2015年9月8日火曜日

20150908 ロベルト・ジェラール

隅研吾が、建築はもっとも戦闘的で暴力的と言っていたのは、たとえば美術館の場合、その中に展示されている美術は、作者が何十年もかけて蓄積してきたもの。しかし美術館そのものは、そのような長年の実績なくても、独創性を発揮した建築家が、それひとつで、自分を誇示できる。通りを歩く人も、目にしないではいられないので、この押し付けがましさは最強だということですね。
いまは国の壁がなくなり、コンペでどんな国の建築家も参加できるので、実際には今回のオリンピック会場にしても、世界じゅうの建築家が参加表明すればいいのにね。隅研吾によると、現代の建築家は、日単位で、世界中を動き回っているそうです。今日はドイツのコンペ、明日は中国というふうに。

で、ゲーテは建築は凍った音楽だと言いましたが、視覚イメージが、そのまま聴覚というか音感覚に共感覚で交換されるタイプの人からすると、建築を見たら、そのまま音楽に変換されます。建物を見たら、音が聴こえる。わたしは毎日青山通りを通っているので、青山通り沿い(246)の建築物を見て、いつも一人批評している。奇をてらったものは飽きられやすい。すると、建築の押し付けがましさは、逆に恥ずかしさを目いっぱい披露しているはめになる。




神道の本居宣長とか、平田篤胤の神道的生命の樹は、カバラの生命の樹と大差ないのですが、右の柱はイザナギ、つまり顕の柱で、左の柱はイザナミ、つまり幽の柱。ナギは凪で静かという意味で、形とか粒子性。ナミは波立っているという意味で波動性。
物質もミクロになると、粒子は存在せず、ただ波動があるのみというか、粒子と波動の区別がつかなくなるので、粒子とか形は、波動とかに変換可能ということですが、これらはみな、大きな自己を複数に分割することで発生するので、粒子とか形と、波動と力は、裏腹な、相補関係のものであると見てもいいですね。
ひとつのものの内部に、特定の場所に、形を作ると、それ以外の領域、とくに形の周囲に、強い波動が発生し、この波動は、基本的に、この凝固した形を崩そうという力が働くようになる。つまり大きなものを分割した時に、ふたつの方向が出る。ひとつは凝固する。ひとつはこの凝固を溶かそうとするので、形に対しては破壊的に働く。
この形に対して破壊的に働くというのは、イザナミが毎日千人の子供を殺すと言った時に、イザナギがそれなら毎日千五百人の子供を産むといった会話に見て取れます。それで、毎日500人ずつ、形あるものが増えるのならば、バランスが良くないので、これはアーリマンの力と考えてもいいですね。
建築は暴力的なイザナミの力と考えると、建築物は長く残すよりは、次々と壊して、違う建築のものを作ったほうがいいのでは。桜は華々しく咲いて、そして散る。というのが日本の情感ならば、建築も華々しく構築されて、そしてアッというまに解体されるほうがいい。

聴覚というか音楽は唯一身体の外に連れ出してくれる作用を持つ感覚だという意味では、形から逃れようと力が働くわけですね。で、人体の外にオーラというのがありますが、人体とオーラというときに、今日的には、人体が実体で、オーラは影のようなものとみなされています。これはギリシャ時代以後の、物質は実の世界。その母胎の波動的、生命的なものは影という考え方がそのまま続いていることをあらわしていて、小さな自己は実、大きな自己は影という思想になっていった結果。で、オーラとかエーテル体、アストラル体は肉体よりもはるかに長生きするので、オーラのほうが実で、人体はこの中に発生した凝固成分、黒ずんだ固まり、ダマと考えたほうがいいです。つまりオーラという生命体からすると、身体という凝固した骨の固まりみたいなものができることで、そこだけが不活発になり、重たくなり、いつも気が沈んでしまい、憂鬱になっている場所ということです。
不自然なものは長続きしない。無理なことをしても、それは安定して続かない。そういう意味で、人の一生は短いのです。思いつきで作ったのだから、やはりそれは続きませんでした、という感じです。自殺を繰り返す前世を持っている人は、つまり、肉体を持つことを、おかしい、おかしいといつも納得していないわけです。肉体を持つ根拠について、理屈としてあまり納得していない。納得していないくせに生まれてくるんだよ。つまり思想が玉虫色なんです。

