2014年3月22日土曜日

20140322 はじまりはどこから

昨日の雑記の内容に関連していることだが、
円環時間には、始まりと終わりがない。しかし、異なるコスモス単位へのつなぎの節目はある。
上の次元から、下の次元に降下するときの節目は、下の次元の円からすると、はじまりだ。
わたしたちは、感覚的な存在として生まれた時、この感覚的な知覚のありかたを手に入れ、それを使い始めることそのものによって、それ以前の記憶を失う。
なぜなら知覚のしかたがまったく違うからだ。

で、ホロスコープの場合、アセンダントつまり地球の地平線に、生命の帯である黄道が接触したところを、個人の始まりにする。もちろんこれは、感覚的、肉体的な存在としての個人の始まりだ。
でも、これは感覚に縛られていない本来の生命存在の始まりをあらわしていない。
あくまで、肉体的な存在として生まれてきたところのスタート点だ。
このはじまりの設定は比較的あいまい。
何をもって始まりと決めればいいのか、というところでは、すべての人に共通した基準がないのではないかと思う。

それにそもそも、親とか周囲の人が生まれた時間を記録しているからそれをもとに計算しているが、自分で自覚していたわけではない。昏睡状態で、本人にはまったくわからないスタートであって、自我の始まりとか自覚の始まりを自分の始まりとするのならば、アセンダントを決めた出生時間の時には、まだ「わたし」は始まっていない。
この自我のありかたは、この感覚的で、肉体的な器官と結びついたところでの自我の始まりと、こんどはたとえば気の身体としてのエーテル体を素材にしたところでの自我の始まりというものを比較すると、それぞれ異なっているので、自我の始まり、自覚の始まりというところでも、万人に決まった基準がないのだ。
エーテル体を素材にした自我の始まりというものならば、母体の中ですでに始まっている。
しかしこの知覚の形式は、わたしたちが大人に育っていく過程の中で、記憶を消去される。
多くの人と同じように感覚的な目や耳で自覚するというしかたをおぼえこむ段階で、それそのものの感じ方がそれ以前の記憶を消してしまうのだ。

どのレベルを自分とみなすのか、ということを先に定義しなくてはならない。
そしてそこから、スタート点、というか節目、大なる宇宙から切り離されて、小なる宇宙が始まる節目を設定しなくてはならない。

この問題は、ホロスコープという個人の起点を考えるときに必要なことなのだが、集団的な意識としてのスタート点を決める時にも、よく考えなくてはいけない問題になる。
たとえば、土地とか地図の占星術的な12サイン割り当てを決めてくださいという話になると、
わたしは以前雑誌で、日本地図を12サインにわけて、あちこちを旅するというコラムを書いていたが、日本の起点をどこにするか、ということで試行錯誤した。
中国が、いったいどこからどこまでが中国なのかわからないように、
日本もどこからどこまでが日本なのかわからない。
現在の日本国という地図でわかるではないですか、と言われるかもしれないが、
それは「現在の日本国というアイデンティティ」の上でのものであって、
たとえば、縄文日本とか弥生日本とか、朝廷の日本とか、徳川家康の日本とか、明治の日本とか、それぞれに「自我のありかた」が違うのだ。

で、わたしは以前、自分がもと出雲族であるということを本に書いたのだが、
このもと出雲はまだ大地に着地していない雲の状態であり、大陸と地続きで、西に長く伸びた筒のようなものだ。そして日本のあちこちにアームが下りているような状態。
これは個人のホロスコープにたとえると、アセンダントになる前の状態で、まだ肉体的に下りていない状態。出雲は、雲から出てきたのか、それとも雲が出てきたのか。

