。これは乙女座22度くらいか。
レグルスは、表向きの王者というか、世間的な普通の意味での、メインの王座みたいな意味がある。これが乙女座のはじめの領域に入ると、視線の部分化、個人としての輪郭を明確にする、ということに対しての純朴な信仰がよけい強調されるかもしれないですね。
で、メインストリームからはずれた、目のつけどころの違う、アウトサイダーのデネボラは、この乙女座の純朴な単一視点に対しては、過去にすでに十分にやってしまったので、飽きており、視界から外れたものに、新素材を見つけようとする。
22度くらいだと、乙女座の新鮮さは確かに薄れている。乙女座の自我崩壊が起こるのが16度だとすると、それを過ぎた後で、再構築した乙女座なので、魚座という全体性の視点を持つサインの侵入した16度から20度までの影響に対して、十分に抗体を持った状態で、複合的に考えようとしている。

乙女座初期の、視点の単純な集中、白黒二価の判断を茶化す時に、わたしがいつも使う冗談ネタは、インド人の運転手のものです。ずっと昔インドにいった時、タクシーとか車はみなバックミラーが壊してあった。理由を聞くと、後ろが見えると、運転に集中できなくなり事故を起こすから、と言われた。
で、昨年チェンナイに行ったとき、まさか、昔のインドみたいではないはずだと思っていたのに、すべてのリクシャーの運転席の上にあるミラーが、外に向いておらず、後ろに座っている客に向いているのを見て、びっくり。やっぱり外は見てないんだ。実際リクシャー運転手は、運転中ずっとわたしの顔を見ていました。
レグルスは、こういう単細胞的なところで、働く。そしてデネボラは、それを笑いながら見ている。群衆の奥に隠れたデネボラは、王様のバカっぷりを笑う図ですか。

なんにしても、わたしはどのくらいの焦点距離を定点にしようかな、というところを決めかねている。50mmを標準域にして、さまざまな歴史的なレンズの50mmを練習しようかと思ってみたり、やはり超広角の16mmズームがいいとか思ったり。木村伊兵衛ならば、50mmだし、森山大道なら28mmだし。
ヘリオセントリックのホロスコープだと、わたしの水星も金星も乙女座のはじめのほうの、単純白黒二価の場所にあるけど、ヘリオセントリックは地上から見た視覚でなく、太陽の自己分割の視覚意識という点で、はじめから何かをじっと見ているというよりは、視覚の中にないものを、特定の視覚の中に押し込んでいくという姿勢になる。
これはたとえば、カフェの古時計を見ていて、この古時計の映像の中に、複合的な記憶がレイヤーとして重なるような視点の使い方は、比較的慣れています。

だから、水晶スクライイング教えていたのかもしれないけど。
つまり視覚映像の中に、太陽の記憶を盛り込んでいくのだけど、太陽の白い光を、プリズムのように、七色に分解して、惑星にしていくプロセスは、グルジエフの「
特定の色は異なる色にはなれない。みかんはリンゴにはならない。しかし上から降りてきた色は、どんな色にもなれる。だからみかんはリンゴになる。」ということからして、ひとつの視覚の中に、ほかの六つの領域の記憶を、任意に、盛り込むことができるということになる。事物にほかの表象をはりつけることができるということです。
ジオセントリックな意味での乙女座は、水晶を見ている時に、水晶しか見えないし、そこに、後ろの窓が湾曲して映り込んでいるものしか見ない。あ、自分の顔も映ってます、と。

写真を撮る時に、下から目線、つまり地上から這い上がる、ものをものとして見ているジオセントリック乙女座的な写真の撮り方をしようとしても、視覚は思考の反映なので、この切り取る映像を選択している段階で、ヘリオセントリック的な乙女座の作用も働きます。エルダーセルフを七色分解して、このどれかの記憶を、映像に貼付けている。本人は気がつかないかもしれないけど。

わたしは渡辺豊和の、日本の文明は、蘇我氏の北の帝国から始まり、しだいに西南に降りてきたという異説には興味があり、この渡辺豊和のひねくれた視点というのは、どこから来るんだろうなと、思っていた。ヤマトタケルは、西から東へではなく、北から南へ進軍してきたんだ、と。ヤマトタケルは東北からヤマトへと軍をすすめた。鹿島は蝦夷に対する前衛基地ではなく、ヤマトに対する前衛基地だった。

