2014年12月21日日曜日

20141221 森博嗣「孤独の価値」/三次元ホロスコープ中級しました

森博嗣の「孤独の価値」というのをキンドルで読みました。個々の部分は、ここまでツメが甘くていいのかと思いました。「子供かっ」と突っ込みいれたくなるような。たぶん、もうすでにやる気ないんだと思います。が、考え方としてはとても良かった。共感できる。
で、わたしもモンテーニュかエノクのような暮らしをしたいと言いつつ、なおリタイアだと言いつつ、どんどんその反対に進んでいるように見えるの で、2015年は軌道修正したいです。
いまは大阪の講座の帰りの新幹線だ。
森博嗣の孤独、孤立ということと、恒星をベースにした世界観は関係があります。そのことを、わたしは今日、講座の中で説明したんです。


占星術の惑星を軸にする生き方は、人間の生き方と言わず、準人間あるいは人間準備段階といいます。なので地球を投影した太陽星占いも、人間レベルに達しません。人間を哺乳動物化します。人間といえるのは、惑星を全部あわせた全惑星レベルのみです。
それぞれの部分的な要素はサインの影響があるが、全体としては、特定のサインの影響はないとみなすことも大切です。

森博嗣は、多くの人はマスコミのプロパガンダとか、宣伝イメージを信じ込んで、嘘の価値観の中に住んでしまうといいます。これに染まらないようにするには、孤立する必要があるけど、単なる物理的な孤立は問題となっているわけではなく、考え方の自立性が必要で、これは全惑星意識でないと実現しない。
惑星の相対性に振り回されないためです。そのぶん意識の密度が高くなるので、集中力が必要です。

森博嗣が言う例としては、仕事は楽しいという宣伝をして、若者は仕事は楽しいと思い込んでしまう。で、実際に就職してみると、苦しいばかりで、こんなはずではなかったと挫折感を抱くというのです。なので、はじめから仕事は楽しくない、苦しいと言っておかなくてはならない、と。
仕事が楽しくなるのはごく一握りで、しかもそれは自発性を発揮しないかぎり楽しくはなりません。
たいていの仕事は、言われてするわけで、自分から開発しているわけではない。なので、仕事は楽しいはずはないです。
わたしは10代終わりとか、書店にいたとき、こんなゆるい退屈な時間が続くと人はだめになるんではないかと思いました。だいたい学校の授業の時に、授業を無視してドストエフスキーとか読書していたのも、密度のない時間をだらだらとすごすのが耐えきれないと思ったから。それはその授業をしている先生にも言いました。先生のやってる授業はほんとにくだらない、と。先生はそれが理解できなかったみたいです。

で、全惑星イコール太陽かというと、違います。これは皿を割って、その部品を全部集めたものが全惑星意識。太陽は割れていないもの。なので、たとえば、イメージとしては、0.9999999999と1の違いがあります。

恒星は太陽と等価。惑星の惑う星としての相対的な人生から、ひとり輝く生き方を作り出すには、太陽あるいは恒星に生き方の軸を移動させる必要があります。そのための土台として、全惑星意識が必要なんです。

今回の三次元中級講座は、このマップを作ってほしいということを参加者に要求したので、これは中級でなく上級ではないかといわれました。
でも、それをするには、実はブレイディの恒星では数が少なすぎる。
レベル6の階段では、アクルックス、アケルナル、ファクトの三つしかないし。
梯子を作るための、辞書づくりをする必要があります。
それに恒星の意味の一覧表あっても、これは単なる言葉の座学になってしまうので、恒星を実感して、それを自分で知り探索することが大切です。知識的なものでなんとかなるわけではないです。

森博嗣はいまは一日一時間しか働かないと書いている。
それ以外は趣味が忙しすぎるらしい。全力で趣味に集中しているらしい。
で、電車には二年半くらい乗っていないのだと。

周囲の人々の影響に染まり、飲み込まれていくいき方は、グルジエフ水素でいえば、48の生き方です。で、孤立して、自分の判断をもって自立的に生きる、すなわち森博嗣のいう孤独な生き方は、24の生き方です。これは環境から頭ひとつ出て、互いに飲み込まれていく生き方に引きずられない。小アルカナカードの、ページとナイトの違いです。