で、雑誌の連載の時には、暫定的に、九州の伊万里あたりを起点にした。つまり徐福がやってきたときを、現在の日本の「自我のありかた」の原点とみなした。
そこを春分点、すなわち牡羊座のはじまり、前の宇宙の記憶を喪失する場所、そして新しい自我のうまれる起点としたのである。
地球で12サインの地図を作るとき、ジオデティックはグリニッジを起点にするが、
もちろんそんなでたらめを採用したくない。これは政治的な、イギリスの覇権のスタートを示した本初子午線であり、それは今日の国家意識をもとにして作られる人間意識のスタート点でしかない。
人間個人が生まれる前に、青い狐がいた。
この青い狐のスタートを意識するならば、起点はグリニッジでなく、ニジェール川にしなくてはならない。そうシリウス意識が降りてきた場所だ。
アフリカのすべての種族はそこから始まった。そしてエジプトでさえ、そこからの子孫なので、古地図で使われるように、大陸がもっとも大きなサイズになるピラミッドの経度位置を、本初子午線にするよりも、より精密だ。
でも、わたしたちは、青い狐は存在せず、人が生まれてきたところをスタート点にしたい。さらに、政治的、国家的な成立ののちの自我を人とみなすならば、グリニッジにするかもしれない。

地球の春分点すなわち始まり。日本の始まり。個人の始まり。
これらは共鳴しあう、異なるサイズの円なので、基本的には同じ理屈で考えることができる。
で、わたしはもと出雲族だとするならば、肉体的な始まりを自分の始まりとはしないタイプだ。
つまりエーテル体の上に立つ自我を、つまり"肉体"よりも、"意図"を重視する考え方で決めようとする。降りてきた後でなく、降りようとする意図、目的の部分を、まずは降りてきた後の自分の始まりとみなすのだ。結果からものごとを判断するわけでないということだ。

意図は動作よりも早いので、武道の達人になるには、この動作よりも早い意図のほうを読まなくてはならない。攻撃の始まりは、常に攻撃の意図の後、ワンテンポ遅れて始まる。意図を直接読めば、動作が始まる前に反撃できるのだ。
これがエーテル体を基盤にしたところのわたしということだ。
たとえば、真っ暗の中で会議してみよう。すると、誰かが発言する前に、発言しようという意図が先に発信されるのがわかる。明るい場所では、この意図が見えにくくなり、感覚的に誰かが口を開くのを見てから、その人が発言することがわかる。

一方的に流れる時間意識の中では、物質的な輪郭によって、タイミングとか起点を決める。なので、今日の午後六時に待ち合わせというときには、午後六時がスタートだが、実際にはそこに向かってなだらかに盛り上がる気の流れがある。物質的な輪郭としては午後六時だが、気の流れとしては、朝からかもしれない。昼からかもしれない。物質的に会合する六時には、もう形骸化して、もう残骸しか残っていない場合もある。そうでない場合もある。
たとえば、わたしが何か買い物するときには、たいてい実際に買う時間にはもう形骸化している。わたしはその購入するモノに対して、もう関心を向けていない。関心が向かっているのは、買う前までだ。
なので、買い物に行っても、実際には買わないことも多い。むしろそのほうが多い。現物を目にすると、気抜けするのだ。
物質的なものは、常にどんな時でも、表象、気、エーテル体よりもエネルギィが弱いので、現物を目にすると、それ以前よりもテンションが落ちる。常に。そして意図が間違っていたのではないかとさえ思う。こんなもの買うつもりではなかった、と感じる。

意図を意識せず、常に物質的な輪郭のみを重視するのならば、すべてを結果から判断するということで、こういうギャップは感じないと思うが、しかし日ごとに萎縮して、最後は石になってしまう人のことを示しているので、そんな生き方をお薦めしないのは言うまでもない。

個人的な話では、わたしの進行の新月は今年の七月ならば、七月から始まるというよりは、そこに物質的な節目があり、その前後に均等に山に向かう傾斜があるので、実際には、わたしはそれよりももっと前を始まりとみなすことになる。もと出雲族ならば、感覚的な始まりの前に、真の始まりがある。









 

