2015年4月29日水曜日

20150429 書く題材を無理にひねりだす/金星の話題

前からこの雑記に書く話題がないと主張していて、それで何か無理にひねり出さないといけないと考え、今回は金星ですかね。
金星については、わたしは昔の本では、芸術家は金星のアスペクトが壊れていたほうがいい、というような意味のことを書いていました。金星がほどほどに満足しているなら、芸術家になる動機が失われてしまう。

シュタイナーによると、金星はミクロコスモスへの誘いです。
つまり朝起きて、意識を感覚に接続し、感覚的な世界、すなわちこの見える世界に入るための導入が、金星によってなされるのです。
こういう金星の役割において、金星のアスペクトが壊れている、つまりはほどほどにはおとなしくない、乱れている状態というのは、つまりは目に見える感覚的な世界に対して、不満を抱いているということです。物質的な生活において、満足した暮らしができない。そうすると、そこからはみ出すような方向の活動をしますね。

黙って生活者になれるのならば、芸術家にはならない。
谷川俊太郎が、その昔、「鳥羽」で、

本当のことを云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

と書いていたことに関して、大江健三郎が、強いインパクトを受けたことを書いているけど、書くことがないのに詩人をしている、ということはそんなに大仰なものではないと思います。高校生だった時、わたしは国語の先生から特別扱いされていて、それで、先生が、わたしを呼び出して、よく話をしていた。で、ある日、自分の大切なものを見せてやるといわれて、目の前に出されたのが、谷川俊太郎の「鳥羽」で、それを開くときに、パラフィンのパリパリという音はいまでもよくおぼえています。その時に読んだのが、いま書いた一節です。そのときは、わたしもショックを受けた。

金星のアスペクトを、縮小の土星系か、あるいは拡大の海王星系かとふたつに分けたとき、谷川俊太郎は、土星系です。



金星が感覚的世界への導きということからすると、縮小的な土星と冥王星のセットのアスペクトの関与は、感覚的な自分を絞り込もうとするわけです。減らす方向に向かうということです。
もちろん詩人とか物書きなので、水星をみなくてはいけないのですが、今回はそれはまた別の話にしときます。

で、金星が、土星などで絞り込まれる場合、谷川俊太郎のような普通の地味さでなく、もっと「現世否定的」な極端な例として適しているのは、やはり人生そのものが壊れているチャールズ・ブコウスキーですよね。
下品さを取ったら、後には何も残らないと言われているブコウスキーは、多作。多作というのが、おかしい。金星を落としに落としまくり、そのくせ水星としては多作なんです。
金星を否定するというのは、物質的・感覚的に生きる現世的なものを否定することなので、ブコウスキーは、自殺衝動を抑えることに必死だったそうな。



でも、どっちも、わたしが最近良く言う、「活動するには180度という、前進のアスペクトが必要」という意味では、ふたりとも、金星の主張は大きいということに。
ふたりとも水星は180度がなく、金星にはそれがある。金星が主導権を握り、水星が随伴するということですね。

朝からワインを飲んで、次はウィスキー。毎日泥酔していた田村隆一も、金星は主張が強いけど、水星は180度ないです。


田村隆一の金星は土星系でなく、木星・海王星系の拡大パターンです。

昔、ルル・ラヴアさんは、アルコール依存症とかは火星・海王星と言ってたけど、火星は、そもそもマクロコスモスへの挑戦で、能動的に、今の自分よりも前に出ないと発揮されない天体。
それに対して、小さな世界ミクロコスモスに誘い込む金星は、今の自分よりも前に出る、という積極性は発揮しない。受け身なものです。だから火星がなく、金星ばかり使うと、その人の世界はどんどん萎縮して、小さなものになっていく。
で、アルコール、つまり飲酒は、積極性なんかない。ただ飲むだけ。
なので、火星・海王星ということはないでしょう。むしろ金星・海王星でしょう。
田村隆一は、朝から、金星・海王星の世界に突入しようとしたわけです。
でも、毎日アルコールを飲む人は、もう脳内のドーパミンは出にくくなっています。
依存症の人は、みなドーパミンは出にくくなっているので、それはまるで苦行のようになっている。それでもやめないのが依存症。たくさん食べても、飲んでも、他の普通の人のように気持ちよくならない。これについてはリンデマンがよく書いています。過食症の人は、もう食ってもドーパミンなんか出ないし、食べている時に楽しそうな顔してない、と。