で、この水素24は、思考、感情、身体の三つある。この三つがそろわないと、どれかが弱点で、また周囲の環境的な影響に飲み込まれていきます。
思考の24育成には専門家になる必要がある。専門家であることが重要というわけではなく、専門家になるまでの道のりの間で体験し得たものが大切です。もちろんそこには感情の対処も含まれてくる。
感情の24の育成には、人生体験が必要。実体験でなくてもいいです。虚構でも同じです。あらゆる種類を体験して、特定のでこぼこがなくなるように。何かに期待して失望したりすること、これは感情としては幼いし、依存的過ぎる。これは感情の貧しさをあらわしています。
身体の24は、あきらかに身体の訓練が必要です。もちろん身体は感情にも思考にも影響を与えます。この三つは互いに影響を与え合うが、混じってはいない。シュタイナーの言うように、一度切り離し、あらためて結合する必要があります。

わたしが今走るのがすきなのは、少なくとも、その時間の間は身体の24を継続できるからです。
このグルジエフ的な、意識の振動密度みたいなものの上下の落差を、
たとえば脳内エンドルフィンが出るから、気持ちが良くなるんだ、みたいな平面的なものに置き換えた説明をすることで、このあたりの事情が正常に理解できなくなるんですね。
ある意識状態を作り出すには、それのための能動的な働きかけが必要である。
でも、それは物質のせいだという話になるのです。それがあれば、働きかけはいらない、と。
中身なしで、形だけ取るみたいな考えかたは、実質が伝わらなくなるので、弊害が多く残ります。人間は思考の生き物で、思考は周囲の現実に対してはあまり関心がないので、思考で生きると、人はいつも間違った方向に走ります。そして時間をかけて、また修正します。つねに間違った方向に走るのが日常であると思ったほうがいいです。それを非難してはいけない。それが当たり前。そのくらい自分の思いの中に閉鎖されています。

久しぶりにグルジエフの話を思い出したのは、今日はある雑誌の原稿を書くから。
客観芸術について書いてくれという内容です。

森博嗣がちょっと怒ってる書き方をしているのは、孤独死という言葉で、それは寂しく見捨てられて死んだみたいな暗いものを連想させる。でも、現実は誰もわからない。死ぬ時に一人で死にたい人もたくさんいるし、むしろ死ぬときくらいは姿を消したい人もいる。死ぬときには姿を消すというのは、わたしにはもっとも正常なものに見えます。

実は死んだ後も自由にさせてくれないですね。引き止めないで。お参りに来ないで、と思う人はたくさんいるはずなのに。
孤独は贅沢なもので、それは簡単には手に入らない。作家になって、ひとりで作業してもまったく生活に困らないというところまで行ってやっと手に入る努力の賜物でもあるのに、孤独は否定的に見られているということが、森博嗣にとって気に入らないみたいです。日本は民主主義というのは形の上であって、実質は社会主義なので、ひとりだけ違う考え方をしていると、袋叩きにあいます。それに監視しあう社会が今はできている。これは東日本震災の時に如実に出ていたと思う。
文明の修正機能を発揮する孤独者としてのアウトサイダーたちをもっと増やすべきですが、アウトサイダーの走りのコリン・ウィルソンの話だと、その比率はとても少ない。

森博嗣の本を読んで、懐かしい思いをしたのは、これは、ヘルマン・ヘッセとか、ソーローとか、コリン・ウィルソンとか、しまいに、詩を書くために孤独を押し切ったリルケをどこか思い出すからですね。実際に詩を書けと言ってる。リルケの考えだと、詩を書かないと死ぬ人は書いてもいいが、書かなくても生きていける人は書いてはいけないという話です。谷川俊太郎は、それを意識して、昔、詩の中で、えーと、実は書くことなんて何もないんだよね、と言ってました。









2014年12月15日月曜日

20141214  はじめてのフルマラソン

はじめてフルマラソンに参加しました。12月11日にホノルルに入り、14日の朝五時からの大会に参加しました。時差ぼけはいつものようになかった。

マラソン当日は、朝の3時に集まるということで、前の日は午後七時に寝なくてはならず、早く寝つくには、シータ波に入るのがいいと思い、ファシーズに飛んでみることにした。
そこに行くと決めた直後に、そのことを忘れてしまい、しばらくすると、アメリカのドラマのブレーキング・バッドの主人公の男性みたいな顔を持つ大きな蟹の身体の生き物を見ていた。たぶんこの蟹のような身体がそのまま地図でもある、という。
で、そのときに、はっと気がついた。そういえば、ファシーズに行くんだった、と。
そのあと、乾いたオブジェがたくさんある世界を見ていたのですが、これがファシーズなんだろうか。数年前に見た、水星の世界とどこか似ている感じがある。
そんなことをしてしまった後で寝たので、夢が異様な感じだった。