2014年3月21日金曜日

20140321 スカイプ好調です/占星術デー

倉本氏が、世界占星術デーの3月20日は、帰郷します、というメールをしてきたので、思い出しました。世界占星術デーというのがあるのだと。

占星術は、円環型時間のシステムです。この円環型というのは、大きな円は小さな円へとつながり、前も後ろも、上の次元も下の次元もすべて連結されているというものです。
なので、占星術の始まりの部分ともいえる春分点は、より大きなコスモスとつながっていて、いわば、「天国との橋」が切れていないものを示す。
ところが、今日わたしたちが使う暦というものの起点のお正月は、その先に何もない虚空。
つまりこれは「人類は孤立するべきであり、宇宙的なリズムに従ってはならない」という思想で作られた抽象的なシステム。なので、そこには始まりと終わりがあり、始まりの前にも何もなく、終わりの後にも何もないというもので、グレゴリオ暦はより大きな宇宙にはつながらない。
そもそも占星術は、こうした人工的なグレゴリオ暦に対して異を唱える、もっと深い歴史のあるものなので、実はグレゴリオ暦の中の特定の日、記念日のようなものに決して組み込めない。
世界占星術デーを作るということそのものが、占星術の本来性を否定したものとなる。もしつくるとしたら、毎年位置調整をします、というものが良い。
世界占星術デーを考案した人は、占星術の真意を捻じまげる、本当の愚か者かも。

ある占星術学習の初心者の人が、「占星術のことを考えると、懐かしいと同時に、不安を感じる」ということを言いました。その理由について、わたしは「それは集団的な感情である」と説明したのだが、グレゴリオ暦、ほかさまざまな形で、人類が、宇宙的リズム、さらに霊界のような次元とのつながりを切り離して、孤立する時に、占星術は否定されるようになった。
占星術はこの、人類の自然界からの孤立の方針に従わないからだ。せっかくグレゴリオ暦で、人々を閉じ込めても、占星術はそれを台無しにする。国を管理しようとしても、抜けが出てくるのだ。なので、この手のさまざまな抜け道を封じるキャンペーンをした。こうした歴史的経緯が、懐かしい、そして記憶の中にある、不安を呼び覚ますということなのだ。

人類は独立した自我を作るために、わざと自然界のリズムとか宇宙的な霊界の原理から分離した。一か月に31日などという異様な設定があるのも、そのせいだとシュタイナーは言ったが、自我を作った後は、またあらためて、自然界のリズムとの同調を取り戻す必要があるのは言うまでもない。自我を作った後、そのままだと、人は孤立したままで、この人間社会以外に生きる場所は存在しないが、ここはとても狭苦しいので、たくさんの人を全部収容するほどの大きさはない。

スカイプは好調です。小林ビルの時には、回線が古いソフトバンクのADSLだったので、しばしば停止した。いま使っているものは、それよりも高速でとぎれがないので、スカイプが滑らかです。
で、スカイプがスムーズなら、やはり机の前に縛られたくない。なので、ヘッドセットは、無線を使っていて、この無線は三種類ある。ひとつはbluetooth。もうひとつは2.4G帯のもの。それから、ヘッドホン専用として、ゼンハイザーが採用している非圧縮型。
結局最近はヘッドセットのスパイラルに入っていて、プラントロニクスの小さなものとか、Logicoolのものとか、いろいろ試している。

わたしがHuluで、ザ・ソプラノを見ていると書いたら、太田氏からも見ていましたというメールが来たけど、それよりも、ブレーキング・バッドはもっと面白いです。高校教師が、癌になり、治療費のお金を稼ぐために、ドラッグを製造するようになる話。で、ここに登場する弁護士ソウルが、プラントロニクスらしき小さなbluetoothを使っている。ので、プラントロニクスの小型bluetoothって、どんなのだという人は、プレーキング・バッド見たら、わかるよ。ノイズキャンセリングの性能も非常に良い。

わたしの進行の太陽と月の新月は、今年の七月です。牡牛座の宝石店23度で、3ハウスです。3ハウスの牡牛座は、土地から話を聴くような感じでもあります。











 

2014年3月10日月曜日

20140310 どのくらいするとエンドルフィンが出るのか

ネットを見ていると、 βエンドルフィンのことについて書いてあるページがわりに多い。これは脳内麻薬のようなもので、苦痛を和らげるために脳が生産する物質であるらしい。脳波がアルファ波になるとこれが出てくるという話もある。

