森博嗣の「孤独の価値」というのをキンドルで読みました。個々の部分は、ここまでツメが甘くていいのかと思いました。「子供かっ」と突っ込みいれたくなるような。たぶん、もうすでにやる気ないんだと思います。が、考え方としてはとても良かった。共感できる。
で、わたしもモンテーニュかエノクのような暮らしをしたいと言いつつ、なおリタイアだと言いつつ、どんどんその反対に進んでいるように見えるの で、2015年は軌道修正したいです。
いまは大阪の講座の帰りの新幹線だ。
森博嗣の孤独、孤立ということと、恒星をベースにした世界観は関係があります。そのことを、わたしは今日、講座の中で説明したんです。
占星術の惑星を軸にする生き方は、人間の生き方と言わず、準人間あるいは人間準備段階といいます。なので地球を投影した太陽星占いも、人間レベルに達しません。人間を哺乳動物化します。人間といえるのは、惑星を全部あわせた全惑星レベルのみです。
それぞれの部分的な要素はサインの影響があるが、全体としては、特定のサインの影響はないとみなすことも大切です。
森博嗣は、多くの人はマスコミのプロパガンダとか、宣伝イメージを信じ込んで、嘘の価値観の中に住んでしまうといいます。これに染まらないようにするには、孤立する必要があるけど、単なる物理的な孤立は問題となっているわけではなく、考え方の自立性が必要で、これは全惑星意識でないと実現しない。
惑星の相対性に振り回されないためです。そのぶん意識の密度が高くなるので、集中力が必要です。
森博嗣が言う例としては、仕事は楽しいという宣伝をして、若者は仕事は楽しいと思い込んでしまう。で、実際に就職してみると、苦しいばかりで、こんなはずではなかったと挫折感を抱くというのです。なので、はじめから仕事は楽しくない、苦しいと言っておかなくてはならない、と。
仕事が楽しくなるのはごく一握りで、しかもそれは自発性を発揮しないかぎり楽しくはなりません。
たいていの仕事は、言われてするわけで、自分から開発しているわけではない。なので、仕事は楽しいはずはないです。
わたしは10代終わりとか、書店にいたとき、こんなゆるい退屈な時間が続くと人はだめになるんではないかと思いました。だいたい学校の授業の時に、授業を無視してドストエフスキーとか読書していたのも、密度のない時間をだらだらとすごすのが耐えきれないと思ったから。それはその授業をしている先生にも言いました。先生のやってる授業はほんとにくだらない、と。先生はそれが理解できなかったみたいです。
で、全惑星イコール太陽かというと、違います。これは皿を割って、その部品を全部集めたものが全惑星意識。太陽は割れていないもの。なので、たとえば、イメージとしては、0.9999999999と1の違いがあります。
恒星は太陽と等価。惑星の惑う星としての相対的な人生から、ひとり輝く生き方を作り出すには、太陽あるいは恒星に生き方の軸を移動させる必要があります。そのための土台として、全惑星意識が必要なんです。
今回の三次元中級講座は、このマップを作ってほしいということを参加者に要求したので、これは中級でなく上級ではないかといわれました。
でも、それをするには、実はブレイディの恒星では数が少なすぎる。
レベル6の階段では、アクルックス、アケルナル、ファクトの三つしかないし。
梯子を作るための、辞書づくりをする必要があります。
それに恒星の意味の一覧表あっても、これは単なる言葉の座学になってしまうので、恒星を実感して、それを自分で知り探索することが大切です。知識的なものでなんとかなるわけではないです。
森博嗣はいまは一日一時間しか働かないと書いている。
それ以外は趣味が忙しすぎるらしい。全力で趣味に集中しているらしい。
で、電車には二年半くらい乗っていないのだと。
