土曜日はヒカリエ、日曜日は深川で対談していました。
ヒカリエは至近距離。深川も、大江戸線で25分くらい、一本で行ける場所だったので
行きやすかった。
それで、対談というのは、いずれにしても、人間相手で、相手のスピードに合わせるので、
それはとても緩い、リラックスしたものとなり、強い集中力を要求されないことなので、
やはりわたしにはこれはレジャーのようなものだと思いました。
直居氏との対談では、直居氏が、終末論の話に持って行ったので、結果的に、その話をせざるを得なくなった。毎度いうことですが、直線時間と円環時間の対比で考えると、
たとえば世界が終わるとか終末というイメージは、直線時間においてのイメージです。
つまり直線時間には、はじまりと終わりがある。
円環型の時間では、円の中にある4つの区切り、あるいはひとつの円から次の円に移行する時に
節目があり、この節目は、それまで続いていたものからすると、終末になるが、
しかし次の円につながるものなので、段差、変化などをあらわすものになる。
直居氏との対談では、終末の話になったけど、
その前の土曜日でも、わたしは、リタイアの年齢になったら、世の中の役に立たないことをしたほうがいいという話は出しました。
つまり直線時間において、老年は終わりに近づくことであるが
円環時間においては、老年は、次の円とかサイクルにつながるための準備などをする。
そのための知識などを提供する役割がある。
それは世の中の合意的現実の世界に貢献することではないという意味です。
で、終末論的な話でいうと、直居氏の口から、とても懐かしいとも思えるような話が出てきた。
世の終わりに、宇宙船が救済のために準備をしている。そして少数の人は、特定の場所に運ばれて、保護される、というものです。
こういう話がわりに話題になっていたのは、70年代くらいでしょうか。
昔はそういう時に、肉体を持ったまま、生身で連れていかれるということをみな考えた。
しかしそれはあり得ない話だと思うので、今の直居氏の話でも、死んだ後で、とか、
死んだ後なんだけど、またもとの肉体に戻される可能性もあるとか、そのあたりが微妙にあいまいなまま、話が続きました。
円盤に運ばれていく、という懐かしい話が出てきたので、わたしはその話の続きをいかにスムーズに運ぶかと考えて、モンローとかモーエンのギャザリングの話を持ち出した。
これは地球大転換の様子を見に、多くの宇宙知性がフォーカス35に集まっているという内容。
様子を見に来ているわけではない。
それぞれ、直結の子供たちが、地球の中に埋もれている。
そのつながりを、子供たちは忘れている。このつながりを取り戻して、
地球経験のエッセンスをレポートするというもともとの役割を思い出してもらい、
本来のルーツに再接続するために、ぎりぎりの至近距離まで来ているということなのです。
地球は極度に過酷な場所なので、ここに生まれると、すべての人が記憶を失うのです。
暗闇の中に沈んでいる子孫を、リトリーバルするというようなイメージです。
これはそれぞれのクラスタへ、再接続するという点では、
直居氏式の、円盤が待っているということに繋がらないことはないと思うのです。
で、モーエンは、このクラスタが回収される時に、どうしても引き取れない魂があり、
この引き取れない魂は、最後の最後には、クラスタは切り離す。
すると、この魂は、存在が消滅する、ということを、死後探索の三巻あたりに書いている。
これはごく稀な話です。
でも、ないわけではないと思われる。
というのも、ひとりの重すぎる負荷のために、クラスタが永遠に縛られるというのは無理だから。
そのあたりの見極めをしなくてはならない。
で、この切り離される魂というのは、存在の両端、無と無限で言えば
無限の部分、有機化不可能な領域に近づきすぎている存在です。
無と無限は、両極で似ている。
無に近づく魂は、つまりワンネスに向かうものたち。
聖なる固きもの、無限に近づくものとは、ばらばら、ちりぢりになる者です。文字通り無限。
無限にまで分解することで、救済される。つまり完全無意識になってワンネスに回収されます。
シュタイナーのいうアーリマンは、こういう存在たちを増やそうとしている。
そこに絶対悪の存在たちがいる。
クラスタは、完全なワンネスに近づかず、その途中にあるもので、まだ生命として
種々の活動をしていく集団意識だ。
でもこのクラスタが回収できない、クラスタそのものを壊してしまいかねない分離者たちは
一足飛びに、無限へと向かい、魂は無意味化され、逆ワンネスとも言える闇に吸収される。
この状況を、ブルースは描写している。
わたしはたぶん三十年くらい、この境界線はどこにあるのかな、ということを考え続けている。いつも、頭の片隅では。