どうしてこのエンドルフィンに興味ができたのかというと、世界でもっとも稼げる俳優ということで、数日チャーリーシーンに興味を持っていた時があって、しかしながら彼は、ドラッグをして、またアルコール依存症で、という典型的なハリウッド型の俳優だということが判明した。施設にも入ったことがあるというアルコール依存症について調べていると、アル中あるいは依存症は、エンドルフィンの不足から、アルコールに依存するようになるということらしい。風あたりの強すぎる仕事をしていると、ストレスを緩和するために、ドラッグとかアルコールとかに走る。昔ならば、性格だと思われていたものも、現代では全部依存症とか病気に分類されるので、中国の詩人李白なども、重度の依存症にされてしまうだろう。依存症のないマトモな人格というのは、存在するのか?空想的な、現実には存在しえない基準を標準にしてしまっているだろうと、わたしは思う。理念的で空想的な、というよりも、面倒なものは扱いたくない、ともかくある種のロボットみたいなものを理想に想定しているのではないかと常々思うが、それはともかく。

マラソンしてる場合には、体が苦痛なので、ある段階から脳の中にβエンドルフィンが出てきて苦痛を和らげるということが書いてある。
その結果が、いわゆるランニングハイなのだと。βエンドルフィンは快感物質を生産するので楽しいことや気持ちのいいことをすると生産されると書いてある。このような精神状態を物質で考えるというやりかたは、ともかくどんなものでも、物質の証拠がないと認めないということで、たとえば脳に異常な映像が見えない場合には、後遺症は認めないので、保護対象として認定しないとか、いま、世界から笑われている日本の医療レベルの遅れにも関係すると思うが、半面、パターン的に理解しようと思う場合には便利な面もある。

で、私としてはマラソンしてる場合にどのくらい時間が経過すると。 βエンドルフィン、すなわちランニングハイの状態になってくるかを実際的に確認してみたかった。あるブログでは25分ぐらいするとそれがでてくるという話になっている。私の場合には走り始めは多少苦痛を感じる。それも少しだけだが。それまでずっと座っていた状態でいきなり走り始めるわけだから体がまだそれに適応できておらず、足並みもそろわない。だからそう感じる。
 しかしながら少しずつ体が温かくなってきて、運動のリズムが5キロくらいの段階から整ってくる。確かにこの段階であまり苦痛ではなくなってくる。これは25分から30分前後の段階だと思われる。でもこれはランニングハイというよりも、身体の適応だと思うのだが。

その後走り続けていると、ある段階で、やっと走ったという満足感を感じる段階がある。この時に初めて私はタイマーを見ることにしている。このタイマーというのはガーミンのGPSウォッチ。毎回、このある程度満足感を感じた段階でウォッチを見るのだが、いつもだいたい15キロの段階である。少ない時で13キロ、多い時で16キロくらい。15キロ走ると、自分としては、今日はなんとなく走ったなという実感があるということである、その後20キロまで行くと走るのをやめる。なんとなくトランス状態に入ったような感じ、つまりずっと走っていても、無感覚になるのはたぶん10キロすぎたあたりからだろうか。つまり βエンドルフィンは10キロぐらい走れば出ていると感じる状況か。快感を感じるというよりはむしろ無感覚になるということです。

ちなみにランニング依存症というのもあるらしく、これは毎日走らないと、自分は死ぬかもしれないと感じたりするらしい。選手とかは、これに陥らないようにするために、わざとお休みを設定するらしいが、それでも監視しておかないと、隠れて走る人がたくさんいるらしい。
体重を軽くすると走りやすいことが判明して、体重を減らすが、すると頻繁に貧血を起こす。スポーツをする人の貧血が非常に多いらしく、スポーツ貧血という名前になっている。実は、わたしは以前はランニングをしていると、一か月に平均二回とか三回貧血を起こして、すると、その日は、走るのを停止しても、その後も歩くことさえしっかりできなくなるという状態になることが多かった。いまは、それが起きにくい。貧血を避けるために、頑張って食べているからだ。食べていても、体温は確保できていないけど。炭水化物を食べると、貧血は起こりやすい。きっと早く燃えすぎるから。なので、炭水化物をやめて、ゆっくり燃えるたんぱく質を増やす。結果として体温が低くなるということではないでしょうか。しかし最近は努力して、35度台になった。36度台まではまだ届かない。