180度は飛び込む作用なので、この田村隆一の金星は、常に海王星の臨界面つまり「触覚」領域に飛び込もうとしているけど、この世で、この金星・海王星領域は、普通のことでは満たされないんですよね。この世は、土星までの世界だから。
ブコウスキーは、魚座の天王星に飛び込もうとし、谷川俊太郎は、蟹座の冥王星に飛び込もうとしている。ブコウスキーも、谷川俊太郎も、金星は乙女座とか山羊座などの土のサインで、そこで土星との合があるので、この息苦しいところから、天王星や冥王星に飛び込もうとする行為は、いつもなら耐え切れないくらい締め付けがある、そして180度で天王星や海王星に飛び出すというメカニズムが働いています。田村隆一には、金星の締め付けはない。

若い頃からすでにアル中で入院したりしていたブコウスキーは、酔いどれ伝説とか、酔いどれ紀行とかの本を書いていて、ちょっと限度を超えた壊れ方をしているほうで、頭の中はおかしいですよね。酔いどれという言葉で思い出すのは、酔いどれ船のランボーで、ランボーはもうすでに16歳で、これを書いている。水夫の変わりに赤い肌の無頼漢が舵取りをするということでは、「お嬢様の頭の中は難破船でございますか」という台詞を思い出すけど、詩人とかは、アルコールとの関係で語られることがほんとに多い。ただランボーの場合、すでに二十歳前後で詩人をやめて、商人になったし、事実金星がブコウスキー的に壊れていることはない。下の図がランボーですが、随分穏やかな金星でしょ。





歴史的には、酒仙として、李白、杜甫、白楽天が有名だけど、これはチャート作れない。(マーラーの大地の歌は、李白、杜甫の内容を翻訳したハンス・ベトゲの詩をテキストにしています。)









2015年4月17日金曜日

20150417 九州です

大濠公園で、15キロ走りました。明日もと、思ったけど、もしかしたら雨です。
でも、暖かいので、適度の雨ならば、走ることはできる。大濠公園は、平坦で、大阪城公園と似ています。整備されているということは、過保護環境だということです。だいたいコンクリートの平たい場所で走ると、足は壊れやすくなります。それに比較すると、皇居は案外と整備された環境ではないんですよね。