周囲の人々の影響に染まり、飲み込まれていくいき方は、グルジエフ水素でいえば、48の生き方です。で、孤立して、自分の判断をもって自立的に生きる、すなわち森博嗣のいう孤独な生き方は、24の生き方です。これは環境から頭ひとつ出て、互いに飲み込まれていく生き方に引きずられない。小アルカナカードの、ページとナイトの違いです。
で、この水素24は、思考、感情、身体の三つある。この三つがそろわないと、どれかが弱点で、また周囲の環境的な影響に飲み込まれていきます。
思考の24育成には専門家になる必要がある。専門家であることが重要というわけではなく、専門家になるまでの道のりの間で体験し得たものが大切です。もちろんそこには感情の対処も含まれてくる。
感情の24の育成には、人生体験が必要。実体験でなくてもいいです。虚構でも同じです。あらゆる種類を体験して、特定のでこぼこがなくなるように。何かに期待して失望したりすること、これは感情としては幼いし、依存的過ぎる。これは感情の貧しさをあらわしています。
身体の24は、あきらかに身体の訓練が必要です。もちろん身体は感情にも思考にも影響を与えます。この三つは互いに影響を与え合うが、混じってはいない。シュタイナーの言うように、一度切り離し、あらためて結合する必要があります。
わたしが今走るのがすきなのは、少なくとも、その時間の間は身体の24を継続できるからです。
このグルジエフ的な、意識の振動密度みたいなものの上下の落差を、
たとえば脳内エンドルフィンが出るから、気持ちが良くなるんだ、みたいな平面的なものに置き換えた説明をすることで、このあたりの事情が正常に理解できなくなるんですね。
ある意識状態を作り出すには、それのための能動的な働きかけが必要である。
でも、それは物質のせいだという話になるのです。それがあれば、働きかけはいらない、と。
中身なしで、形だけ取るみたいな考えかたは、実質が伝わらなくなるので、弊害が多く残ります。人間は思考の生き物で、思考は周囲の現実に対してはあまり関心がないので、思考で生きると、人はいつも間違った方向に走ります。そして時間をかけて、また修正します。つねに間違った方向に走るのが日常であると思ったほうがいいです。それを非難してはいけない。それが当たり前。そのくらい自分の思いの中に閉鎖されています。
久しぶりにグルジエフの話を思い出したのは、今日はある雑誌の原稿を書くから。
客観芸術について書いてくれという内容です。
森博嗣がちょっと怒ってる書き方をしているのは、孤独死という言葉で、それは寂しく見捨てられて死んだみたいな暗いものを連想させる。でも、現実は誰もわからない。死ぬ時に一人で死にたい人もたくさんいるし、むしろ死ぬときくらいは姿を消したい人もいる。死ぬときには姿を消すというのは、わたしにはもっとも正常なものに見えます。
実は死んだ後も自由にさせてくれないですね。引き止めないで。お参りに来ないで、と思う人はたくさんいるはずなのに。
孤独は贅沢なもので、それは簡単には手に入らない。作家になって、ひとりで作業してもまったく生活に困らないというところまで行ってやっと手に入る努力の賜物でもあるのに、孤独は否定的に見られているということが、森博嗣にとって気に入らないみたいです。日本は民主主義というのは形の上であって、実質は社会主義なので、ひとりだけ違う考え方をしていると、袋叩きにあいます。それに監視しあう社会が今はできている。これは東日本震災の時に如実に出ていたと思う。
文明の修正機能を発揮する孤独者としてのアウトサイダーたちをもっと増やすべきですが、アウトサイダーの走りのコリン・ウィルソンの話だと、その比率はとても少ない。
森博嗣の本を読んで、懐かしい思いをしたのは、これは、ヘルマン・ヘッセとか、ソーローとか、コリン・ウィルソンとか、しまいに、詩を書くために孤独を押し切ったリルケをどこか思い出すからですね。実際に詩を書けと言ってる。リルケの考えだと、詩を書かないと死ぬ人は書いてもいいが、書かなくても生きていける人は書いてはいけないという話です。谷川俊太郎は、それを意識して、昔、詩の中で、えーと、実は書くことなんて何もないんだよね、と言ってました。