20キロ走るというのが当たり前になってきて、モチベーションが上がらない。盛り上がらない。当たり前すぎる。なので、こんどは30キロを目標にするかな。時間かかりますね。

Huluで、イタリアマフィアのボス、ソプラノのドラマを見ていて、トニー・ソプラノのお母さんみたいな、機嫌が悪く、意地悪で、なんでも否定的に見るという性格は、ある人ならば、やはりエンドルフィンが少ないからだという説明をするのではないかと思った。
老齢化して、性格的に希望が見えない悲観的な発想の人間は、自然的に生成するエンドルフィンが少なくなっているのだというのはありうるかも。アルコール依存症の人も、通常の段階では、この成分がかなり少なくなっているらしいので。
飲まないためには、ほかのことで、エンドルフィンが生成されるようなことを見つけなくてはならない。ロンドンでは朝からカフェなどで、ビールを飲んでいる人が多いけど、世界でもっともビールを飲むチェコの人とかは、どう違うのか、調査レポート読んでみたい。ロンドンでは、ランチにビジネスマンがビールを飲む率が非常に高くなっている。

人間には信念体系がある。それは型にはめて、この型の中で眠り込もうとする性質だ。家の中では安心できるという意味。そしてこの信念体系に反することを見聞きすると、ストレスが急激に増加する。フロイトがトーテムとタブーで書いていた内容は、型から逸脱したものを体験すると、ストレスが増えるという。現代社会の場合、そういう意味では、今後ももっとストレスは増加するはずなので、エンドルフィンという単純な発想で考えるならば、もっと増やさないといけないということになりますね。ごく普通に素直に健全に生きていれば、ストレスはないはず、ということは言えない。むしろ健全な人でも、どんどんストレスが増加することを避けられない。
で、この型の中で眠るという信念体系は、個人を集合化させた集団意識のレベルでは、たとえば、日本という国家も、大きな家であって、よその国と関わるということが増えると、当然、日本的な意味での信念体系は常に揺るぎ続けることになる。

日本でも第二外国語として英語を採用しようという話がある。フィリピンみたいに、小さな子供の段階から英語を教育しようというアイデア。
ちなみに言語感覚は双子座ですが、ここでは、言語体系の違いを乗り越えて、共通の理解としての言語感覚のことを述べているわけで、言語体系の違い、すなわち地域性とか民族とかの違いで発生している言葉の違いは、おうし座が示している。結局民族とか体質とかの違いは、言葉の違いではないのか。言葉が違うと同じものを指していても、受け取るニュアンスは違う。牡牛座に、開かれた書物の一文というサビアンシンボルがあるけど、ここに記述された内容を問題にする前に、その言葉そのものに注目すると、双子座的受け取り方ではなく、おうし座的受け取り方になる。
で、ヘミシンクの初期の練習会で、わたしにはふたりの老人が出てきて、ふたりでじゃんけんをしていたのは、表象文字系と、表音文字系のふたりの大天使がいるという意味でもあったけど、日本人は、漢字、ひらかな、カタカナ(ヘブライ語)を三つ使うので、全員が、だれもが、表象文字系と、表音文字系のふたつを扱っていますね。日本という国家を一度解体しないと、本来の日本の力は出ないのではないのか。日本という国家は日本の潜在力を見失わせる小さな家で、この国家は本来の伝統を喪失させることになったのだと思う。日本は非常に多数の民族が混合されていて、にもかかわらずそうは見えなくなっているのは、途中からルーツを切り離して、島国で純粋培養してブレンドした結果ですよね。ヒングリッシュとかタゴリッシュとかジャパリッシュの違いには興味があるけど、英語を第二外国語にする場合、どのルーツの英語を取り入れることになるんだろうね。













 

2014年3月6日木曜日

20140306 移動コース

ヤフーのトップページで、時々、あなたのルーツを調べますという遺伝子チェックの宣伝がある。これで、自分がどこから来たのか、どこに所属しているのかを確認できるというものだ。
で、実際にそれによってわかることがあるのか、というと、自分の半分、いわば下半身の部分のルーツがわかると思う。上半分はわからない。