今年は、わたしは安定して走れたことは、かなり少ないです。去年に比較して、かなりダウンしています。その理由がなかなかわからなかった。最近、1日五回食事を試すことにしました。で、それを試してみると、貧血が起こらない。しばらく実験してみますが、階段で倒れそうになるという症状が起きにくいので、これは適しているかもしれないです。
3時間ごとに食べるのは、うっかりするとすぐに忘れます。午前5時、8時、11時、午後2時、5時。まったくお腹空かないのに、すぐに次を食べます。1日を2000キロカロリーと決めたら、一回に400キロ食べないといけません。数日前、千駄ヶ谷の駅前のコンビニで、パン買って食べたけど、表示見たら、199Kcalと書いてありました。400くらいは軽くあると思ったのに。五食と言えど、こんなもの食べてたら、1500達しない場合だってありますね。
ともかく、貧血すると、かなりヘビーで、毎日すべてにわたって苦しい感じになるので、きっちり計算して、五回食べてみる。血糖値がたぶん変動しないというのがいいと思います。いっそのこと、タイ人みたいに二時間ごとはどうかなと思ったりしましたが、それはやりすぎかな。昔、バンコクに行った時、タクシーちょっと待ってて、といって、運転手に待ってもらっていた時も、戻ったら、どんぶりで麺食ってました。どこで買ったんだろと不思議だった。
仕事が忙しい人とか、長時間あけて、そしてドカ食いする、という習慣ができてしまい、これが病気を作ったりする。で、三時間ごとに食べるというのは、何か怠け者的な雰囲気を感じますが、でも、そのほうが持続力は出るということになると思います。
こういう食とかを考えたりするのは、占星術では、内輪の天体の世界、ミクロな側の話です。地球を取り囲んで、火星と金星がある。この金星の側です。さらに、地球をぐるぐると包囲していく月。金星とか月などは、こういうミクロな、食とか身体生活とかに関心が向かいます。
話題が飛ぶけど大きな宇宙は、より小さな宇宙に対して支配力がある。という原則から考えると、大宇宙に対して、人間は影響を与えることができない。が、小さな宇宙に対しては、人間は途中媒介存在として、支配力を持つ。なので、ミクロな世界は、人間の思考の反映で成り立っている。ミクロな世界の探求をしている人は自分の思考を分析しているような感じの行為をしています。それ以外何一つ見ることができない、というのが人間の限界性です。発見すればするほど、そこに自分を見ているということに気がつく。誰かがパターンを考案した瞬間、全員がそれに取り憑かれる。イェイツは、カバラとか神智学などの壮大な世界観から離脱した後、なんと心霊主義に走ったけど、心霊主義は、そうとうに小さな世界でもありますね。

で、シェーンベルクの話なんですが、グレの歌は、かなりの初期作品で、11年もかかった。それはシェーンベルクが生活苦のために、違う仕事をしなくてはならず、集中できなかったからです。で、11年もかけているうちに、まったく作風が変わってしまい、完成したころには、シェーンベルクはグレの歌に関心を失っていた。つまり十二音技法に集中していたので、グレの歌みたいな後期ロマン派はもうどうでもよかった。
こういう実験的な手法を編み出す人たちは、たいてい生活苦ですね。儲けるためには、保守的な、なんの新しさもないという感じのことをする必要があり、実際に、シェーンベルクがお金ない時に、R.シュトラウスは、グレの歌がなかなかすごいので、これを続けて作ってほしくて、資金援助とか、なんかコンクールで賞を手に入れるように手を回したりした。で、R.シュトラウスは金持ちで、実験性のないタイプの側に近い。
なんせ、息子が30歳になった時、この息子が自分で働きたい、自立したいと言ったら、父ちゃんのシュトラウスは「なぜだ、いったいなんの不満がある?一生俺のそばにいろ」と、息子の言い分を理解できなかったらしい。
R.シュトラウスとはまったく関係ないけど、シュトラウスJのワルツなどについては、シェーンベルクは、あれはあれで評価すると発言していた。シェーンベルクとシュトラウスJとかはまったく対極にありますけど、わたしはシュトラウスJの全集とか、また毎年の違う指揮者の恒例のものも、けっこう集めています。こういうシュトラウスJみたいな作品も、小さなところ以外は何も考えていないという人たちが作るような曲ですよね。






2015年4月13日月曜日

20150413 居住空間学

今日も話題がないのに、無理やり何か書いてみよう。

今日朝、コンビニで、BRUTUSの居住空間学、合本というのを買いました。
いろんな人の居住空間の写真を撮影したものです。
わたしはこの手の本が好きです。
で、このBRUTUS見て、それぞれの人の優雅な生活の空間に感心しました。
住む場所にこだわりがあり、その空間を楽しんでいます。余裕がある。
ピアニストの園田高弘は、グランドピアノを4台置いていたらしい。その部屋の写真があります。
わたしは家具の配置とか、休みなく移動させる癖があります。
でも、トランシット海王星がアセンダントに来た頃から、掃除することができなくなって、ゴミ屋敷と化しました。たとえば何か買ってきても、それを紙袋から出さないまま、そこいらに放置するということが、多くなってきました。食べものが腐っていたり、不思議な生物とかキノコが生育していたりということは、まだありません。
それで、最近の自分は広い空間は制御できないことがわかり、狭くしようと思いました。

