2014年6月16日月曜日

20140616 オーラでは、統合的な磁場の構築が重要/マカバは複数レベルがある

昨日は、オーラの講座をしました。
最近講座が多いので、すると、わたしがやってきた占星術以外のテーマのものも掘り起こされており、カラーやったり、オーラやったりというふうになってきます。

で、昨日のオーラの講座では、一番重要なこととは、人間を「恒星の小型」にすることだと言いました。恒星は動かない。自ら輝く。人間は、今の段階では、この輝く星の模型になっていない。この輝く星になる、というのは、惑星を全部そろえて、そのもとの太陽になるということです。太陽系の太陽は、恒星ですから。

今の人間は、太陽の自己分割のあとの、惑星のひとつにたとえられるところで生きている。でも、なかには惑星の自己分割の月のレベルで生きている人もいる。
惑星レベルで生きているというのは、惑星は遊星か惑星、つまり遊んでいるか、惑っているかという存在です。それは静止できない、そして中心の周囲を犬のように走り回っている。

惑星を全部そろえて、太陽化すると、それ自身の自律運動ができて、人間の活動には、破損が生じにくいのです。チャクラで置き換えると、あるいは生命の樹で置き換えると、チャクラを全部そろえて、アナハタのセンターでまとめること、これは、マカバフィールドを作ることと同義語です。マカバフィールドは、小型の恒星のようになることと同じです。チャクラに不足があると、これはできません。というのもチャクラに不足があることは、その足りないものを外部に依存します。その外部に依存している事実は、依存しているものから離れた時に、その生体は維持できなくなるということです。こういう状態では、マカバに乗って旅をすることはできないのです。

人体は、自我、アストラル体、エーテル体、肉体がひとつの軸に同調して、上からのものが下に、下からのものが上に伝達されるというシステムで成り立っている。長い時間をかけて、肉体レベルでの体験が蚕食できるように調整してきた。で、わたしたちは、いまのところ、地球に依存して、この地球の作り出す磁力場みたいなものの中で、はじめて生きていくことができるようなところにいる。
たとえば、ある人が日本からアフリカに移動しても、体験の印象は連続できる。自分が移動したと思うことができる。それは地球の磁場というところの内部を移動しているだけで、地球という場では共通しているからです。日本とアフリカが連続体であると認識できるには、この日本とアフリカを結びつける共通の軸に依拠すればいい。

で、最近宇宙旅行の話題が多く、いずれは火星に移住するという話もある。
こういうふうに、人間が地球から離れてどこかに行くには、飛んでいく装置があれば、それは可能だと思っているところが、困ったことだと感じる。あまりにも無知・無自覚なのでは。科学は根本的なところを考えないで、部分的なところのみ取り上げて考える。なのでいまのところ、大きなことを為すことはできない。科学に取り組む人も、みな、共通して、根本的なところを考えるのでなく、部分的な現象のみを研究しているのだから。

前から書いていることだが、わたしたちは地球に依存して、はじめて生きられるという状態を忘れている。これは母親に依存している子供が、依存する現実に無自覚で、自分はなんでもできる、と言ってるようなものだ。この依存していることに気が付くのは、そこから離れようとした時。さまざまな問題が発生してきて、そのことで、はじめて気が付く。で、わたしたちはまだそのことに気が付いていない。その危険な現場にはまだ近づいていない。

グルジエフの思想で言えば、人間は、太陽と地球の間にできた隙間を埋めるために地球が確保した生物なので、この役割から解放されることを許さない。もし許すとしたら、その役割を肩代わりする別の何かが存在した時だ。人間に与えられた、地表に太陽の光線を持ち込む触媒作用という役割。太陽の創造作用を、地表において、文化、生産、活性化、都市づくりなどによってくまなく覆い尽くすこと。

自我、アストラル体、エーテル体、肉体という連鎖は、肉体というものの中にも、模型的に反映されており、内臓とか細胞とか分子とか、もっと微細なものまで、統一的に同期をとっている。
で、実は、こういう統合場は、新幹線に乗ったり、車に乗ったり、故山手国弘さんに言わすと、自転車に乗っていることでさえ、ずれてゆき、人間に破損をもたらしている。
この山手説は、肉体とエーテル体がずれるということを言ってるのだが、その場合、エーテル体は生命そのものなので、エーテル体がずれて希薄になった細胞は生命力が弱まり、死ぬのが早く、たぶん、癌などは、こういう抵抗力のない、過疎化した部分にできやすいのでは。

でも、わたしたちは日常的に破損を受けているので、そのことを問題視しない。つまり破損しなかったら、どうだったのかを知らないので。
こういう小さなところでなく、惑星移動とかになると、人間そのものが維持できなくなるだろう、とわたしは思います。それは一瞬でなく、しだいに時間をかけて、失っていく。たぶん自分という自覚が継続できない。継続できていない人は、実は、継続できていない現実を自覚しないので、継続できなかったと、その人は言うだけの統一性を持っていないという点では、心配しなくてもいいという人もいるかもしれない。(人間の価値を認めない人だ。)