先週かあるいはその前の週に夢を見たのだが、映像として、水に浮かぶ丸太の上に、立っていた。で、この丸太は丸いので、端のほうは円形に下がっていて、それから下は水の中にある。
自分は反対側を見ることはできない。この反対側に、自分の半身が存在している、という映像で、意味そのものは単純。しかしこの映像の表現がなかなかよかった。どこまでいっても、反対側は見えないというものだ、丸太でなくても、球形でもいいと思う。どこまで移動しても、半分は見えないのだ。

人間は長い歴史の中で、地球上をあたかも幾何図形を作るかのように移動する。前世とか、あるいは大きな自己の中の、今の自分とは違う位相にある小さな自己がさまざまな地域に分散していると考えてもいいが、総合として、地球を苔のように覆うネットを作り出そうとする。そのことで、地球的な自己と、太陽的な自己の平均的な繋ぎができるからだ。それが懸け橋になる。


地球を全部埋め尽くすことで、大きな自己というものに到達する懸け橋ができるが、このネットは、大まかな骨組は、立体の幾何図形で、たとえればマカバのような形を考えるといい。
遺伝子などでわかる移動のコースは、このマカバの下側の女性型正四面体の部分をあらわしている。それに対して反対側の領域は、いわば魂に属するものであるが、遺伝子的なものではわからない。それは丸太の話を出したように、見えてこないのだ。どこまで歩いても、球形の反対側がわからない。片方が西に異動すると、片方は東のほうに異動する。そして、片方が下に行くと、片方は上に向かう。

感覚的なものに包まれていると、私たちは自分を中心にしかものを見ることができないので、この球形の反対側、丸太の反対側はいつまでも発見できない。感覚から離れたら、視覚は全方位的になる。

上側の正四面体は、物質的でもなく感覚的でもないので、移動コースを地図の上では復元できないという面が多く、それでもあえて地図を移動していると考えたい場合には、下側の正四面体からの投影として、逆像として想定はできるだろう。平面的な移動だったら、経度の移動を想定して、その反対側の動きを考えるといいし、この平面的、二次元的な動きを考えるならば、ホロスコープをたとえに考えてもいいが、マカバは平面的でなく立体的な幾何図形だ。

どこまでも二次元的な発想しかできないホロスコープだが、たとえば時間の流れとして、過去から未来へという方向性は、2ハウスで表現される。過去にある資産。これはすでに持っているものなので、わたしたちはそこに依存するが、魅惑はされない。
未来からやってくる資産は、11ハウスで、これは持っていないということで興味を抱く。それは強い吸引力を持つので、持っていないということそのものが財産とみなされていい。
わたしたちは過去から未来へと進むので、この気分があるかぎり、過去はひきつけるものでなく、常に未来がひきつける力を持つ。見えないところから、何かが綱で引っ張ってくれているようなものだ。
物質から過去からやってくる。
ヴィジョンや「意図」は未来からやってくる。
この両方のどちらかを失うと、二点の間につられた糸の上を歩くことができなくなるので、わたしたちはどこにも進めなくなる。

で、いまわたしは進行の月はまだ2ハウスにある。月は創造性を持たず、ただ模倣するか、思い出すかしかできない。
そして2ハウスは過去の資産なので、わたしはいま、自分のすでに持っているものだけを消費して活動している。よく知ってることを繰り返して話しているだけなのだが、たいてい人はこういうことにお金を払う。で、無計画に、参加者のホロスコープをただ読んでいるだけだが、この過去の資産を使うだけ、思い出すだけ、というのは進行の月が2ハウスを去ると、既知のものの繰り返しのみということをしなくなる。