外の世界というのは、実は脳の奥に入っていくことで開かれていきます。
脳の外にある世界は、感覚的な、狭い世界で、それは外ではなく、内にあるものです。
それと似て、狭い空間に入り込むと、そのぶん、何か外に開かれていくのかもしれない。
BRUTUSで、こばやし・ゆうが、自分は一畳あればいいと言ってるけど、たぶん圧縮された空間ほど、外に拡大するからでしょう。
これは、ベルリオーズが作曲するために、三畳間みたいなところにピアノ持ちこんでいたという話が記憶に残っているので、そう考えるのですけど。
あるいは伊藤左千夫が、創作するために、自分の家の壁にカプセルホテルみたいな穴をあけて、そこで書いていたという話をおぼえているからかも。
意識がもっと外に拡大すると、それにつれて、身近なところがままならなくなってくると思います。お片づけもできなくなってくるような状態になりやすいと思います。

わたしが最後に持っていた大型スピーカーは、15インチのタンノイのグレンエアですけど、この15インチの反応の鈍さというのが気にいらず、最後はほとんど聴かなくなった。ずっと10年くらいは、この手の大型スピーカー聴いていたけど、グレンエアを最後に、興味を失いました。
で、最近はヘッドホンか、あるいはニアフィールドモニターで、とくに、パソコンのCRTの両脇に、小型のスピーカーを置いたニアフィールドのリスニングは、スピーカーが近いので、アンプにパワーも必要がないし、スピーカーも小さい振動板なので、反応速度が速いし、低音も近いとそこそこ聴けるということがわかって、気に入っています。たとえば8センチのユニットです。

実際、たくさん手に入れたとしても、場所を取らない。それに圧倒的にお金かからない。
たとえば音楽の友社のステレオ誌の付録の、フォステクスのカンスピ、ウーファーとツィーターがそれぞれふたつのセットで、3800円です。
BRUTUSでは、音楽プロデューサが、部屋の本立てかなんかの下の空間に、タンノイのビーナスV30かマーキュリーM20を、そのまま横に床置きしているのが気になる。横に床置きした音がどんなのか、想像してしまうからですね。音楽の仕事をしている人が、どうしてそんなぼわぼわの音を受け入れられるのかと思ったりするわけです。
ひとあたり読んだ後は、BRUTUSは裁断されて、PDFになりました。五分もかからないうちに。

それで、ニアフィールドの小さいスピーカーとなると、やはり秋葉のコイズミ無線の通販に興味が行って、いくつか、そういうのを手作りしたいと思ったりしますが、わたしは自分のキーボードを打つ音を聞くと、打ち間違えたり、また打鍵の速度が急に落ちたりします。
なので、やはりイヤホンとかヘッドホンで、自分の打鍵の音が聞こえないくらい遮音性の高いもので聴いていたほうがいいです。STAXは密閉性がないので、外のどんな音も聞こえる。遮音性が高いのは、シュアーのイヤホンですが、あまり音がいいとは言えない。
自分のiTunesには、手に入りそうなCDを片っ端からリッピングしているので、まるで辞書みたいです。たとえば今日はプロコフィエフ聴いていますが、プロコフィエフだけでも、CDは24枚入っています。
アンドレ・プレヴィンがかなり好きなので、ホロスコープ作ってみたかったけど、親が移住やら亡命やらを繰り返していて、自分の出生の年月日もわからないんだと。ネットではプレヴィンのチャートは掲載されていますが、本人がわからないというんだから、作ってもしようがないと思うんだけど。




