2014年6月14日土曜日

20140614 前の雑記の続き。幽閉占星術と、源流的な占星術

20140614 付け加え

ホラリーと出生図の読み方の違いについて、いくつか書きましたが、一番肝心なことを書き忘れた。それは12ハウスに対する扱いだ。
ホラリーでは、12ハウスは隠れた、比較的否定的な意味のハウスでマイナス点になる。が、出生図では、これはおそらく全ハウスの中でもっとも広がりがある、影響力の強いハウスになる。リリーの時代などは、中世の暗黒の時代で、ここでは12ハウスは幽閉された牢獄みたいな感じの意味しかないが、今日では、インターネットとかメディアがあり、物質面だけでなく、精神面も両方考慮に入れる。すると12ハウスのように、現象としてはおとなしく、しかし影響力は果てしなく広がるという分離が、比較的理解しやすい。身体はどこにあるかわからない、隠れている。しかしメッセージはむしろもっと大きく拡大するというものだ。
それにそもそも12ハウスは、最後のハウスなので、あらゆるハウス体験が統合化され、まとめられていく場所であって、部分的ではない。
おそらく、ホラリーという物質面だけに着目した体系では、見えるものという部分的な要素がすべてになるので、12ハウスのように、見えるもの、見えないもの、すべてを統合化したものは、むしろ反対に見える。

物質面だけを重視した体系では、頂点は10ハウスにある。ものとして固まったもの。でも、占星術は、12のサイン、という12の数理の体系なので、この考え方そのものがおかしいでしょと考えてもいいだろう。
で、ホラリーは徹底して物質主義的で、現象のみに徹した考え方です、ということを意識した上で扱うならば、とてもすっきりした限定バージョンとしてそれはそれで潔癖だ。
しかし、中には、そうもいかない人もいて、やってるうちに、自らも狭い牢獄の中に自分を閉じ込めてしまっている人はいます。そしてそれを人に押し付けている場合が。人生観として。せめて、天王星、海王星、冥王星を入れてもらうと、まだ少しはましなのだが。

これは、人間の一生はだいたい天王星の公転周期に近いということがある。人の一生を、人は意識化できない。というのも、この台座の上に立っているからで、そうなると、対象化できるものとは、それよりも小さな範囲のものだ。天王星よりもひとつ小さな範囲のものとは、土星であり、なので、ホラリーでは、土星を最大の周期にした、人が対象化し認識しやすいものをターゲットにする。
天王星を意識できるのは、人が人の形から離れる瞬間だ。人は生きている間、その全体像を認識することなんて、決してできない。

で、ホラリーが土星内領域の体系とした場合、それは目的がはっきりしているので、それ自身は何も問題はないのだが、それよりも大きな世界との橋渡しができないとなると、それは困る。セドウィックは、ジオセントリック占星術は中世の暗黒の時代に人を閉じ込めると言ったが、ジオだけでなく、使う惑星を土星までにすることで、ますますそれはひどくなる。
キロンは、その外の領域にまでつなぎをしようとして、その結果、おおきな被害を受けた。

わたしが折口信夫の二点間信号の夢を見たことについて、趣旨がどこにあるのか、考え込んでいた。一体全体、なんの目的でこんな夢を見せてきたのか。
霊界とこの世界との橋渡しができる、ということが重要なのではないかと思った。
ホラリー的な体系にはまったり、土星以内の惑星の世界にはまっていくと、この橋渡しはできなくなるので、生きている間はいいとして、死んだら、その後はどこにもつながらない、暗闇の中に閉じ込められる結果になりかねない。その場合、仏教のように、49日後、すぐさま、同じ鋳型の、つまり土星以内世界に生まれ変わるということならば、それは死後も何かあることになるが、こんどはこれはまたこれで永遠に輪廻の中に閉じ込められる。
人の形の意識のスパンをこえたもの、すなわち海王星に橋渡しができることが大事なのだ。
海王星は、太陽系内部体験をぐるぐると巡る。冥王星は太陽系の外とつなぐ。
古典的なホラリーの枠に固めた世界観と土星内世界は、人間は死んだら、その後は何もない、と決めつけているようなものなので、折口信夫の夢のように、行き来できるような、霊界と現世を、二上山的に接続するものをしてほしいと、わたしは要求されているのだろう。どちらかを選ぶのでなく、両方行き来できるような。
10ハウスは頂点で、12ハウスは転落です、というのでなく、12ハウスは次の領域への射出台です、というふうに軌道修正しなくてはならないのだろう。

