2015年5月24日日曜日

20150524 萩原流行のバイク事故死で思うこと

萩原流行が、大型バイクで事故死したことを、流行の妻の人が原因を知りたいと訴えていたことを、テレビで見ました。原因がわからないのだと。真相を知りたいと。
でも、わたしはこういう事故死とか事故というのは、予想以上に真実がわからない状況になってしまうと思います。それは自分の交通事故体験によって、そう思います。

10年以上前に、わたしはバイクに乗っていて、乗用車に追突されて、バンパーが右足にぶつかり、骨折しました。救急車に運ばれて病院で、治療しましたが、そのときに、まっすぐに接合されず、すこし歪んでいたので、いまだに右足は、すこし足先が右に開きます。で、この骨折が原因で、わたしは走ることにハマってしまった。もし交通事故で骨折しなかったら、走ることはなかったです。

新宿の十二荘通りで、建物の前からバイクで車道に出ようととしたが、思いのほか交通量が多いので、三分くらい道路を見ていました。三分というと、そうとうに長いです。交通量が減ったので、そろそろと思い、低速で右折方向に道路に出たのですが、いきなり右からBMWが発進してきて、そのバンパーがわたしの右足にぶつかりました。で、そのまま転倒した。救急車が来て、小滝橋通りの春山外科に運ばれ、治療を受けました。右足は、反対側に回っており、足先が反対になってました。

入院して、二、三日してから、野口さんというBMWの運転者が、病院に来ました。で、「朝、もう銀行が開く時間の直前だったので、急いでいた。なので、前方をあまり見てなかったので、悪いね。」と言ってました。つまりこの野口さんは、その事故が起きた場所の前にあるマンションで、外車販売の代理店を経営している人で、そのマンションの前の車道に車を止めており、その日は、わたしが前にいることに気がつかず、そのままミラーで背後をみながら発進し、衝突したというわけです。
その後、退院して、新宿警察で、現場検証ありました。けっこう細かいものでした。

問題はここからなんですが、しばらくすると、現場検証のやりなおしを検事が要求したということで、再度現場検証があったのです。これは妙だと思いました。それから検察庁で、調書を書くということで呼び出されましたが、ここで担当した五十嵐副検事は、挙動不審でした。わたしは、この人は、忙しすぎて自律神経を壊しているのではないかと思いました。言葉がぷちぷちと切れて、こういう言動の人をわたしはよく知っています。連続性がないんです。過労によるものです。

で、調書を書いている最中に、実際の事故とかなり内容が変わっていました。五十嵐副検事によると、野口さんは横浜のほうから車で移動していて、普通の車道を走っていると、わたしがいきなり高速で飛び出してきたので、避けることができず、衝突したという話になっています。
それで、現場検証が再度行われた原因がわかりました。
一回目の検証では、事故を起こした場所は、車道の端のほうで、バイクが出たばかりという場所です。でも、二度目の検証では、事故の場所は、車道の真ん中で、かなりずれていたのです。要するに福検事は、車道の端のほうはあり得ないと警察に行ったらしいのです。
で、野口さんは、自分が前のマンションで会社をやっている、車道の駐車スペースから車を発進させたということを言わず、車で通行している最中だったと説明したようです。
事故現場を、違った場所に変えるために、二度目の検証があったということです。

で、五十嵐副検事が言ったことで、いまでもよくおぼえていることは、「野口さんはいい人だ。この人が間違ったことを言うはずはない」ということ、「バイクはどこから車道に入ったとしても、そもそも交通違反だ」という内容です。この二番目の内容は、要するにバイクが公道に入るのは、そもそもどこであれ交通違反ということです。「じゃあ、バイクはどこから入れば正しいのか」と、わたしが呆れて質問した時に、五十嵐副検事は何も答えませんでした。

この副検事は、こういうねじまげをたぶんわたしだけでなく、かなりたくさんしているはずです。というか、ねじまげを自分で気がついていないのかもしれない。というのも、わたしの聴取をしている最中にも、三回くらい電話がかかって、電話をかけてきた相手がそうとうに怒ってる風でしたが、本気で聞く態度はしてなかった。
二度目の検証の時、新宿の警察の人は、なんとなくわたしに対して気を使っている感じでした。再検証の意味があるの?というわたしの問いかけに、「指示されたのでしようがない」と言い、自分たちは検事に対しては権限がないので、何も言えないということらしいです。でもわたしはこの新宿警察の人たちには柔軟性があると感じました。誰の話もちゃんと聞いている。検事が話を変えようとしていることを、あきらかに意識している感じでした。わたしに同情的な感じでしたが、それを口にすることは許されないという。
結果的に、わたしはバイクでいきなり高速で飛び出し、車に衝突した。野口さんは迷惑を受けたというところで、わたしの過失率が大変に高いということになっていた。三分くらい、待っていたという話などは、完全に無視でした。それに、銀行にいくために急いでいたので、よく見ておらず急発進した、というような内容は、なかったことになっています。調書は五十嵐副検事の作文で、わたしがその文章を読んだ時に、五箇所くらい内容がおかしいと思いましたが、反論はあり得ないという姿勢でした。人の話を聞くような余裕はない人物というか、かなり幼児的な感じがしました。以前、検事とか裁判官は、受験勉強ばかりして獲得した地位なので、予想外に世間知らずが多く、簡単に騙されるということを読んだことがありましたが、五十嵐副検事はその典型かも。普通の大人でなく、こいつ子供か?という印象でした。

五十嵐副検事に比較して、わたしは新宿警察の人、というよりも、どこの警察署の人も、柔軟性があるなーとつくづく思うことが多いです。けっこうわたしは警察が好きかも。

萩原流行の事故を見て、こういうことを思い出したんです。五十嵐副検事は、世の中でバイクに乗るやつは不正な人間だと思っているようです。こういう担当者にあたると、萩原流行の事故も、真相はねじまげられます。でも萩原流行は自宅前の同じような道路を何度も事故を起こしており、そもそもはじめから自殺願望を抱え込んでいる感じがありますね。役者はちょっとでも、他の人に役を奪われ、出番が減ると、デプレッションを体験するのではないかと、わたしは推理します。そのことに寛容になれる人は少ないと思う。役者には創造的能力がありません。役者の差は微々たるものです。その無能さがあるからこそ、人気も出るのです。こういうところでは、前に出た、出ないということの違いは大きく響くのでは。
グルジエフは、どんな職業をしてもいいが、役者だけはしてはならないと言いました。それは、創造性が禁じられているからです。