2015年4月6日月曜日

20150406 時々わざと話題を作らないと/スペイン

時々わざと話題を作らないと、雑記が続けられない。

こないた南フランスは、音楽から見るかぎりでは、退屈という言い方をしましたが、
それに比較して、カバラが発展したほかの地域であるスペインの音楽は退屈でないです。
といっても、わたしがクラシック音楽に開眼したのは中学生の時、バッハの管弦楽組曲を聴いてからですが、フルートはピエール・ランパルで、このランパルのキラキラした音色にとても惹かれました。後に、オーレル・ニコレを聴いて、その地味さにがっくりきました。
ランパルはマルセイユに生まれたので、フランス人だ。

同じく鮮烈な印象を与えるフランス人音楽家は、ピエール・モントゥで、北ドイツ放送交響楽団の幻想は、元気すぎてびっくりしました。たぶん、記憶がはっきりしないけど、高校生の頃、コンサート・ホールのレーベルの通販に入っていて、毎月自動的に送られてくるレコードで聴いた。
コンサートホールの録音品質は、冴えないと思っていたけど、いま思うに、ロンドンレコード(これはデッカのことで、日本ではロンドンレコードという名前の会社だった)の派手なドンシャリではなかったからだ。いまなら、きっとコンサートホールの非ドンシャリは好感が持てる。
で、モントゥーの幻想は、記憶では、確かにこんなジャケット。鐘の音が思い切り荒っぽいんです。


これもまったく飾り気のない、薄い紙のジャケットだと思います。
こういうふうに、毎月、自動的に送られてきたり、FM放送のように、自分で選曲できないのがとても良いです。新しい発見があるから。このモントゥの幻想が好きだった結果、ミュンシュのはまったく受け付けられなくなった。

で、スペインの話に戻るけど、わたしがよく聴くスペインの作曲家は、
イタリア人だけど、スペインにずっと住んでいたスカルラッティ
sor(ソル) これはギター音楽
ピアノばかり聴いていたグラナドス
アルベニス
ファリァ
時々トゥリーナ
ロドリーゴ
新古典主義のアルフテル
これらはみな、ナクソスでないと、なかなか手に入らない。

そういえばフランスは退屈だといいつつ、別に退屈だから嫌だといってるわけではなく、それが特徴だと言ってるだけで、フランス6人組の、オネゲルとミヨー、プーランクはわりによく聴きます。で、このフランス6人組をまねて、スペイン8人組というのがあって、この中にアルフテルが入っています。

で、わたしがもっとも好きな作曲家のひとりであるエドゥアール・ラロは、フランスの作曲家であるけど、祖父の代まではバスク系スペイン人で、どこからどうみても、スペインの血を感じます。というか、フランスのトーンの中に、スペインが時々噴出する。
こういうふうにスペインの血が湧き出してくる音楽で、有名なのは、スペイン系の血筋のチック・コリアで、文字通り、My Spanish Heartがあります。というよりも、そもそもロドリーゴを使った「スペイン」そのものを話題にしないといけないのですが、それより、わたしはLove Castleのほうが好きなんです。

https://www.youtube.com/watch?v=-kgUJ-NamBU

で、わたしはラロでも、チック・コリアでも、スペイン的なものが出てくると、根底から揺さぶられるような印象を感じる。といっても、いつもスペインの音楽を聴いているわけではなく、いまでも、原稿を書きながら、シェーンベルクのグレの歌聴いているんですが。
昨日はモントゥの幻想を久しぶりに聴いた。昨日の夕方はスカルラッティとソル。
いま使っているヘッドホンは重さが450グラムもあり、ケーブル重も入れると、ずっしりしているので、ノートパソコンのように顔が前傾姿勢だと、首にかなり負担が来ます。正面向いて入力するようなデスクトップでないと、これは聴けない。

やはり南フランスのカバラでなく、スペインのカバラを話題にしたい。