だから、グルジェフの水素96と水素192の境界線のことばかり気にしていたんですね。
意識として存在する。意識として存在しない。その境界線だ。
で、ここにはちょっと特別な条件があって、
グルジェフは、上に進化する意識は、同時に下にも向かうということを述べている。
つまり、わたしはこれを水素の絶対値の拡張という言い方をしたんですが、
グルジェフ式にいうと、地球の生命を感じはじめると、それは同時に原子の生命を感じることになつていくという話です。大を理解するものは、小にも向かうと。
フォーカス27よりも、フォーカス35の生命たちは進化している。
これは言い換えると、27のクラスタが切り離そうとする孤立者を、35は、そうでもない、まだまだ境界線はもっと下にあるよ、と言えるということなのです。
27が否定したものを、35は否定しない。
クラスタが扱える境界線をどこにするか、という見極めは、ひどく重要なのだ。
ちなみに、死後は存在しないという考えかたの人は、死後は存在しないという信念体系に凝り固まっていると考えられているけど、死後は存在しないと考えているのではなく
死後は存在したくないという願望の表れであるケースもあり、
アーリマンが提唱するように、一足飛びに、全存在を消して、無限の闇に吸収されろ、それもまた、逆ワンネスへの回帰だという誘惑に乗った人々でもある。
ひとつの次元は他の次元と断絶があり、
ひとつの次元の上は無。下は無限。
そして、この次元のひとつ下から見ると、その下の次元においての無は、この上にある次元の底辺の無限と結びついている。
このコスモスの中で分解した魂は、ちりぢりばらばらになって無限化し、そして、実はより下の次元においての無の上空から降り注ぐパーツになる。
なので、わたしはブルースの見解には不足があると思っている。
でも、トリトコスモスに住む、わたしたち人間には、この無限の下の世界はとうてい認識できないのです。それは人間の知覚の限界、それこそ無限というつるっとした板の向こうにある話だから。
それを覗きに行きたいと思ったものは、自分がそこに引き寄せられ、もう脱出できなくなる。
自分が塵にならなくてはならない。
絶対者だけが無限に触れられる。つまり神だけが地獄に行くことができる。
神、人、地獄という三つの世界では、人はこの上にも下にも行くことを許されない。
無と無限は連動した開閉弁になっている。
ヒカリエは至近距離。深川も、大江戸線で25分くらい、一本で行ける場所だったので
行きやすかった。
それで、対談というのは、いずれにしても、人間相手で、相手のスピードに合わせるので、
それはとても緩い、リラックスしたものとなり、強い集中力を要求されないことなので、
やはりわたしにはこれはレジャーのようなものだと思いました。
直居氏との対談では、直居氏が、終末論の話に持って行ったので、結果的に、その話をせざるを得なくなった。毎度いうことですが、直線時間と円環時間の対比で考えると、
たとえば世界が終わるとか終末というイメージは、直線時間においてのイメージです。
つまり直線時間には、はじまりと終わりがある。
円環型の時間では、円の中にある4つの区切り、あるいはひとつの円から次の円に移行する時に
節目があり、この節目は、それまで続いていたものからすると、終末になるが、
しかし次の円につながるものなので、段差、変化などをあらわすものになる。
直居氏との対談では、終末の話になったけど、
その前の土曜日でも、わたしは、リタイアの年齢になったら、世の中の役に立たないことをしたほうがいいという話は出しました。
つまり直線時間において、老年は終わりに近づくことであるが
円環時間においては、老年は、次の円とかサイクルにつながるための準備などをする。
そのための知識などを提供する役割がある。
それは世の中の合意的現実の世界に貢献することではないという意味です。
で、終末論的な話でいうと、直居氏の口から、とても懐かしいとも思えるような話が出てきた。
世の終わりに、宇宙船が救済のために準備をしている。そして少数の人は、特定の場所に運ばれて、保護される、というものです。
こういう話がわりに話題になっていたのは、70年代くらいでしょうか。
昔はそういう時に、肉体を持ったまま、生身で連れていかれるということをみな考えた。
しかしそれはあり得ない話だと思うので、今の直居氏の話でも、死んだ後で、とか、
死んだ後なんだけど、またもとの肉体に戻される可能性もあるとか、そのあたりが微妙にあいまいなまま、話が続きました。
円盤に運ばれていく、という懐かしい話が出てきたので、わたしはその話の続きをいかにスムーズに運ぶかと考えて、モンローとかモーエンのギャザリングの話を持ち出した。