で、わたしもモンテーニュかエノクのような暮らしをしたいと言いつつ、なおリタイアだと言いつつ、どんどんその反対に進んでいるように見えるの で、2015年は軌道修正したいです。
いまは大阪の講座の帰りの新幹線だ。
森博嗣の孤独、孤立ということと、恒星をベースにした世界観は関係があります。そのことを、わたしは今日、講座の中で説明したんです。
占星術の惑星を軸にする生き方は、人間の生き方と言わず、準人間あるいは人間準備段階といいます。なので地球を投影した太陽星占いも、人間レベルに達しません。人間を哺乳動物化します。人間といえるのは、惑星を全部あわせた全惑星レベルのみです。
それぞれの部分的な要素はサインの影響があるが、全体としては、特定のサインの影響はないとみなすことも大切です。
森博嗣は、多くの人はマスコミのプロパガンダとか、宣伝イメージを信じ込んで、嘘の価値観の中に住んでしまうといいます。これに染まらないようにするには、孤立する必要があるけど、単なる物理的な孤立は問題となっているわけではなく、考え方の自立性が必要で、これは全惑星意識でないと実現しない。
惑星の相対性に振り回されないためです。そのぶん意識の密度が高くなるので、集中力が必要です。
森博嗣が言う例としては、仕事は楽しいという宣伝をして、若者は仕事は楽しいと思い込んでしまう。で、実際に就職してみると、苦しいばかりで、こんなはずではなかったと挫折感を抱くというのです。なので、はじめから仕事は楽しくない、苦しいと言っておかなくてはならない、と。
仕事が楽しくなるのはごく一握りで、しかもそれは自発性を発揮しないかぎり楽しくはなりません。
たいていの仕事は、言われてするわけで、自分から開発しているわけではない。なので、仕事は楽しいはずはないです。
わたしは10代終わりとか、書店にいたとき、こんなゆるい退屈な時間が続くと人はだめになるんではないかと思いました。だいたい学校の授業の時に、授業を無視してドストエフスキーとか読書していたのも、密度のない時間をだらだらとすごすのが耐えきれないと思ったから。それはその授業をしている先生にも言いました。先生のやってる授業はほんとにくだらない、と。先生はそれが理解できなかったみたいです。
で、全惑星イコール太陽かというと、違います。これは皿を割って、その部品を全部集めたものが全惑星意識。太陽は割れていないもの。なので、たとえば、イメージとしては、0.9999999999と1の違いがあります。
恒星は太陽と等価。惑星の惑う星としての相対的な人生から、ひとり輝く生き方を作り出すには、太陽あるいは恒星に生き方の軸を移動させる必要があります。そのための土台として、全惑星意識が必要なんです。
今回の三次元中級講座は、このマップを作ってほしいということを参加者に要求したので、これは中級でなく上級ではないかといわれました。
でも、それをするには、実はブレイディの恒星では数が少なすぎる。
レベル6の階段では、アクルックス、アケルナル、ファクトの三つしかないし。
梯子を作るための、辞書づくりをする必要があります。
それに恒星の意味の一覧表あっても、これは単なる言葉の座学になってしまうので、恒星を実感して、それを自分で知り探索することが大切です。知識的なものでなんとかなるわけではないです。
森博嗣はいまは一日一時間しか働かないと書いている。
それ以外は趣味が忙しすぎるらしい。全力で趣味に集中しているらしい。
で、電車には二年半くらい乗っていないのだと。
周囲の人々の影響に染まり、飲み込まれていくいき方は、グルジエフ水素でいえば、48の生き方です。で、孤立して、自分の判断をもって自立的に生きる、すなわち森博嗣のいう孤独な生き方は、24の生き方です。これは環境から頭ひとつ出て、互いに飲み込まれていく生き方に引きずられない。小アルカナカードの、ページとナイトの違いです。