オーラは基本的に、肉体を好んでいない。毎日千人殺したいと言ってるんだから。オーラ視をする時に、肉体の周囲にある曖昧なもの、という考え方はやめてしまい、生命としての実体、世界卵があり、この中に、烏賊の骨のように、黒ずんだ固まりとして肉体がありますよ、というふうに考えたほうがいい。そしてそれは80年程度で消えてしまいますよ、と。長くもたせるには、ものすごい工夫が必要で、徳川家康みたいに健康オタクでなくてはならない。
宇宙人のいくつかは、わたしたちの肉体を認識できない。オーラのほうを実体のある形と見てしまう。人体というより重たい凝固成分を、視覚化できないのです。なぜなら、彼らがそれを持っていないから。こういう重たい、固い成分をまとった肉体を持つ生命体の形は、まさに地球オリジナルで、最新で、ものめずらしい。つまり個人というものがあって、これは他の個人とはばらばらに動くということが、驚くような話なのです。それで興味津々で覗きに来るのです。

で、以前はオーラ講座をしていたけど、考え方をあらためて、もう書いたようにオーラは実体である、この中に短命な肉体が一瞬形成され、そして消えていくという姿勢で、取り組んでみるのがいいのではないかと思いました。虚実が逆転しているので、ただしい虚実に戻す。オーラは実体。肉体は影。その時、オーラとしての世界の卵は、もちろん、わたしが言う、太陽中心の世界の卵です。そしてこの中にあるチャクラは、恒星マカバとして考える。
前方を地球ポイントと決めれば、身体のどこの位置に恒星が来るかが決まる。アナハタから、世界中に放射状に広がる光というものは、やはりオリオンの三つ星なんですよ。でも、それがどの方位かというのは、人によって違うということです。

本題のロベルト・ジェラールになかなか行かない。

わたしは前から、スペインの音楽を聴くと、何か血が騒ぐというか、奥底のものが反応するということを書いていましたが、なおかつ、12音技法のシェーンベルクとか武満徹のような音楽が好き。で、このふたつを合体させたような作曲家が、ロベルト・ジェラールなんです。
ピアノをグラナドスに師事し、後にシェーンベルクの弟子になったスペイン人。アメリカではアイヴズが、日本で武満徹ならば、やはりスペインならジェラールだよ。
オーケストラのための協奏曲は華やか過ぎて顰蹙と言われていますが、スペインならそれくらいでもいいじゃないかと思います。シャブリエがスペイン旅行して、興奮してエスパーニャ作ったように、キラキラしたのがスペインに違いないんです。


いろんな波動を、触覚としての形にしていく天秤座には、水星・金星があり、その表現力の面に、双子座のさまざまなバラエティある火星・海王星の印象が受け止められています。しかもそれが派手な獅子座の30度の木星によって、エンファサイズされています。
で、12音技法には、かなり細かいルールが決められています。この厳格な形式は、そもそも7音という自然な感性が失われているために、補う意味で、ルールを入れないと、まったくわけがわからないからです。そうしないと、ただの騒音になってしまい音楽ではなくなるのです。厳格な形式というと、アスペクトでは、土星・天王星しかありえないでしょう。
牡牛座の感性の卓越性(つまりまるでメシアンのような。)は、蠍座の土星・天王星の箱の中にきっちりと納まります。蠍座は生命感覚なので、ここでは凝縮されるほど、力は強まります。つまり蠍座の厳格なルールとしての土星・天王星は、押し寿司みたいに、きちんと詰め込むことで、充実感が増すのですね。
猫がダンボール箱に入りたがるみたいに、牡牛座の月は、この蠍座の土星・天王星にダッシュして、頭から突っ込みます。それにまた、常にどこかに弟子入りしたいと思って彷徨う卑屈な姿勢も、ここにあらわれています。厳格なものを受け継ぎたい。先生は、できるかぎり、厳しいのがいい。
シャブリエのエスパーニャもいいけど、ジェラールの管弦楽協奏曲には、グラナドスの魂も生きていると思う。本名のルベルド・ジュアン・レネ・ジェラルト・オッテンヴェルデー(Robert Juan Rene Gerhard Ottenwaelder)は、長すぎる。