渡辺豊和は1938年8月1日生まれなので、ヘリオセントリックでは、海王星が乙女座の数え21度領域にあり、ここにデネボラは重なっている。海王星はもっぱら世代的な天体なので、渡辺豊和と同じような時期に生まれた人は、みな海王星デネボラ化するけど、そもそもヘリオセントリックは、個人としての個性を重視しないので、同世代はみな同じ考え方の一塊と考えることにはなんの抵抗感もない。ヘリオセントリックは、太陽の自己分割図なので、これに個人の個性重視の視点を入れるのはおかしな話です。
この世代は、海王星が妄想する時、世間的な主流の考え方をとりあえず否定するという方向に行く訳です。常識と思われているものは、まずしょっぱなから斜めに見る姿勢。とはいえ、それをはっきりと表現できるかどうかは、また違う天体の作用も考えないといけない。射手座の水星には、ぴったりアンタレスが重なっている。

乙女座と魚座の関係は、フォーカスを一点に集中させたり、もっと全体に拡大したりと言うズーム機能に関わると思うが、これに対してそれぞれ90度の関係の射手座と双子座はどのような調整機能を持っているのだろうか。
双子座は風の柔軟サインで、これは1つの物を分散させていくという働きになる。しかしながら分散させていくということは、一つ一つの意味は薄まって行き、つまり分割魂的になって行き、それぞれが地に落ちていく。双子座の知性というのは、より即物的で物質的で意味の薄いものということに興味が向かっていく。 双子座的興奮というのは常にそういう性質を帯びている。意味のないものに熱中する楽しさというのがあるんです。

一方で上昇していく火のサインである射手座は、より形而上的なところに向かっていこうとする性質があるので、この分散した意味作用をそれぞれ高めていこうとする特徴を持っている。
このように考えれば乙女座と魚座のズーム機能に対して、その都度入ってきた印象を、双子座は落として行き、射手座は上げていくという加減が働くことになる。双子座は具体的であるが身も蓋もない。そこに何の含みもない。射手座は抽象的であるが、ぶつけてくるようなインパクトがない。もう少しシャープな輪郭がほしい。
前後に動く乙女座魚座と、上下に動く射手座双子座があれば、こんどはあとは左右がほしいね。


















2014年6月20日金曜日

20140620 イベントをする

最近は、ずっと体温は6度台です。
いろいろ工夫した結果、安定してこの体温になったので、工夫は十分に成果が上がったということですね。低い時で36.1。高い時では36.5くらいまで行くことがあります。
肩甲骨が一番熱を発するらしく、肩甲骨周辺の訓練が多いです。
週に二回トレーニングを受けていて、これはわりにキツめだと感じます。一番苦しいのはレッグプレスかな。これに比較すると、走るなんてほんとにライトな運動ですね。

それで、アオヤギさんが、わたしが出演するイベントなんかを企画してくれています。
まず、はじめはオクダサトシさんとの対談で、渋谷のヒカリエでするそうです。
渋谷のヒカリエは、歩いてもいける場所なんで、楽というか、楽すぎます。
対談あるんで、沖縄に来てくれんか、というのとだいぶ違うね。

最近、何を思ったか、6年前発売、いまは製造完了の古いフルサイズのソニーのカメラボディα900を手に入れました。フルサイズのソニーは、α7Rをすでに持っているのですが、コンパクトで良いにもかかわらず、プラスチックの部分が多く、αマウントの重いレンズをつけると、バランスがおかしくなり、それにレンズ装置部がべこべこします。なんとなく不安です。
それに比べると、α900は、どっしり大きく重く、安定感はあります。
ただ、これは本体が850グラムの重さです。

で、そもそもわたしがα900を手に入れたかった理由のひとつでもあるのですが、
ツァイスの16-35mmズーム、F2.8通しをつけると、このレンズもF2.8のフルサイズ版ですから、
重さは、800グラムくらいあり、あわせて、1.5キロを超えてしまいます。
A4のノートパソコンを一台持ち歩いているような重さで、トレーニング道具みたいです。