で、マラソン当日、つまり今日は朝は雨で、走るには雨が都合がいい。呼吸がしやすいからです。
ホノルルマラソンは、具体的な参加方法がまったくわからないので、H.I.Sのツアーに参加したのですが、4時間、4.5時間、5時間、6時間というペースランナーがいて、それぞれのグループにわかれることになっていました。たぶんJTBも、JALも同じやりかたをしているのではないか。で、わたしは4時間のところに行ったのだけど、だいたい30人くらいいました。

出発の合図の花火が盛大に上がりましたが、三万人以上の参加者がいるので、すぐに走ることはできない。しばらくはずっとデモ隊みたいに、ぞろぞろと歩くだけ。で十分くらいしてから、走り始め。とはいえ、計測チップがあるので、実際に走り始めた段階からカウントされます。
ペースランナーの人にずっと張り付いて走りました。

途中、帽子が風で飛んで、それを取り返すために戻り、また靴紐がほどけたのを締め直すこと、二回。合計三回脱落しましたが、またすぐに追いついた。
で、ペースランナーの人の話によると、四時間のペースなんだけど、今日はいつもより一分早いので、最後まで一緒に走っても、ぎりぎり三時間台になりますよという話だったので、そのままゴール一キロ前まで、一緒に走っていました。最後にペースランナーと並走していたのは、四人だけで、最初の三十人くらいはどこに行ったんだろうか。

ネットで見たら、計測チップの記録は3時間58分30秒と、計算どおりです。
EPSONのGPSウォッチで確認していたけど、だいたいペースが一キロ5秒42から44秒の間をずっと正確に走っていて、このペースは、わたしがひとりで走っているときには、だいたい最後にへばった時の速度です。それが最初からのペースだったので、楽でした。心拍数はたぶん140とか150くらいをずっとキープしていたのでは。これは帰国して、EPSONのウォッチをパソコンにつないだら、たぶん正確なデータのグラフが出ます。

だいたいインターバル走みたいに、時々短距離を全力で走ると、その直後に余裕が出て、とても楽になることわかっていたので、脱落した時には、その後、全力で追いついたりしていたので、それもリラックスできる要素のひとつだったと思います。だらだら走るより、時折全力走を入れるといいというのが不思議なんだけど。

で、ホノルルマラソンには、ダイヤモンドヘッドの脇の坂道があり、10キロと、38キロのところで、この坂がきついという話をネットなどで読んでいたので、構えていたんですが、わたしから見ると、これは坂に分類されないような緩やかな傾斜でした。頭の中では、坂というと、紀伊国坂か、赤坂から皇居に向かうコースで出てくる傾斜を想像してしまっていたので、そこからすると、このダイヤモンドヘッド脇は、ほとんど平地に入る部類。
東京の地形がいかにでこぼこしているか、ということですね。東京ではこういうでこぼこを走ると、時には心拍数が200まで上がったりしますが、このホノルルマラソンでは、ずっと150程度の低中強度運動のような状態だったということの違いは大きいです。なんせ呼吸が乱れなかったし。

フルマラソンでは35キロの壁があるという話で、それもどんなものか知りたかったけど、走るのに夢中で見落としてしまいました。
フルマラソンを完走した達成感はあるかというと、そういう感動はあまりないかもしれないのは、いつも走ってるのが、少し伸びたという感じ。
もし3時間半レベルに持っていくのなら、ペースランナーと一緒に走らないことになるのですが、このペースランナーの正確さを自分では再現できないので、均一ペースで走る練習をすると良いと思いました。それはなかなかに難しい話なのではないか。プロの人は、これが機械のように正確にできるんですね。