こういう雑記を書いたら、即座にコメントきました。いま、20150908 AM9:54

>イカの骨説、めっちゃエエですね!!!
>感動しました。

>そうやって、イマジネーションを外からの視点に移動する
>ツアーコンダクター役をしていただくと、少し楽になります。

>地球が、こうやってどんどん、修正社会主義みたいに
>ボンデージの方向に走るのは、暮らしててほんとうに重たいし
>気が滅入る。でも、それを20世紀の早い
>時期から沢山の作家が予見してましたね。というか、未来を
>描いたものはぜんぶ社会主義とか独裁主義とかに集約
>されるのは、つまりはいまの人間の発展を演繹すると、
>そこに行きつかざるを得ないということなんでしょうか。

>先生や、出家した行者的な進んだ人たち(シャカみたいな)は
>そういうボンデージから自由になれるけれども、在家の人は
>どうやって縛りから意識を外して、希望持って生活できるかという
>方向を重点的にやって欲しいです。

>在家は在家で、逃げられないので、物質を引きずりながらも、
>諦めなくていい、という道を説いて欲しいと、心から思います。
>よろしくお願いします。

未来にはますますアーリマンの力が強まって、最後には、人間は存在しない、生命なんか存在しないという考えになると思います。科学が進むとそうなるね。これは慣性が働いていて、引き返すだけの「意識力」がないからです。
文面からすると、わたしも出家している人なんですか。
まあ、わたしはいま、自分をリタイアした老人と定義していますから、出家しているのと似ているのかな。
このような重たい、金属鉱物を含有した肉体を持つことは地球オリジナルで、宇宙人は、それにびっくりして、「クール!!」と感嘆していますが、じゃあ、おまえできるか?と言われると、敬遠する。
でもたった80年くらいの一瞬のことなので、これを楽しめばいいのではないかと。プラトン年からすると、これたった一日の話です。
重要なのは、もとに戻る回路を持つことです。戻る道筋を十分に持っていて、それならば、旅先での一日の体験は、そんなに不安ではないです。

ツアーコンダクターしてもいいよ。こんど、9月22日に、hさんの主催で、三次元ホロスコープの講座をすることになりました。もう締め切ったみたいです。これはhさんが教えてくれというので、人を集めたら、してもいいと答えたのです。一対一をする気がない、と。
で、hさんは、幼少期から、おかしなヴィジョンをたくさん見ていて、これが後にアカシック記録だと気がついたんだけど、つまり、肉体の中におさまり、知覚の閉鎖をすることに適応できなかったという状態だと思います。肉体の中に閉じ込めれて、その感覚で世界を知覚するというのは、アカシックなど絶対にやってこないわけです。アカシックはアカーシャエーテルであって、それは四元素に分割されていない、月の上の知覚なのです。地上の肉体で生きている人は、アカーシャを、4分割して、このひとつの中に同化するので、この時間・空間の縛られた知覚から「馴染み、はみ出した」情報を受け取ることはない。塔の中に、井戸の中にじっとして生きるのです。
わたしは六月に、NYのマンハッタンで、朝は、ユニオンスクエアの前にあるスタバに行ってましたが、店員は全員黒人で、踊りながら仕事してました。黒人って、アフリカというシリウスの帝国から、息苦しいアメリカに連れてこられた。そして奴隷的に縛られた。
こういう人たちは、息苦しい肉体で生きるという「鉄仮面」に我慢できなくなると、いきなり死んだりするか、アナーキストになると思います。難民が続々と西欧諸国に流入していますが、やがては、許容限界を超えて、西欧社会は破裂してしまうかもしれません。それまでにリミッターが働きます。かつて鎖国をしたのだから、その方向を反省しなくてはならない、というわけです。