マカバフィールドがある人は、アトランティスの崩壊の時期にも、記憶を失わなかったということをメルキゼデクが言ってますが、このフィールドは、いくつかのレベルがある。わたしがいう理想のフィールドは、恒星レベルでの軸を意味する。つまり言い換えると、太陽の軸に、部品が全部、チャクラが全部、つまり抱き合わせのふたつの正四面体の8点の整備ができていることを意味する。このフィールドが恒星を軸にしている場合、これはグルジエフ的に言えば水素6の重心に集合している生体という意味だが、恒星の下位レベルの旅では、変動を起こさない。地球から火星へというところでは、目立った損傷はない。ちょうど地球の軸に依存しているときには、日本からアフリカに旅をしても、記憶が飛ばないのと同じ。
地球という惑星レベルに依存しているときには、ほかの惑星に移動すると、その存在は失われる。生体は火星では、まったくべつのもの(火星の持つ素材)で再構成されてしまうが、地球と火星の共通項目は、太陽の下にある兄弟であるということであり、地球という視点から見ると、火星に存在する物質は地球とまったく同じではない。
ので、記憶は維持できない。一度死んで生まれ変わったかのような体験になる。自分が続いていると言う自覚がなくなる。

恒星軸のマカバフィールドがあれば、太陽系中での移動においては、記憶も、体験も、連続し、損なわれるものはない。つまりひとつの音を七つに分解した場合、この下の音のひとつは、違う音にはシフトしない。が、もとのひとつの音に戻れば、そこから下の七つのうちのどの音にも降りることができる。という理屈では、地球から火星への移動は、恒星軸のフィールドの中でならば、危険ではないということだ。
でもこの恒星軸は、太陽系の外に出ることはできない。

わたしたちが、今の人生の前の前世を直接思い出せないのは、わたしたちが地球に依存した生き方をしているからだ。前世は、いわば別惑星体験。それを思い出せないのは、地球と別惑星をつないだ、もとの軸に、自分の生き方の重心を置けないからだ。

わたしが最近よくこのことを意識するのは、やはり、人間個体の視点、地球の視点、太陽の視点という三つの重心について最近毎日考えているからです。
ジオセントリックの占星術は、地上にいる人の視点で宇宙を見ており、この枠組みで世界を考え、この枠組みで育成されてきた感性、知性、身体性は、そこから離れて生きていくことはできない。昔見た、映画の船の上のピアニストは、船が老朽化して廃棄するときに、船と一緒に死ぬことを選んだ。ジオセントリック占星術は、地球の地表面に依存しており、地球の視点まで至らない。
で、わたしがヘリオセントリックのプラネタリウム占星術がいいと思うのは、真ん中に太陽があるからです。
ジオセントリックとか、また今の人間には、「中心の場」が想定されていない。
センターがなく、そこは中空にままに生きているという実感。ヘリオのプラネタリウムは、気分的に、何か安心感があるんです。真ん中に太陽があるというイメージによって。

地球軸のマカバフィールドは、地球を自己分割した、七つの月で構成された結晶だ。これは地球から出ることはできない。
太陽軸のマカバフィールドは、太陽を自己分割した、七つの惑星で構成された結晶。これは太陽系から出ることはできない。
アルクトウルス軸のマカバフィールドは、全太陽を自己分割した、七つの太陽系で構成された結晶。これは恒星から恒星へと移動することができる。ただし、ひとつの全太陽クラスターの内部においてのみ。

で、具体的な話として、宇宙船は、それ自身がマカバのような中心軸を持ち、その重心によって、外部の影響を受けても、分解しない構造を持つ必要がある。今日、磁場というのは、電磁場でしか考えられない。電磁場は、電磁場よりも高速な物質が貫通した時、分解する。電磁場よりも低速な物質の集合は、電磁場がまとめることができるが、今日の科学水準では、惑星間移動の強度を持つ磁場を作り出す技術はないのでは。科学の定義が、全部、地球上で存在する物質でのみ考えられており、どんな遠くの宇宙も、地球と同じ物質要素でできていると思い込んでいる。
猫は人を猫の一種だと思い込んでいる。というふうに、外宇宙を、地球と同じ成分と思い込んでいるのは、現実に外に出ようとした時に、そのことに気が付く機会がやってくるわけですね。

オーラの外側に、横広がりのマカバフィールドができるというのは、七つのチャクラを全部均等に揃えた時に可能となるのですが、これはいくつかの種類があるわけです。肉体的なチャクラ、つまり水道橋のラクーアのオーラソーマの計測器で見るチャクラは、電気的な磁場のもので、これらを七つあわせたマカバ。次はエーテル物質の、七つの月の統合場のマカバ。(これは七匹の犬とみるといい。つまり南総里見八犬伝と似た話。)七つの惑星のマカバ。そして、七つの太陽のマカバ。その人に生きている重心において必要なマカバがあればいい。急いでも、手に入らないものは入らない。
仏教的な意味では、六界を回り終えた人は、六界で構成された解脱の軸のマカバがある。これで終わりではない。ひとつの平面の世界においての究極の、無の領域は、この平面から見たら無であるが、その中に入ってみると、実は無でなかったことを知る。なので、解脱した時に、実は、七つの解脱様相のうちのひとつでしかなかったという現実に気がつくのだ。