16-35のズームは、ツァイスでなく、もっと安価なシグマ、トキナーの17-35とか、20-35を持っていますが、こないだ三峰神社で杉の木を、下から見上げるように超広角で撮影したら、
色の生きが悪く、コントラストも眠ったような感じで、いただけないと思いました。
色となると、やはりツァイスのT*コーティングで、こってりした色表現のレンズでないと無理ではないかと思い、このどっしり重い、持つと立ち上がれなくなるくらいのレンズを手に入れたわけだ。
ネットでは、この16-35のズームの、驚くような色表現の作例が無数に掲載されていますが、
わたしが撮影すると、どうしてもそうなりません。ありきたりの普通のものになってしまいます。鮮やかなこってり色はどうやったらできるんでしょうかね。
なんにしても、カメラ撮影にだんだんと深入りして、フルサイズ用の重いレンズまで手に入れるようになってきたので、なんとか目的の色表現を達成したいです。

α900は、普通の一眼レフなので、シャッター切ると、ミラー動作の衝撃が強く、拳銃みたいに、手に反動が来ます。うっかり軽く持っていると、ミラー動作の衝撃で、カメラが動きます。
ただ、光学ファインダーがとても見やすくて、コンパクトなα7Rよりも、持ち歩きの頻度が高くなりそうです。
たいていの場合、カメラは小さく、撮影音も小さいほうがいいという人が多いと思うのですが、
いまでもα900を手に入れるような人たちの中には、反対の意見として、環境の中に自分を強く押し込み、シャッター音も、周囲の人に、シャシンを撮っていることを知らしめるために、大きな音のほうがいいと書いている人がいます。
それはそれでいいとして、わたしはどうでもいいような溝とか、壁のスプレーいたずら書きとか、ゴミ、蜘蛛の巣、空の色などを撮影します。そういう時に、この大きなカメラと巨大レンズで撮影していると、周囲を歩く人が、不思議そうに見ていくというのがあって、目立ちすぎはいいにしても、いったいどうして蜘蛛の巣をあんなでかいカメラで撮ってるのか、と思われたりするのが、居心地悪いです。







2014年6月16日月曜日

20140616 オーラでは、統合的な磁場の構築が重要/マカバは複数レベルがある

昨日は、オーラの講座をしました。
最近講座が多いので、すると、わたしがやってきた占星術以外のテーマのものも掘り起こされており、カラーやったり、オーラやったりというふうになってきます。

で、昨日のオーラの講座では、一番重要なこととは、人間を「恒星の小型」にすることだと言いました。恒星は動かない。自ら輝く。人間は、今の段階では、この輝く星の模型になっていない。この輝く星になる、というのは、惑星を全部そろえて、そのもとの太陽になるということです。太陽系の太陽は、恒星ですから。

今の人間は、太陽の自己分割のあとの、惑星のひとつにたとえられるところで生きている。でも、なかには惑星の自己分割の月のレベルで生きている人もいる。
惑星レベルで生きているというのは、惑星は遊星か惑星、つまり遊んでいるか、惑っているかという存在です。それは静止できない、そして中心の周囲を犬のように走り回っている。

惑星を全部そろえて、太陽化すると、それ自身の自律運動ができて、人間の活動には、破損が生じにくいのです。チャクラで置き換えると、あるいは生命の樹で置き換えると、チャクラを全部そろえて、アナハタのセンターでまとめること、これは、マカバフィールドを作ることと同義語です。マカバフィールドは、小型の恒星のようになることと同じです。チャクラに不足があると、これはできません。というのもチャクラに不足があることは、その足りないものを外部に依存します。その外部に依存している事実は、依存しているものから離れた時に、その生体は維持できなくなるということです。こういう状態では、マカバに乗って旅をすることはできないのです。

人体は、自我、アストラル体、エーテル体、肉体がひとつの軸に同調して、上からのものが下に、下からのものが上に伝達されるというシステムで成り立っている。長い時間をかけて、肉体レベルでの体験が蚕食できるように調整してきた。で、わたしたちは、いまのところ、地球に依存して、この地球の作り出す磁力場みたいなものの中で、はじめて生きていくことができるようなところにいる。
たとえば、ある人が日本からアフリカに移動しても、体験の印象は連続できる。自分が移動したと思うことができる。それは地球の磁場というところの内部を移動しているだけで、地球という場では共通しているからです。日本とアフリカが連続体であると認識できるには、この日本とアフリカを結びつける共通の軸に依拠すればいい。

で、最近宇宙旅行の話題が多く、いずれは火星に移住するという話もある。
こういうふうに、人間が地球から離れてどこかに行くには、飛んでいく装置があれば、それは可能だと思っているところが、困ったことだと感じる。あまりにも無知・無自覚なのでは。科学は根本的なところを考えないで、部分的なところのみ取り上げて考える。なのでいまのところ、大きなことを為すことはできない。科学に取り組む人も、みな、共通して、根本的なところを考えるのでなく、部分的な現象のみを研究しているのだから。

