2015年9月6日日曜日

20150906 アンリ・カルティエ=ブレッソン

アンリ・カルティエ=ブレッソンは、ライカM3に50mmのレンズのみを装着して、さまざまな写真を撮影していました。50mmというのは、わたしが二十代の頃には、カメラの標準のレンズと考えられていましたが、その後コンパクトカメラは、だいたい35mmが多かったです。
現代では、高倍率ズームが多いので、この50mmは標準というのは忘れられています。人間の目線に一番近いといわれているけど、わたしの感じでは目線に一番近いのは35mmです。
アンリ・カルティエ=ブレッソンは、距離を5メートルの位置に固定して、さらに、露出も、1/125あたりに固定していることも多いらしく、つまり細かく調整するのを嫌っていたということです。で、ライカM3はシルバーモデルの筐体しかなく、黒テープをぐるぐる巻きにして黒くして使っていたらしく、それを見かねたライカが、アンリ・カルティエ=ブレッソンのために黒ボディを作ってプレゼントしたらしい。さりげなく、いつ撮影したかわからないという撮りかたをしていたらしい。


馴染める身近なスナップが多いというのは、蟹座の月とか金星の特質でしょうか。身近なものに、永遠性を感じさせる視点を持ち込むのは、海王星とか天王星の影響。でも、いずれにしても、獅子座の終わり頃の木星、火星、太陽は、芸術家としては優れていますね。で、乙女座に近いというのが、獅子座の火のサインの大げさなものを、抑えようとしている傾向です。目立つことを嫌い、撮影されていることさえ気がつかれないようなスタイルを好んだ。
獅子座の太陽が30度くらいというのは、乙女座という具体的な場、土のサインらしい細かい領域に、いろんな事物の輪郭、映像に、火・固定サインの永遠性が堕ちていく光景、ないし着地する光景を意識するわけなので、写真としては適しています。これがもっと獅子座の前のほうにあると、事物とか形に降りていかないので、近所のあちこちの映像に獅子座の本質が堕ちていくのを見るということを、そんなに意識しないでしょう。
結局、写真というのは、すでに存在する物質的な領域に、ものではない心、空気、精神が入り込んでいることを撮影するわけですから、火から土へという領域に天体があるのが大切なのでしょう。

宇宙的な力、スピリチュアルなものが、はかない時間・空間の狭い何かに入り込んでいくことを意識するなら、写真というのは、表現手段のひとつとして意味があるかもしれない。
太陽の力を、くまなく地上に降り注がせること。この時、地上ではすべてが二極化するというのは、映像的には、光と影というコントラストでかんがえてもいいかもしれません。
すなわち、影とか暗闇に、反対的な意味で、太陽の力が降り注いでいます。つまり光がなければ影もない。光と影はふたつあわせて、やっとひとつのもの。
空間的位置づけが存在したからこそ、太陽の方向が決まり、その結果として光の領域と影の領域が発生した。空間的な位置づけが存在するというのは二極化が発生したという意味です。空間も時間も偏在できない。全体的なものを分割してはじめて成立したのです。
すると、もとに戻ろうとする強い力、緊張感も始まる。動きが始まり、運動が始まる。

言い忘れていることがありました。月に対して、土星と天王星のTスクエアは、その人のオーラを小さくしていきますから、出来る限り目立たないように撮影するという姿勢を作り出します。例えば私の場合には、月に対して冥王星と木星なので、オーラがやたらに大きくなってしまい、こういう場合には無意識に周りの人に目立ってしまいます。つまりブレッソンのオーラは、いつでもすみませんと言ってるような感じなのです。厚かましくないと言う事ですね。
身近な、目立たないところに、すぐそばに、金星・海王星という神秘的な感動があるわけです。