2014年10月7日火曜日

20141007 本はだいたい書き終わった/霊界文字、神代文字

三か月の間、ずっと本を書いていて、これは9月の終りに完了したのですが、最後の本について、ちょっと気になっていた。「女子中学生でもわかるような本にしてください」と言われていたけど、相変わらずの書き方をしていたので、大丈夫かなと思っていた。

でも、昨日、編集の人から、「後半は特に軽いですよ」と言われ、全体にポップな感じです、という感想なので、これが自分としては予想外の反応ではあるが、ちょっと安心しました。
軽く用語説明補足する程度でなんとかなるらしい。
だいたい最近は、原稿を書き終わってからまとめて渡すというよりも、グーグルドライヴで書いて、編集の人に、はじめから共有設定をして、経過を全部見せるというやりかたをしている。

それで、いまは10月なので、そろそろ一年のサイクルでは、わたしの燃えつき症候群の時期に来つつあるので、少しペースを落とそうと考えた。
以前カメラに興味がなくなったと書いたのは、三か月の間、本を三冊書いていたので、この間は、講座以外はまったく何もできず、カメラを持っても、まずどこに撮影も行けないということもあったわけです。だいたい一日二時間とか三時間走ると、外を散歩する気はなくなります。
デジカメは1000万画素いらないという新書があって、確かに高画素になっても、わたしは4Kテレビをパソコンモニターにした画面でしか見ないので、高画素の特徴もわからない。
で、アイフォンは800万画素で、これでいいのではと思ったこともあり、カメラは全部なくなったのですね。一時大三元セットも持っていた。が、これを持ち歩くことは不可能だと思った。
撮影画像の違いという細かい部分は、実はどうでもいいことなんです。

それで、静止画カメラは、興味をなくしたのですが、実はウェアラブルのビデオカメラを手に入れました。いまウェアラブルは、ソニーとパナソニックが代表だと思うけど、とりあえず、パナソニック。で、頭の左側に装着します。カメラ部は40グラムの重さしかない。コントロール部は、腕に取りつける。
これで何をしようかというと、走っている時に、映像を撮りたいからです。

となると、神宮外苑をただ退屈にぐるぐると回るのではなく、もっと山とか、地形が変化する場所を撮りたいですね。前から走っていると、歩く時よりも、景色が鮮明に見えていたのだが、やはり走る時に景色を見るのが一番いいです。
フルマラソンのセドナやホノルルはすごくいいそうです。景色が。
youtubeで、こういうマラソンの動画をのせている人はたくさんいるけど、最近のカメラは手ぶれ防止がかなり進化しているので、走りながらでも画像はそうとうに安定している。
あとは、バッテリーが2時間マックスなので、オンしたりオフしたりしながら撮影すればいいわけです。

象徴文字、秘密文字、霊界文字、神代文字

シュタイナーは「いかにして超感覚的認識を獲得するか」で、ごく一部に、象徴文字というか霊界文字について書いている。
霊界文字と、神代文字には少し共通点がある。
表音文字は、もとは象形文字から来ていて、ものの形を簡略化したものから始まったというのが定説だが、占星術は農耕民族が星を見て、そこから始まったというのと同じく、これは古代人を馬鹿にした考え方で、プラトンのいうアトランティス時代の記述などを考えてみれば、わたしの考えでは、事物の形が出来上がる前に、抽象概念とか、イデア的なもののほうが先に発達したのではないかと思う。占星術の12区分にしても、統計的とか経験則的に、この法則ができることはありえない。まずは理念や概念、イデアなんですよ。

で、事物の形が出来上がるのは、神々が没落した後。つまり「神代」ではなくなった段階で、少しずつ事物の形が固定されてきた。というのも事物が固定する、すなわち感覚が硬化する、というプロセスは、主客が固定的な関係を作らないことには進まないのだから。
なので、事物が固定されてはじめて作り得る象形文字の中に神代文字はないというのが、わたしの考え。

とくに日本の中で、神代文字的な要素を損なったのは、漢字だけど、漢字を使うことで、わたしたちは、意識の深層に入り込むことを阻まれる。
で、神代文字はたくさん記録に残っているけど、この中でハングルのコピーみたいな怪しげなものは除外する。たとえばアヒル文字などは取り除いて、だんだんと精密な形を探していけば、ちゃんと見つかるのではないかと思う。

こないだの、アボリジニの文字を受け取ったということについては、わたしは日本の文字との共通点についても考えています。日本の文字という時に、漢字ははじめから除外する。ひらかなも除外する。すると、いまのところ、カタカナしか残らない。

アボリジニの祖先と、日本人の祖先が分離したのは、いつかな。スンダランドが沈没をはじめた時期から考えてみると、面白いです。
ただ、こういう「地を這うところで伝わるもの」ということにこだわりすぎると、普通の歴史家が考えるようなものになってしまうので、間違った推論に行き着くでしょう。二極化した片方でしか考えないということになるからです。
というより、そもそも霊界文字や神代文字というのは、この「二極化の片方からしか考えない」という偏った脳の使い方を補正するための言語なんですね。