これは地球大転換の様子を見に、多くの宇宙知性がフォーカス35に集まっているという内容。
様子を見に来ているわけではない。
それぞれ、直結の子供たちが、地球の中に埋もれている。
そのつながりを、子供たちは忘れている。このつながりを取り戻して、
地球経験のエッセンスをレポートするというもともとの役割を思い出してもらい、
本来のルーツに再接続するために、ぎりぎりの至近距離まで来ているということなのです。
地球は極度に過酷な場所なので、ここに生まれると、すべての人が記憶を失うのです。
暗闇の中に沈んでいる子孫を、リトリーバルするというようなイメージです。
これはそれぞれのクラスタへ、再接続するという点では、
直居氏式の、円盤が待っているということに繋がらないことはないと思うのです。
で、モーエンは、このクラスタが回収される時に、どうしても引き取れない魂があり、
この引き取れない魂は、最後の最後には、クラスタは切り離す。
すると、この魂は、存在が消滅する、ということを、死後探索の三巻あたりに書いている。
これはごく稀な話です。
でも、ないわけではないと思われる。
というのも、ひとりの重すぎる負荷のために、クラスタが永遠に縛られるというのは無理だから。
そのあたりの見極めをしなくてはならない。
で、この切り離される魂というのは、存在の両端、無と無限で言えば
無限の部分、有機化不可能な領域に近づきすぎている存在です。
無と無限は、両極で似ている。
無に近づく魂は、つまりワンネスに向かうものたち。
聖なる固きもの、無限に近づくものとは、ばらばら、ちりぢりになる者です。文字通り無限。
無限にまで分解することで、救済される。つまり完全無意識になってワンネスに回収されます。
シュタイナーのいうアーリマンは、こういう存在たちを増やそうとしている。
そこに絶対悪の存在たちがいる。
クラスタは、完全なワンネスに近づかず、その途中にあるもので、まだ生命として
種々の活動をしていく集団意識だ。
でもこのクラスタが回収できない、クラスタそのものを壊してしまいかねない分離者たちは
一足飛びに、無限へと向かい、魂は無意味化され、逆ワンネスとも言える闇に吸収される。
この状況を、ブルースは描写している。
わたしはたぶん三十年くらい、この境界線はどこにあるのかな、ということを考え続けている。いつも、頭の片隅では。
だから、グルジェフの水素96と水素192の境界線のことばかり気にしていたんですね。
意識として存在する。意識として存在しない。その境界線だ。
で、ここにはちょっと特別な条件があって、
グルジェフは、上に進化する意識は、同時に下にも向かうということを述べている。
つまり、わたしはこれを水素の絶対値の拡張という言い方をしたんですが、
グルジェフ式にいうと、地球の生命を感じはじめると、それは同時に原子の生命を感じることになつていくという話です。大を理解するものは、小にも向かうと。
フォーカス27よりも、フォーカス35の生命たちは進化している。
これは言い換えると、27のクラスタが切り離そうとする孤立者を、35は、そうでもない、まだまだ境界線はもっと下にあるよ、と言えるということなのです。
27が否定したものを、35は否定しない。
クラスタが扱える境界線をどこにするか、という見極めは、ひどく重要なのだ。
ちなみに、死後は存在しないという考えかたの人は、死後は存在しないという信念体系に凝り固まっていると考えられているけど、死後は存在しないと考えているのではなく
死後は存在したくないという願望の表れであるケースもあり、
アーリマンが提唱するように、一足飛びに、全存在を消して、無限の闇に吸収されろ、それもまた、逆ワンネスへの回帰だという誘惑に乗った人々でもある。
ひとつの次元は他の次元と断絶があり、
ひとつの次元の上は無。下は無限。
そして、この次元のひとつ下から見ると、その下の次元においての無は、この上にある次元の底辺の無限と結びついている。
このコスモスの中で分解した魂は、ちりぢりばらばらになって無限化し、そして、実はより下の次元においての無の上空から降り注ぐパーツになる。
なので、わたしはブルースの見解には不足があると思っている。
でも、トリトコスモスに住む、わたしたち人間には、この無限の下の世界はとうてい認識できないのです。それは人間の知覚の限界、それこそ無限というつるっとした板の向こうにある話だから。
それを覗きに行きたいと思ったものは、自分がそこに引き寄せられ、もう脱出できなくなる。
自分が塵にならなくてはならない。
絶対者だけが無限に触れられる。つまり神だけが地獄に行くことができる。
神、人、地獄という三つの世界では、人はこの上にも下にも行くことを許されない。
無と無限は連動した開閉弁になっている。