90度のアスペクトは、裏腹な協力関係にあり、同じ平面に並べると、互いが阻害しあう。が、表裏の関係ならば、それは協力関係だ。2ハウスと11ハウスは基本的には90度の関係にあるもので、2ハウスの過去のものを、どういう方向に「消耗させるか」を、11ハウスが裏側から指示している。11ハウスの、まだ持たざるヴィジョンを、どの方向に着地させるか、2ハウスが裏側から指示している。
たとえば、誰かがお金を使う時、どういう使い方、どういうなくし方をするのか、そのなくしかたは、11ハウスがあるべきイメージを作り出しているのだ。
単純な発想では、お金がなくなるほど、11ハウス的なヴィジョンが割り込んでくる。
勢いよくなくすと、勢いよく11ハウスがなだれ込んでくる。
なので、手に入れると駿足でなくすのが好きな人というのは、11ハウスが好きな人だ。
たとえば、部屋の中にある乱雑な荷物をハイスピードで断捨離すると、捨てた分、11ハウス的なヴィジョン、意図、イメージが、その隙間を埋めてくる。
ものがたくさんある人は、疲れ、道を見失い、怠惰の中にうずもれる。ともかく前進するとは、過去を燃やして、意図すなわち未来を引き寄せることなので、そのためには、部屋の中にあるものをどんどん減らしていくと、ここに活発な新陳代謝が起こる。

で、わたしはいま2ハウスの進行の月の時期に、過去の資産でどのくらいのことができるのかを、点検しているような印象もある。橋幸夫とか、過去に売れた一曲だけで、地方を巡業すれば、それだけで暮らしていける。こういうのが2ハウス的な暮らしだ。わたしにとっては、使い古した手法であるハーモニックも、巡業ではウケるんです。わたしにはサビアンも2ハウス的なもの。
完全に消耗しつくさないと次に行けない。つまり収入が不可能になったり、耕作できなくなると、移民に行くように、2ハウスの資産は完全に使い尽くさないかぎりは、人は未来に向かわない。









 

2014年2月22日土曜日

20140222 今日と明日は新大阪

新大阪での講座ははじめてです。
わたしが雑記に興味を向けにくいと書いたのは
何か熱中できることがほかにあるからではなく、今はどれにも関心を向けにくいので、雑記に関してもつい書かなくなるということです。

で、この何事にも関心が行きにくいというのは、体温に関係あると思った。
最近のわたしの体温は、35度に行かないことが多く、昨日は34.8だった。
36度以上に行くことは、まずほとんどない。
で、やはり熱意とか、熱中とか、熱のつく言葉は、実際に熱がないとだめなので、
もしかして、わたしはいま、冬眠している熊みたいな状態なのかと考えた。
昨年まで針治療に赤ひげ堂に通っていた時には、赤ひげで、いつも体温を計り、36.7とかあって、病気なんじゃないかと聞いたけど、それは正常な体温だそうです。
なので、この整体に通っていた時には確かに体温はあった。
赤ひげ堂と、いま使っている体温計は同じものだったので、計器による間違いとは思えない。

で、二時間くらい走ったりすると、すこしだけ体温が上がるので、ランニングは、趣味というよりは、今の段階では、わたしには、生命維持に不可欠な行為ではないかと思う。走ると、いつも感じるむかつきとか、吐き気みたいなものは減少するので。体温が低い時の体調はいつも感じていることなので慣れていて自覚しにくくなっているけど、何かしらいつもちょっと気持ち悪いです。

体温を維持できる哺乳動物は、環境から独立して、生命体が独自に何か関心を持ったり、また行為を持続できたりするので、いまの変温動物的なわたしの状態だと、自分独自に何かを維持するというのが困難です。働きかけられるとする、ということで、講座ばかりをしています。自分独自で始められない。買い物しようと思っても、お店につくまで意欲が続かない。というよりは動作に至るまでに思い切りが必要。ランニングもいったん始まるといいけど、始めるまでが大変。決意までに一時間くらいかかる。

こんな感じなので、寒い冬はとても苦手。暑い夏はほとんど気にならない。で、マレーシアとか台湾とかが良かったと思うのは、赤道に近くなると、気温が高いので、体調が楽になるから。たとえばいまフィリピンは気温が37度くらいらしい。となると、わたしがその気温よりもマイナスになることはないのではないか。気温よりもマイナスになったら、冷蔵庫みたいだ。北海道では食材が凍らないようにするために冷蔵庫を買うという話だけど、赤道近くでわたしが冷蔵庫みたいになることはないと思う。