ネットで、名前検索で、その人のレース結果を誰でも見ることができます。
で、今回は、パンフレット見て、モチダカオリさんが参加するということを見ていたので、というか、宣伝に利用されていたので、データ見てみました。6:42:56と書いてあります。
この6時間レベルの人は、往復の両方が見えるハイウエイのコースで見ていたけど、けっこう苦しそうな人がたくさんいました。七割がはじめての参加というのがホノルルマラソンの特徴で、それは時間制限がないから、というものです。まったく走ったことのない人も参加するらしい。
で、自分が走った後、午前11時くらいから、町に出てみましたが、びっこ歩きの人がたくさんいました。わたしも少し左足が痛んでいます。歩くと普通になるけど、据わっていたり、冷やしたりすると、痛みます。とはいえ、こんな感じのは、何十回も体験しているので、気にならないけど。
自分の場合、スタミナ不足とか息切れとか、それは問題にならないけど、いつも貧血になったら困るということは気になる。一か月に一度とか貧血になるけど、すると直後は歩くことさえ大変になるので。

youtubeで、見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=iIHP-rDSpfs&feature=youtu.be










2014年12月7日日曜日

20141207 昨日はマザーズオフィスで講座しました

新井薬師の教室で、参加者は50人でしたが、この人数が楽々入る教室で、とても広いです。前日の夜に宮川さんがロンドンから帰国して、まだ寝てないという話で、不眠と時差ボケでへたへただという話でした。
でも昔から、というか二十年以上前の記憶ですが、宮川さんも中安さんも、顔に力が入らないというか、ふたりとも、気抜けした顔をするのが特徴なんです。だから、ぼうっとした顔をした宮川さんを見ても、これはいつものことだと思ってしまうんです。
顔に力が入らないというのは、自己主張をしないということでしょう。俺が、わたしが、という主張をしないんですよね。それがマザーズオフィスのひとつの特性ですかね。
で、ブラバツキも、シュタイナーも、獅子座と水瓶座の180度があり、これをわたしは、「壮大な大風呂敷の宇宙像」というふうに言うのですが、マザーズオフィスのチャートも、獅子座の水星と水瓶座の木星が180度で、講座の3ハウス、9ハウスにあります。宮川さんも、金星と冥王星が獅子座、水瓶座で180度です。宇和島派かどうかわからないけど、宮川さんの講座では、シュタイナー教育という部分でカットされたシュタイナーの壮大な世界観は、ちゃんと出しているそうです。
わたしも月、冥王星は獅子座、水瓶座で180度です。
こういう場合、シュタイナーの、昔、大地も空も海も分離しておらず、流動的な世界の中で、人間は人間の形をしておらず、四肢を使って泳いでおり、男女の区別なく、言葉もまだ発明されていなかった、というような話も出てきます。で、こういう発想だと、日本の天皇も、初代から三代くらいまでは、人間の形をしておらず竜の形をしていたという、先代旧事本紀大成経の話も、わりにナチュラルに受け付けられるのです。

中之島の朝日カルチャーが参加者60人だったので、新井薬師のそれも、あまり人数的に変わらないですが、このあたりの人数で講座するのは、かなりリラックスした感じになります。
30人くらいまでなら、ひとりひとりのチャート読んだことあります。50人とか60人は、もう個人を扱うのは不可能です。
なので、個人サンプルはしないよという姿勢で話をするのですが、しかし中之島では、説明するために個人題材が欲しいということで、ラクシュミの図を出したわけですね。「こんな個人的な題材の例についてずっと話していていいんか?」とみんなに聞いたのですが、みんな黙っていたので、ラクシュミの話が続きましたです。
マザーズオフィスでは、来年の日食の話も入りました。
ゆっくりじっくりと、人為的な要素と、自然的な異変の両方で、日本の輪郭はじわじわと壊れていくよ、というような内容も言ったのですが、これは主催者の宮川さんが、そもそも日本にずっと住む気はない、という姿勢なので、わりに自然に受け入れられた話題です。ピアノや冷蔵庫は空中を飛ぶので、頭にぶつかると怖い。なので、持つのはやめようとは言えないけど、ライトな生活を目指すのは、未来的にはいいことです。
何かあったら二週間で移動できるような生活をしよう。火山大国の日本では、そもそもそれが本来です。

こないだの渋谷の検診では、わたしの身長は171.5センチでしたが、ずっと170センチだと思っていました。で、これは骨盤とか筋肉の調整、姿勢の調整をしている結果だと思います。インストラクタにこのことを言うと、「もう少し伸びますよ」という話だったのですが、すると、適正体重とか計算しなおしです。