セドウィックが、ジオセントリックは中世の暗黒の世界である、というのは、個人の肉体から見たパースペクティヴに、人が閉じ込められ、そこから一歩も出られなくなることを示したので、その視点から解放するために、必然的に、太陽から見た視座としてのヘリオセントリックを併用することで、この暗黒から解放されるきっかけが作られるのだが、去年、わたしはある連合から、とりあえず、フォーカス35のセンターみたいな業務をしてほしいと言われた。ヘミシンクの中でね。ヘミシンク体験の中では、わたしは公認フォーカス35基地局なんです(笑)。ただ地球上の基地局のひとつなので、超ド田舎局です。限界集落です。
この太陽系の太陽や、近隣のシリウスなどが、フォーカス35に該当するので、その意味では、わたしがヘリオセントリックするのは随分と関係がある。

で、ヘリオセントリックは、チャクラでいえば、サハスララから見たもので、ジオセントリックは、ムラダーラから見たものというコントラストがありますが、古典的なホラリー体系や土星内世界というのは、物質的な明確な輪郭が存在し、また事物と象徴の関係も固定的で、椅子は椅子以外ではあり得ない、という堅固な定義に依存して成り立つので、これは人間の脳波活動でいえば、警戒心とか、個体意識をくっきりさせるβ波の領域に近い。ヘリオセントリックの視点は、このβ波領域にはないのではないかと思う。
わたしが自分の例であげたように、わたしはアレキサンドリアの図書館員です、というのは、β波の、肉体感覚に依拠する感覚領域には存在しないデータで、ドリームランドでないと出てこない話だ。

ヘリオセントリックの情報は、その人がα波とθ波の精神に入らないことには見えてこないものだと思われる。正確に言えば、フォーカス35の重心で見た世界、すなわち太陽の自己分割の領域でみないことには、わからない。分割された後の断片から見た世界は、自己分割する前の視点を自力では取り戻すことはできない。シは自らドに上がることはできない。
折口信夫の夢は、こうした異なる次元のものを「行き来できる」橋渡しが、折口信夫の場合には、うまくできてるよ、そしてわたしもそれを展開するべきだというものでしょう。それでまだ、わたしはデュアルブートがスムーズにいってない。むしろ、二点を混ぜずに、コントラストをつけたままのほうがいいかもしれない。西欧とか、日本では、この二点連絡は上手でなく、華僑を参考にしてくれ、というものだ。儒教という意味ではなく、華僑です。夢の中では、またもやアジアのある領域の地図が見えていた。折口ポイントです。いや降り口ポイントなんでしょうか。(昇降点?)

いまこれは新幹線の中で書いている。いまから大阪の講座だ。
土星に関する本を書いている。秋くらいには出るらしい。
ここでは土星は限定的であるが、ここに均衡感覚と、客観的な理解を獲得する鍵も存在する、というような内容を書いている。

アルゴル(東洋式には、金毛九尾の狐)は、ホラリーでは最凶の恒星だが、ブレイディはそれに反対していて、実際には出生図で使う時には、最凶にならず、女性的な欲望を意味する、クンダリニである、という意味になる。リリスもそこに関係づけている。アルゴルに一番関係した人物例はアインシュタインだ。彼は結果的に最強の破壊兵器を作った。でも、これは特殊例だ。

以前の雑記にも書いたけど、二十歳前後に幽体離脱して、土星の内部で、アルクトゥルスからきた老人に会った。で、わたしの三次元プラネタリウムのチャートでは、わたしの土星には、スピカとアルクトゥルスがぴったりと張り付いているのですが、これも三十代に、幽体離脱して、アルクトゥルスに行った時に、淡いが極彩色の、口ではうまく表現できないカラーの、惑星というよりも、川のような連続した形の宇宙に入った。
で、わたしはそれをアルクトゥルスと思っていたのだが、いま、これはスピカと混じったものを、アルクトゥルスと混同していたのかもしれないと思った。
自分の幽体離脱体験とか、ヴィジョンとか、ヘミシンク体験は、パランよりも、このヘリオセントリックのプラネタリウムのチャートのほうが、よりうまく説明しているように見える。パランだとある程度理論的に説明しないといけないが、三次元プラネタリウムだと、実体験的に説明できるので、単純で、神経が緊張しない。
わたしのこれからは、スピカとアルクトゥルスにどんどん深入りするらしい。夢の中で、折口信夫が二点から信号を出している光景は、コーンがふたつあるような図像だったけど、スピカとアルクトゥルスにしてもいいですね。その場合、アルクトゥルスは、アンタレスと共同で働くことも多いという説にしたがって、アンタレスの地図に沿って、アルクトゥルスは霊界との橋渡しをする。天のヤチマタで。それを受容的に受けいれることのできるのは、地上との接点が豊富なスピカに、と。たぶんスピカは、ちょっとビーガン的でもあるのだが。麦畑だと、アレルギーが気になるので、花畑にすればいいんです。