で、この水素24は、思考、感情、身体の三つある。この三つがそろわないと、どれかが弱点で、また周囲の環境的な影響に飲み込まれていきます。
思考の24育成には専門家になる必要がある。専門家であることが重要というわけではなく、専門家になるまでの道のりの間で体験し得たものが大切です。もちろんそこには感情の対処も含まれてくる。
感情の24の育成には、人生体験が必要。実体験でなくてもいいです。虚構でも同じです。あらゆる種類を体験して、特定のでこぼこがなくなるように。何かに期待して失望したりすること、これは感情としては幼いし、依存的過ぎる。これは感情の貧しさをあらわしています。
身体の24は、あきらかに身体の訓練が必要です。もちろん身体は感情にも思考にも影響を与えます。この三つは互いに影響を与え合うが、混じってはいない。シュタイナーの言うように、一度切り離し、あらためて結合する必要があります。
わたしが今走るのがすきなのは、少なくとも、その時間の間は身体の24を継続できるからです。
このグルジエフ的な、意識の振動密度みたいなものの上下の落差を、
たとえば脳内エンドルフィンが出るから、気持ちが良くなるんだ、みたいな平面的なものに置き換えた説明をすることで、このあたりの事情が正常に理解できなくなるんですね。
ある意識状態を作り出すには、それのための能動的な働きかけが必要である。
でも、それは物質のせいだという話になるのです。それがあれば、働きかけはいらない、と。
中身なしで、形だけ取るみたいな考えかたは、実質が伝わらなくなるので、弊害が多く残ります。人間は思考の生き物で、思考は周囲の現実に対してはあまり関心がないので、思考で生きると、人はいつも間違った方向に走ります。そして時間をかけて、また修正します。つねに間違った方向に走るのが日常であると思ったほうがいいです。それを非難してはいけない。それが当たり前。そのくらい自分の思いの中に閉鎖されています。
久しぶりにグルジエフの話を思い出したのは、今日はある雑誌の原稿を書くから。
客観芸術について書いてくれという内容です。
森博嗣がちょっと怒ってる書き方をしているのは、孤独死という言葉で、それは寂しく見捨てられて死んだみたいな暗いものを連想させる。でも、現実は誰もわからない。死ぬ時に一人で死にたい人もたくさんいるし、むしろ死ぬときくらいは姿を消したい人もいる。死ぬときには姿を消すというのは、わたしにはもっとも正常なものに見えます。
実は死んだ後も自由にさせてくれないですね。引き止めないで。お参りに来ないで、と思う人はたくさんいるはずなのに。
孤独は贅沢なもので、それは簡単には手に入らない。作家になって、ひとりで作業してもまったく生活に困らないというところまで行ってやっと手に入る努力の賜物でもあるのに、孤独は否定的に見られているということが、森博嗣にとって気に入らないみたいです。日本は民主主義というのは形の上であって、実質は社会主義なので、ひとりだけ違う考え方をしていると、袋叩きにあいます。それに監視しあう社会が今はできている。これは東日本震災の時に如実に出ていたと思う。
文明の修正機能を発揮する孤独者としてのアウトサイダーたちをもっと増やすべきですが、アウトサイダーの走りのコリン・ウィルソンの話だと、その比率はとても少ない。
森博嗣の本を読んで、懐かしい思いをしたのは、これは、ヘルマン・ヘッセとか、ソーローとか、コリン・ウィルソンとか、しまいに、詩を書くために孤独を押し切ったリルケをどこか思い出すからですね。実際に詩を書けと言ってる。リルケの考えだと、詩を書かないと死ぬ人は書いてもいいが、書かなくても生きていける人は書いてはいけないという話です。谷川俊太郎は、それを意識して、昔、詩の中で、えーと、実は書くことなんて何もないんだよね、と言ってました。