前から書いていることだが、わたしたちは地球に依存して、はじめて生きられるという状態を忘れている。これは母親に依存している子供が、依存する現実に無自覚で、自分はなんでもできる、と言ってるようなものだ。この依存していることに気が付くのは、そこから離れようとした時。さまざまな問題が発生してきて、そのことで、はじめて気が付く。で、わたしたちはまだそのことに気が付いていない。その危険な現場にはまだ近づいていない。

グルジエフの思想で言えば、人間は、太陽と地球の間にできた隙間を埋めるために地球が確保した生物なので、この役割から解放されることを許さない。もし許すとしたら、その役割を肩代わりする別の何かが存在した時だ。人間に与えられた、地表に太陽の光線を持ち込む触媒作用という役割。太陽の創造作用を、地表において、文化、生産、活性化、都市づくりなどによってくまなく覆い尽くすこと。

自我、アストラル体、エーテル体、肉体という連鎖は、肉体というものの中にも、模型的に反映されており、内臓とか細胞とか分子とか、もっと微細なものまで、統一的に同期をとっている。
で、実は、こういう統合場は、新幹線に乗ったり、車に乗ったり、故山手国弘さんに言わすと、自転車に乗っていることでさえ、ずれてゆき、人間に破損をもたらしている。
この山手説は、肉体とエーテル体がずれるということを言ってるのだが、その場合、エーテル体は生命そのものなので、エーテル体がずれて希薄になった細胞は生命力が弱まり、死ぬのが早く、たぶん、癌などは、こういう抵抗力のない、過疎化した部分にできやすいのでは。

でも、わたしたちは日常的に破損を受けているので、そのことを問題視しない。つまり破損しなかったら、どうだったのかを知らないので。
こういう小さなところでなく、惑星移動とかになると、人間そのものが維持できなくなるだろう、とわたしは思います。それは一瞬でなく、しだいに時間をかけて、失っていく。たぶん自分という自覚が継続できない。継続できていない人は、実は、継続できていない現実を自覚しないので、継続できなかったと、その人は言うだけの統一性を持っていないという点では、心配しなくてもいいという人もいるかもしれない。(人間の価値を認めない人だ。)


マカバフィールドがある人は、アトランティスの崩壊の時期にも、記憶を失わなかったということをメルキゼデクが言ってますが、このフィールドは、いくつかのレベルがある。わたしがいう理想のフィールドは、恒星レベルでの軸を意味する。つまり言い換えると、太陽の軸に、部品が全部、チャクラが全部、つまり抱き合わせのふたつの正四面体の8点の整備ができていることを意味する。このフィールドが恒星を軸にしている場合、これはグルジエフ的に言えば水素6の重心に集合している生体という意味だが、恒星の下位レベルの旅では、変動を起こさない。地球から火星へというところでは、目立った損傷はない。ちょうど地球の軸に依存しているときには、日本からアフリカに旅をしても、記憶が飛ばないのと同じ。
地球という惑星レベルに依存しているときには、ほかの惑星に移動すると、その存在は失われる。生体は火星では、まったくべつのもの(火星の持つ素材)で再構成されてしまうが、地球と火星の共通項目は、太陽の下にある兄弟であるということであり、地球という視点から見ると、火星に存在する物質は地球とまったく同じではない。
ので、記憶は維持できない。一度死んで生まれ変わったかのような体験になる。自分が続いていると言う自覚がなくなる。

恒星軸のマカバフィールドがあれば、太陽系中での移動においては、記憶も、体験も、連続し、損なわれるものはない。つまりひとつの音を七つに分解した場合、この下の音のひとつは、違う音にはシフトしない。が、もとのひとつの音に戻れば、そこから下の七つのうちのどの音にも降りることができる。という理屈では、地球から火星への移動は、恒星軸のフィールドの中でならば、危険ではないということだ。
でもこの恒星軸は、太陽系の外に出ることはできない。

わたしたちが、今の人生の前の前世を直接思い出せないのは、わたしたちが地球に依存した生き方をしているからだ。前世は、いわば別惑星体験。それを思い出せないのは、地球と別惑星をつないだ、もとの軸に、自分の生き方の重心を置けないからだ。