hさんは、エジプト時代に、重要な書物を、地下通路を使って、ルクソールまで運んでいたことがあるという話をしていたのを聞いたことがあります。わたしが思うに、物質的世界観が支配する世界がやがてやってくる。重要な知識を、多くの人には発見されない裏の通路を通じて、破壊から救済するということをしていたわけです。かなりの人が、アレキサンドリア図書館の書物は、いずれはキリスト教徒の暴力、すなわち「さまざまな異なる見解を持つことは決して許さない」という姿勢によって、燃やされてしまうことを予見していた。なので、多くの人たちが、燃える前に、もっとも重要なものから順番に、地下から移送していたのです。キリスト教徒は無知であることを重視し、ひとつの教科書以外に書物があることは許せなかった。
で、hさんのブログには、トンネルのような映像の写真が掲載されています。このトンネルを向こうまで歩いて、書物を運んだわけですね。このトンネルはバス、あるいは銀河鉄道、デンライナー、クラスターの乗り物です。
要するに、一日で死ぬ蝉のような存在でなく、次の日、さらに次の日へと、筒を繋ぐといいのです。で、わたしはこの一日をつないで紡ぎあげられた世界の卵を復元するのが、もっとも重要であると考え、そうなると、個体に随伴するオーラでなく、アダムカドモンのオーラを復元し、ここから、今の地球生活の「再位置づけ」をするのがいいと思っている。ここが全部でなく、ここは一部だよ、一日の体験にすぎないよ、と。
わたしがけっこう印象的だと思っているのは、やはりフォレスト・ガンプだな。いかれたジェニーからナイキのシューズをプレゼントされたフォレストは、その後、走り続け、多くの人が、その後をついていく。たぶん毎日走ってる人は、意識のどこかで、フォレスト・ガンプを意識していると思います。くまなく歩きつくす、あるいは走りつくさないと、どこかの場所に沈没してしまう。そしてこの沈没に耐え切れない。本来の人間ならば、どこにも沈没してはいけない。体は一寸の虫であるが、精神は違うよ、と。最後、フォレストは息子をバスに乗せます。もちろんバスはクラスター。息子が、つまり自分の一部が、沈没しないように、最後まで面倒を見ようとしているわけです。

アレキサンドリアが燃えた後、キリスト教は、イエスと同レベルにあり、そして違う見解の人を見つけ出しては、殺害し、その家系も根絶やしにした。これ以外のリファレンスがあってはならない、と。これが異端を排斥するということと連動しています。信仰が大切で、知識は持ってはならないということですね。あるいは信仰のもとにある小さな派生物としての知識ならば、許容するということです。ここでは知性というのは存在しなくなる。知性風に装った感情というのは存在し得ます。つまりは水浸しの知識ということですね。危険を感じた人々は、アジアのほうに逃げた。大学でも、やはり、知性というのは決して許さないですよね、現代。知性風の信仰・感情なら許される。
エジプトから逃げた人々は、アジアとかにたくさんの足跡を残しているけど、日本にも拠点はあった。ところが、明治時代に、西欧的な姿勢は、日本に盛大に押し寄せて、日本を攻略してしまいました。

川島なお美は、肝内胆管癌で、体重30キロ台前半になったという話ですが、この癌の原因は、無理なダイエットと、赤ワインの飲みすぎという話です。多いときで一日三本。ムッソリーニは、昼ごはんの時に、赤ワインを二本開けていたという話ですが、フランスなら、赤ワインがないと、食事もできないという人はたくさんいると思います。MAXのNANAが、やはり多いときで赤ワインを一日に三本。でも、山本耕史は、時々一日五本とか言ってますよね。五本でも人間歩けるのかなー。
こういう人たちは、肉体に閉じ込められた生存ということに、納得できない。だから、この緊張感を、ワインとか他のアルコールなどで緩和しようとします。で、癌で早死にしたとしても、それは早期に撤収ということで、本人も了解済みです。