このブログの使い方がわからないと書いたけど、サファリとかインターネットエスクプローラ使うと普通に表示できるので使える。たんにクロームだけの異常だ。

----------------------------2014 02/25

新大阪での講座で、低体温について聞いてみたら、ふたつの意見がありました。
ひとつはお医者さんのKさん。
わたしはマグネシウム不足なのではないかということ。症状が対応しているそうです。
もうひとりは、沖縄の長寿者たちは低体温なんだそうです。で、一日に一度体温を上げれば問題はないということらしい。
食事とか栄養的には、とくに問題はなく、たとえば昨日は二時間強走ったけど、ガーミンのGPSウォッチ見たら、1340キロカロリー消費と出ていました。これに基礎代謝足すと、わたしは一日にかなりのカロリーの食事をしなくてはならないことになりますが、不足の場合には、急速に体重が減るので、だいたいわかるし。








2014年2月16日日曜日

20140216雑記を書くことに興味を向けるのが難しい

それでも備忘録のような形で、何か書いておきたい。
私はベートーベンの弦楽四重奏曲全集に関しては、3種類の演奏のバージョンを持っている。でもアルバンベルク四重奏団の演奏が、非常に優れていると思っている。このグループの演奏に関しては、後期のベートーベンの弦楽四重奏曲全集しか持っていなかった。やはり全てのシリーズの全集が欲しかったので、調べてみたところ、アルバンベルク四重奏団は4回の録音をしていることが判明した。スタジオ録音は2回、ライブ録音は2回。結局すべてのものを手に入れなくてはいけないと思ったが、とりあえずスタジオ録音のものを手に入れてみた。これはディスクユニオンで。
そして私は、今ずっとアルバンベルク四重奏男のベートーベンを毎日聞いています。交響曲とか、ピアノ協奏曲とかばかり聞いていると、ベートーベンを誤解する。弦楽四重奏曲と言うのは、ベートーベンが外部的な演出を全く意識しないで、全くのところ内面的な状態で作っていた作品のグループである。これらを聴くと、ベートーベンの違う顔が見えてくる。

このGoogleのブログの使い方がなかなかよくわかりません。
ここまでの文章は、ちょっと時々間違いが入っているような気がすると思いますが、これはiPhoneで音声入力で入れました。そしてブログの使い方がよくわからないというのは、訂正をしようと思った時にパソコンで入力がまだできないからです。(後で、google chromeでは、記事が表示されず、safariだと表示されることがわかった。)なのですべてipad or iphoneの音声入力だけでこなしているということになります。ロジクールのBluetoothのヘッドセットを手に入れているのですが、これを使うと無線で音声入力ができるのです。iPadやiPhoneの音声入力が非常に優れているので、これからはあらゆるものを音声入力だけで処理してみようと計画しています。例えば原稿を書くということに関しても音声認識だけでやってみようと考えています。
Windowsでは、ドラゴンスピーチと、アミボイスがあり、mac系では、ipad,iphone,os-xに標準装備の音声認識。どれが一番いいのか、まだわからない。



2014年2月5日水曜日

20140205 月曜日と火曜日の講座の内容を少し変更

午後の1時から3時までの間、いろんな具体的なホロスコープを題材にして、いろんな説明をしていくと言う内容に変更したのと、どの日でも自由に単発で参加できるということにしました。なので時々参加する人がいてもそれは構わないということになります。
連続で学習する人は、もちろん全体として習得できると言うコースになっています。
講座内容を録画するのは、午前中のみにするとよいのではないかと考えています。午後からのものは、参加した人のホロスコープを題材にしたりするので、わりに個人的な内容がたくさん入ってきます。なのでこれについては参加した人だけが自分でICレコーダーなどで録音して後で聞けばいいのではないかと思います。
午前中のコースは、規則的にテーマごとに進んでいきます。午後の説明はこのテーマに沿った形というのを基本にして話が進みます。いきなり全然違うテーマになるという事はありません。しかしながら脱線した内容はいくらでも入ってきても構いません。