わたしが最近よくこのことを意識するのは、やはり、人間個体の視点、地球の視点、太陽の視点という三つの重心について最近毎日考えているからです。
ジオセントリックの占星術は、地上にいる人の視点で宇宙を見ており、この枠組みで世界を考え、この枠組みで育成されてきた感性、知性、身体性は、そこから離れて生きていくことはできない。昔見た、映画の船の上のピアニストは、船が老朽化して廃棄するときに、船と一緒に死ぬことを選んだ。ジオセントリック占星術は、地球の地表面に依存しており、地球の視点まで至らない。
で、わたしがヘリオセントリックのプラネタリウム占星術がいいと思うのは、真ん中に太陽があるからです。
ジオセントリックとか、また今の人間には、「中心の場」が想定されていない。
センターがなく、そこは中空にままに生きているという実感。ヘリオのプラネタリウムは、気分的に、何か安心感があるんです。真ん中に太陽があるというイメージによって。

地球軸のマカバフィールドは、地球を自己分割した、七つの月で構成された結晶だ。これは地球から出ることはできない。
太陽軸のマカバフィールドは、太陽を自己分割した、七つの惑星で構成された結晶。これは太陽系から出ることはできない。
アルクトウルス軸のマカバフィールドは、全太陽を自己分割した、七つの太陽系で構成された結晶。これは恒星から恒星へと移動することができる。ただし、ひとつの全太陽クラスターの内部においてのみ。

で、具体的な話として、宇宙船は、それ自身がマカバのような中心軸を持ち、その重心によって、外部の影響を受けても、分解しない構造を持つ必要がある。今日、磁場というのは、電磁場でしか考えられない。電磁場は、電磁場よりも高速な物質が貫通した時、分解する。電磁場よりも低速な物質の集合は、電磁場がまとめることができるが、今日の科学水準では、惑星間移動の強度を持つ磁場を作り出す技術はないのでは。科学の定義が、全部、地球上で存在する物質でのみ考えられており、どんな遠くの宇宙も、地球と同じ物質要素でできていると思い込んでいる。
猫は人を猫の一種だと思い込んでいる。というふうに、外宇宙を、地球と同じ成分と思い込んでいるのは、現実に外に出ようとした時に、そのことに気が付く機会がやってくるわけですね。

オーラの外側に、横広がりのマカバフィールドができるというのは、七つのチャクラを全部均等に揃えた時に可能となるのですが、これはいくつかの種類があるわけです。肉体的なチャクラ、つまり水道橋のラクーアのオーラソーマの計測器で見るチャクラは、電気的な磁場のもので、これらを七つあわせたマカバ。次はエーテル物質の、七つの月の統合場のマカバ。(これは七匹の犬とみるといい。つまり南総里見八犬伝と似た話。)七つの惑星のマカバ。そして、七つの太陽のマカバ。その人に生きている重心において必要なマカバがあればいい。急いでも、手に入らないものは入らない。
仏教的な意味では、六界を回り終えた人は、六界で構成された解脱の軸のマカバがある。これで終わりではない。ひとつの平面の世界においての究極の、無の領域は、この平面から見たら無であるが、その中に入ってみると、実は無でなかったことを知る。なので、解脱した時に、実は、七つの解脱様相のうちのひとつでしかなかったという現実に気がつくのだ。

で、わたしからすると、面白い話のひとつ。このマカバというか、世界の卵と言ってもいいものは、私の場合、カラーライフシンボルでも、世界の卵のタロットスプレッドでも、最近はなんでも、この発想でしか考えていない。馬鹿のひとつおぼえ、みたいになっています。
つまり、さまざまなサイズのものに、これを投影できると言ってるわけだ。

で、ヘリオセントリックのプラネタリウムでは、上下に七つ。左右に12の感覚領域という形で考えるのであるが、すると、恒星の位置というのは、ずっと変わらない。たとえば、ムラダーラチャクラに該当する場合には、カノープスがある。カノープスは、太陽系という恒星マカバでは、常に、ムラダーラの位置にあるものだということだ。誰にとっても同じ。
地上的な、わりに小さな範囲において、ムラダーラチャクラは、物質的な基盤とか、肉体の単独的な立ち位置という意味だ。が、太陽系サイズのマカバでは、カノープスは、ムラダーラ的な意味を持つ。つまり死者は、死後、この船に乗って、死後の旅をする。日本では三途の川の船だが、それが、恒星軸での、カノープスなのだ。
恒星軸においてのアジナチャクラは、この旅の行き先にも対応する。
つまり地球の歳差の運動の中で、北極星は、トゥバンだったり、ポラリスだったり、ベガだったりするが、カノープスは、そういうところに、死後の人を運んでいく。