霊界文字や神代文字は、二極化の片方からしか考えないことを補正するためにあり、両方使ったところで成り立つ意識をあきらかにする。
つまり霊界文字や神代文字を使うと、「地を這う伝達」で推理する歴史の流れとは違うものをあきらかにする。となると、わたしが受け取ったアボリジニの文字と日本の文字の関連性を考える時に、スンダランドなどのことを考えたりする必要はないということですね。
霊界文字や神代文字は、二極化の片方からしか考えないことを補正するためにあるので、こんにちの研究者や学者は、二極化の片方からしか考えないのを正当の研究姿勢にしているので、霊界文字や神代文字は、必ず否定される立場にある。とうていそれらは受け入れられないものだからです。

それで、ゲリー・ボーネルとかは、アカシックリーディングに使う文字は、結局自分で作り出すしかないんじゃないかという意見らしいのですが、(身近な関係者に聞くと。)前に聞いた話では、いったん決まった文字も、少しずつ変化するという話だった。
たぶん、このボーネルの言う文字は、霊界文字とか神代文字とは違うニュアンスだ。

で、こないだのアボリジニの文字を受けとった時に、同時に、「この文字と、その後の世界の展開には、ひずみがある。世界を正しいとみるよりも、まずこの文字をリファレンスにして、のちの世界をひずんだものとして、そのひずみを修正してほしい」と言われた内容について考えていたのですが、この考え方は、ヘブライ語のサメクにも関連した話だと思った。

サメクは支柱という意味です。世界の階層について考える時に、中央の柱のはじめの部分、ケテルからティファレトは、女教皇であり、ここには原初の歪、破れ目、砂漠がある。
カバラでいう歪は、たぶんここに関してのみだ。
そのあとティファレトとイエソドの間の柱が、このサメクです。
昔から、これは人馬宮が割り当てられているけど、射手座ということから離れて、人馬というイメージをそのまま当てはめると、ティファレトが人、イエソドが馬の部分にも当たります。

で、太陽系の中でケンタウルス惑星群、太陽系の外でのケンタウルス座が、それぞれまっすぐに通過できない傷をあらわすのですが、これも人馬の絵柄で説明されることが多い。
ケンタウルスのアジェナ、トリマンは足の傷ですからね。
夢の中で、世界の歪という時に、これはケテルからティファレトの間の傷か、あるいはティファレトからイエソドの間の傷ということに関係する。
まだまだある。イエソドとマルクトの間の傷です。
世界が源流からひずんでしまう要素は、この三か所あるわけです。
しかし例の、わたしがよく使うヤコブの梯子、四つの生命の樹の連鎖で考えると、この三つは、互いに入れ替えられるので、全部同じだよと考えてもいい。アッシャーの女教皇は、イェツィラーの節制(サメク)のことなのだから。

サメクとしての支柱は、傷を受けて、柱が割れている。この歪がいろんな芸術の創作の原動力にもなっている。女教皇のギメル、節制のサメク、世界のカードのタウの歪は、上と下の領域が地続きではないことをあらわしていて、身近な話としては、多くの人は、生活のための仕事と、自分がしたい仕事が違う。昔の神道の本を読んでいると、天のアマテラスの代行を、地上の天皇がするという考えがあって、これはギメルが歪なく通っていることをあらわしていますが、もちろん現代においては、天皇はそんな役割はしない。天皇は最近は税金も払っているという話で、これは地上の法則にしたがう天皇なんで、税金を払いつつ同時にアマテラスと通じるのは難しい(かもしれない)。
地上においての経済法則とかは、地上世界が独自に発展した結果のものであり、個人の権利を守るということと連動している。こういうものも、またサメクの傷のひとつでもある。
この点では、傷とか歪はそのままで残しておいて、もうひとつ二重的に、そうではないまっすぐに通ったものを想定しないといけないわけだよ。この両方が必要です。
単純にひずみを修正するというところまでシンプルに考えなくてもいい。

共産党ビルの前に出ている赤旗新聞の一部の記事に、大江健三郎が、阿部首相は、時代精神を侮辱していると書いてるのを見た。でも、わたしが思うに阿部首相が持つ悪意はもっと根深いと思います。大江健三郎は、阿部首相は、戦後のレジームに対する憎悪で行動していると書いているが、実際はそれよりももっと黒いのでは。

ゲリー・ボーネルを書いたので、それで思い出したけど、ボーネルは、原子は存在しないと言った。シュタイナーも原子は妄想だと言ってる。
で、原子論が、その前の四元素論を淘汰したんですが、
まさかアリストテレスの四元素論、つまり四気質論はともかく
わたしはプラトンの四元素論は、未来の科学で復活すると考えています。
物質の最小単位は、あるのか。というと、プラトン式に言えば、ない。
しかし人間が認識できる限界という意味での最小単位はある。
グルジエフは、次元と次元の間には、無と無限の壁があると言ったけど、
物質の最小単位はなくても、人間の知覚の限界として、最小単位は無限だ。
それを人間の視点としてのトリトコスモスの領域から推理すれば、ただの知的な遊びになってしまい、とても自閉症的な行為になってしまうので、ある段階からはやめたほうがいいと思うけど、
物質の究極の最小単位を考えることは、宇宙の極大の最大単位を考えるのと同じ行為で、
どちらに行っても、トリトコスモスが仮死状態になる領域に到達する
わたしたちは、壊れたくないので、そこまで考える前に引き返してくる。