で、わたしからすると、面白い話のひとつ。このマカバというか、世界の卵と言ってもいいものは、私の場合、カラーライフシンボルでも、世界の卵のタロットスプレッドでも、最近はなんでも、この発想でしか考えていない。馬鹿のひとつおぼえ、みたいになっています。
つまり、さまざまなサイズのものに、これを投影できると言ってるわけだ。

で、ヘリオセントリックのプラネタリウムでは、上下に七つ。左右に12の感覚領域という形で考えるのであるが、すると、恒星の位置というのは、ずっと変わらない。たとえば、ムラダーラチャクラに該当する場合には、カノープスがある。カノープスは、太陽系という恒星マカバでは、常に、ムラダーラの位置にあるものだということだ。誰にとっても同じ。
地上的な、わりに小さな範囲において、ムラダーラチャクラは、物質的な基盤とか、肉体の単独的な立ち位置という意味だ。が、太陽系サイズのマカバでは、カノープスは、ムラダーラ的な意味を持つ。つまり死者は、死後、この船に乗って、死後の旅をする。日本では三途の川の船だが、それが、恒星軸での、カノープスなのだ。
恒星軸においてのアジナチャクラは、この旅の行き先にも対応する。
つまり地球の歳差の運動の中で、北極星は、トゥバンだったり、ポラリスだったり、ベガだったりするが、カノープスは、そういうところに、死後の人を運んでいく。

昨日、大阪の講座で、ある人をサンプルに話しました。この人は、火星にタイトにデネボラが重なっている。デネボラは、12度N16分で、つまりアナハタの位置に該当する。
昨日、アナハタを、シータ波で見る時間、わたしも見ていたら、みんなが目をつぶって探索している間、みんなをひとりひとり巡回するナマハゲが見えた。次のシーンでは、キリストの絵のついたステンドグラスが見えたが、逆行で、キリストの顔が暗くよく見えなかった。
キリストというのは、アナハタに該当するティファレトが、キリストセンターと言われるように、アナハタを象徴とするもののひとつでもある。逆行で見えないのは、上空からの光が、このキリストの顔を見えなくさせているので、アナハタ機能としては、建築中、工事中ということです。
ナマハゲは、神様が下界に遣わした。このナマハゲは、みんなが目をつぶっている時に、見えないように巡回した。キリストの顔も、同じく光に照らされて、見えない。
これはデネボラ的。このアナハタは、デネボラだということだ。火星とデネボラの結合は、ナマハゲとして視覚化された。

デネボラとアルゴルが結合すると、例のひとつはヒットラーになるとブレイディは言ってる。デネボラは、アウトサイダーで、火星との結合は、メインストリームから外れたところでの旗手。しかし、文化を推進させるのは、孤立したアウトサイダーであるというのは、昔からの事実。メインストリームの集団は、駒を進める力はない。平均化、現状維持という力が働くために、ひとつが出ようとしても、ほかが足を引っ張り、全体としては前に進まないのだ。
前に進める刺激を与えるのは、常に、一握りの孤立したアウトサイダーたちだ。デネボラ、ナマハゲは、神が遣わした、上空からの光で、それはキリストの暗い顔を象る。ナマハゲは、怠惰をもっとも嫌う。みんなを巡回しながら、勉強シナイゴハイネガー、と言ってる。

このように、太陽系の太陽軸マカバでは、恒星の位置は決まっており、それらは決まったチャクラ位置に収まっていて、役割は動かない。デネボラは常にアナハタの特性の一つであり、カノープスは、ムラダーラの機能のうちのひとつ。ポラリスやトゥバンはアジナのひとつ。

地表から見たジオセントリックのひとつ、パランでは、もちろん作用も役割も変わってくる。でも、恒星軸で結晶化した人は、何を見ても、それで投影すると思うんだよね。
グルジェフは、人はみな自分のエニアグラムで生きているので、ほかの考え方を認識しないと言ったが、このエニアグラムというのはマカバと同義語なので、複数のマカバがあるというのは、複数のエニアグラムであるということである。
で、その人はその人の重心でできた水準で世界を見るので、情念的に生きている七つの月のマカバの人間は、ほかのすべての人も同じように情念的に生きていると思っているし、それ以外のことを認識することはないので、すべての人に共通の効果を与えるような宣伝、プロパガンダ、キャンペーン、啓蒙というのはない。みんなどんな情報も、曲げて理解する。

七つの月で生きている、つまり七つの犬で生きている南総里見八犬伝的な世界観は、人形浄瑠璃とかで描かれた世界を参考にすると良い。情念を引き延ばし引きのばし。でも、ヘリオセントリックには、月がないんです。ヘリオセントリックは月のことが理解できていない。ホラリーのように現象を運ぶ月という概念が念頭にない。
ヘリオセントリックを真に理解し、それを生き方に重ねていると、やがて月が見えなくなってくる。