昨日、大阪の講座で、ある人をサンプルに話しました。この人は、火星にタイトにデネボラが重なっている。デネボラは、12度N16分で、つまりアナハタの位置に該当する。
昨日、アナハタを、シータ波で見る時間、わたしも見ていたら、みんなが目をつぶって探索している間、みんなをひとりひとり巡回するナマハゲが見えた。次のシーンでは、キリストの絵のついたステンドグラスが見えたが、逆行で、キリストの顔が暗くよく見えなかった。
キリストというのは、アナハタに該当するティファレトが、キリストセンターと言われるように、アナハタを象徴とするもののひとつでもある。逆行で見えないのは、上空からの光が、このキリストの顔を見えなくさせているので、アナハタ機能としては、建築中、工事中ということです。
ナマハゲは、神様が下界に遣わした。このナマハゲは、みんなが目をつぶっている時に、見えないように巡回した。キリストの顔も、同じく光に照らされて、見えない。
これはデネボラ的。このアナハタは、デネボラだということだ。火星とデネボラの結合は、ナマハゲとして視覚化された。

デネボラとアルゴルが結合すると、例のひとつはヒットラーになるとブレイディは言ってる。デネボラは、アウトサイダーで、火星との結合は、メインストリームから外れたところでの旗手。しかし、文化を推進させるのは、孤立したアウトサイダーであるというのは、昔からの事実。メインストリームの集団は、駒を進める力はない。平均化、現状維持という力が働くために、ひとつが出ようとしても、ほかが足を引っ張り、全体としては前に進まないのだ。
前に進める刺激を与えるのは、常に、一握りの孤立したアウトサイダーたちだ。デネボラ、ナマハゲは、神が遣わした、上空からの光で、それはキリストの暗い顔を象る。ナマハゲは、怠惰をもっとも嫌う。みんなを巡回しながら、勉強シナイゴハイネガー、と言ってる。

このように、太陽系の太陽軸マカバでは、恒星の位置は決まっており、それらは決まったチャクラ位置に収まっていて、役割は動かない。デネボラは常にアナハタの特性の一つであり、カノープスは、ムラダーラの機能のうちのひとつ。ポラリスやトゥバンはアジナのひとつ。

地表から見たジオセントリックのひとつ、パランでは、もちろん作用も役割も変わってくる。でも、恒星軸で結晶化した人は、何を見ても、それで投影すると思うんだよね。
グルジェフは、人はみな自分のエニアグラムで生きているので、ほかの考え方を認識しないと言ったが、このエニアグラムというのはマカバと同義語なので、複数のマカバがあるというのは、複数のエニアグラムであるということである。
で、その人はその人の重心でできた水準で世界を見るので、情念的に生きている七つの月のマカバの人間は、ほかのすべての人も同じように情念的に生きていると思っているし、それ以外のことを認識することはないので、すべての人に共通の効果を与えるような宣伝、プロパガンダ、キャンペーン、啓蒙というのはない。みんなどんな情報も、曲げて理解する。

七つの月で生きている、つまり七つの犬で生きている南総里見八犬伝的な世界観は、人形浄瑠璃とかで描かれた世界を参考にすると良い。情念を引き延ばし引きのばし。でも、ヘリオセントリックには、月がないんです。ヘリオセントリックは月のことが理解できていない。ホラリーのように現象を運ぶ月という概念が念頭にない。
ヘリオセントリックを真に理解し、それを生き方に重ねていると、やがて月が見えなくなってくる。























2014年6月14日土曜日

20140614 前の雑記の続き。幽閉占星術と、源流的な占星術

20140614 付け加え

ホラリーと出生図の読み方の違いについて、いくつか書きましたが、一番肝心なことを書き忘れた。それは12ハウスに対する扱いだ。
ホラリーでは、12ハウスは隠れた、比較的否定的な意味のハウスでマイナス点になる。が、出生図では、これはおそらく全ハウスの中でもっとも広がりがある、影響力の強いハウスになる。リリーの時代などは、中世の暗黒の時代で、ここでは12ハウスは幽閉された牢獄みたいな感じの意味しかないが、今日では、インターネットとかメディアがあり、物質面だけでなく、精神面も両方考慮に入れる。すると12ハウスのように、現象としてはおとなしく、しかし影響力は果てしなく広がるという分離が、比較的理解しやすい。身体はどこにあるかわからない、隠れている。しかしメッセージはむしろもっと大きく拡大するというものだ。
それにそもそも12ハウスは、最後のハウスなので、あらゆるハウス体験が統合化され、まとめられていく場所であって、部分的ではない。
おそらく、ホラリーという物質面だけに着目した体系では、見えるものという部分的な要素がすべてになるので、12ハウスのように、見えるもの、見えないもの、すべてを統合化したものは、むしろ反対に見える。

物質面だけを重視した体系では、頂点は10ハウスにある。ものとして固まったもの。でも、占星術は、12のサイン、という12の数理の体系なので、この考え方そのものがおかしいでしょと考えてもいいだろう。
で、ホラリーは徹底して物質主義的で、現象のみに徹した考え方です、ということを意識した上で扱うならば、とてもすっきりした限定バージョンとしてそれはそれで潔癖だ。
しかし、中には、そうもいかない人もいて、やってるうちに、自らも狭い牢獄の中に自分を閉じ込めてしまっている人はいます。そしてそれを人に押し付けている場合が。人生観として。せめて、天王星、海王星、冥王星を入れてもらうと、まだ少しはましなのだが。

これは、人間の一生はだいたい天王星の公転周期に近いということがある。人の一生を、人は意識化できない。というのも、この台座の上に立っているからで、そうなると、対象化できるものとは、それよりも小さな範囲のものだ。天王星よりもひとつ小さな範囲のものとは、土星であり、なので、ホラリーでは、土星を最大の周期にした、人が対象化し認識しやすいものをターゲットにする。
天王星を意識できるのは、人が人の形から離れる瞬間だ。人は生きている間、その全体像を認識することなんて、決してできない。

で、ホラリーが土星内領域の体系とした場合、それは目的がはっきりしているので、それ自身は何も問題はないのだが、それよりも大きな世界との橋渡しができないとなると、それは困る。セドウィックは、ジオセントリック占星術は中世の暗黒の時代に人を閉じ込めると言ったが、ジオだけでなく、使う惑星を土星までにすることで、ますますそれはひどくなる。
キロンは、その外の領域にまでつなぎをしようとして、その結果、おおきな被害を受けた。

わたしが折口信夫の二点間信号の夢を見たことについて、趣旨がどこにあるのか、考え込んでいた。一体全体、なんの目的でこんな夢を見せてきたのか。
霊界とこの世界との橋渡しができる、ということが重要なのではないかと思った。
ホラリー的な体系にはまったり、土星以内の惑星の世界にはまっていくと、この橋渡しはできなくなるので、生きている間はいいとして、死んだら、その後はどこにもつながらない、暗闇の中に閉じ込められる結果になりかねない。その場合、仏教のように、49日後、すぐさま、同じ鋳型の、つまり土星以内世界に生まれ変わるということならば、それは死後も何かあることになるが、こんどはこれはまたこれで永遠に輪廻の中に閉じ込められる。
人の形の意識のスパンをこえたもの、すなわち海王星に橋渡しができることが大事なのだ。
海王星は、太陽系内部体験をぐるぐると巡る。冥王星は太陽系の外とつなぐ。
古典的なホラリーの枠に固めた世界観と土星内世界は、人間は死んだら、その後は何もない、と決めつけているようなものなので、折口信夫の夢のように、行き来できるような、霊界と現世を、二上山的に接続するものをしてほしいと、わたしは要求されているのだろう。どちらかを選ぶのでなく、両方行き来できるような。
10ハウスは頂点で、12ハウスは転落です、というのでなく、12ハウスは次の領域への射出台です、というふうに軌道修正しなくてはならないのだろう。

セドウィックが、ジオセントリックは中世の暗黒の世界である、というのは、個人の肉体から見たパースペクティヴに、人が閉じ込められ、そこから一歩も出られなくなることを示したので、その視点から解放するために、必然的に、太陽から見た視座としてのヘリオセントリックを併用することで、この暗黒から解放されるきっかけが作られるのだが、去年、わたしはある連合から、とりあえず、フォーカス35のセンターみたいな業務をしてほしいと言われた。ヘミシンクの中でね。ヘミシンク体験の中では、わたしは公認フォーカス35基地局なんです(笑)。ただ地球上の基地局のひとつなので、超ド田舎局です。限界集落です。
この太陽系の太陽や、近隣のシリウスなどが、フォーカス35に該当するので、その意味では、わたしがヘリオセントリックするのは随分と関係がある。

で、ヘリオセントリックは、チャクラでいえば、サハスララから見たもので、ジオセントリックは、ムラダーラから見たものというコントラストがありますが、古典的なホラリー体系や土星内世界というのは、物質的な明確な輪郭が存在し、また事物と象徴の関係も固定的で、椅子は椅子以外ではあり得ない、という堅固な定義に依存して成り立つので、これは人間の脳波活動でいえば、警戒心とか、個体意識をくっきりさせるβ波の領域に近い。ヘリオセントリックの視点は、このβ波領域にはないのではないかと思う。
わたしが自分の例であげたように、わたしはアレキサンドリアの図書館員です、というのは、β波の、肉体感覚に依拠する感覚領域には存在しないデータで、ドリームランドでないと出てこない話だ。

ヘリオセントリックの情報は、その人がα波とθ波の精神に入らないことには見えてこないものだと思われる。正確に言えば、フォーカス35の重心で見た世界、すなわち太陽の自己分割の領域でみないことには、わからない。分割された後の断片から見た世界は、自己分割する前の視点を自力では取り戻すことはできない。シは自らドに上がることはできない。
折口信夫の夢は、こうした異なる次元のものを「行き来できる」橋渡しが、折口信夫の場合には、うまくできてるよ、そしてわたしもそれを展開するべきだというものでしょう。それでまだ、わたしはデュアルブートがスムーズにいってない。むしろ、二点を混ぜずに、コントラストをつけたままのほうがいいかもしれない。西欧とか、日本では、この二点連絡は上手でなく、華僑を参考にしてくれ、というものだ。儒教という意味ではなく、華僑です。夢の中では、またもやアジアのある領域の地図が見えていた。折口ポイントです。いや降り口ポイントなんでしょうか。(昇降点?)

いまこれは新幹線の中で書いている。いまから大阪の講座だ。
土星に関する本を書いている。秋くらいには出るらしい。
ここでは土星は限定的であるが、ここに均衡感覚と、客観的な理解を獲得する鍵も存在する、というような内容を書いている。

アルゴル(東洋式には、金毛九尾の狐)は、ホラリーでは最凶の恒星だが、ブレイディはそれに反対していて、実際には出生図で使う時には、最凶にならず、女性的な欲望を意味する、クンダリニである、という意味になる。リリスもそこに関係づけている。アルゴルに一番関係した人物例はアインシュタインだ。彼は結果的に最強の破壊兵器を作った。でも、これは特殊例だ。

以前の雑記にも書いたけど、二十歳前後に幽体離脱して、土星の内部で、アルクトゥルスからきた老人に会った。で、わたしの三次元プラネタリウムのチャートでは、わたしの土星には、スピカとアルクトゥルスがぴったりと張り付いているのですが、これも三十代に、幽体離脱して、アルクトゥルスに行った時に、淡いが極彩色の、口ではうまく表現できないカラーの、惑星というよりも、川のような連続した形の宇宙に入った。
で、わたしはそれをアルクトゥルスと思っていたのだが、いま、これはスピカと混じったものを、アルクトゥルスと混同していたのかもしれないと思った。
自分の幽体離脱体験とか、ヴィジョンとか、ヘミシンク体験は、パランよりも、このヘリオセントリックのプラネタリウムのチャートのほうが、よりうまく説明しているように見える。パランだとある程度理論的に説明しないといけないが、三次元プラネタリウムだと、実体験的に説明できるので、単純で、神経が緊張しない。
わたしのこれからは、スピカとアルクトゥルスにどんどん深入りするらしい。夢の中で、折口信夫が二点から信号を出している光景は、コーンがふたつあるような図像だったけど、スピカとアルクトゥルスにしてもいいですね。その場合、アルクトゥルスは、アンタレスと共同で働くことも多いという説にしたがって、アンタレスの地図に沿って、アルクトゥルスは霊界との橋渡しをする。天のヤチマタで。それを受容的に受けいれることのできるのは、地上との接点が豊富なスピカに、と。たぶんスピカは、ちょっとビーガン的でもあるのだが。麦畑だと、アレルギーが気になるので、花畑にすればいいんです。