2015年9月25日金曜日

精神宇宙探索講座

九州と、大阪と、東京と北海道とか、精神宇宙探索講座の予定が増えてきました。ほんとは、これらを理解するのに、わたしが書いた本が出版されるとスムーズですが、まだ編集者さえ見つからない段階です。出版社の社長には、もう渡してあります。

脳波で言えば、β波は個人の意識に固まる段階で、ここでは個人の緊張感、警戒心、注意力、ある程度狭い輪郭に固まることなどが強化されます。
α波は、地球集団意識に開放するような、すこし個人が緩んだ段階です。これは目をつぶり、リラックスすると、たいてい入ります。でも、前から言いますが、シューマン波の周回する地球の正三角形、正方形などの節目にある、古代の通信施設、圧電物質の岩で作られたピラミッドは、米軍がほとんど占拠しており、地球集団無意識に放送しているので、わたしからすると、これはノイズに汚染されているとみなします。20人会議がコントロールしているのですが、それは有害かというと、むしろ地球社会を崩壊から救済しようと努力しているので、悪いとは思えません。
それでも汚染なので、α波よりも深いθ波に入るのが、良いです。
θ波は、昏睡直前の、すなわち個の意識が失われるような段階で、個の輪郭からはみ出したような情報がらくらくと入ってきます。恒星探査には、このθ波が不可欠です。
β波は個人。α波は地球集団意識。するとθ波は、もっと範囲の大きなものと定義すると、この定義は単純すぎるけど、でも目安にはなるでしょう。

ブルースモーエンは、集団探索というのを重視していました。ヘミシンクなどでは、だいたいθ波になることが多いのですが、もう説明したように、α波とかθ波は、個の意識を失うし、個の意識の輪郭を溶かして拡大しないことには、遠くのものに行くことはできない。遠くのものとは、空間的に遠く、また時間的に遠くということです。空間と時間は、粒子性と波動性ですが、互いに置き換え可能です。
つまり個としての輪郭は、θ波では溶けてしまい、境界線がなくなるので、これは、自然的に集団探索になるということなのです。ヘミシンクなどで、隣の人の体験がそのまま流れ込んできたりしますが、それは当たり前です。上野の近くで、モンロー研のヘミシンクしましたが、そこにいた若い男性が、ヘミシンク体験の中で、隣に来て、目をぎょろっとさせて、わたしの顔を見ていました。で、自分は望星高校の出身なんだよね、とか言ってましたが、こういう超個的な、個人の人格の輪郭が溶解してしまうのが、当たりまえです。
で、おそらくブルースのセッションでも、たびたびそういう人が出てくると思いますが、個の輪郭、個の意識にこだわって、参加者全員が作り出す集団探索的な磁場、あるいはまたそのセッションが開催されている土地の場に参加することに抵抗する人はいると思うのです。
それは、β波が残り、θ波の渦の中に入りたがらないということです。つまりスープの中にダマが残るということです。突き詰めていえば、抵抗する人は、まだ個人としての自分を充足させておらず、満足がなく、そして恐怖に支配されている人です。決して人を受け入れられない人です。

日常の生活に戻れば、人はみな個の輪郭を取り戻し、車を運転する時でも緊張感の中で、周囲に警戒するということをしなくてはなりません。でも、この習慣を、ヘミシンク中とか、探索の場に持ちこむのは、筋違いです。すぱっと切り替えなくてはならないのです。
個の意識を主張しつつ、すなわちその個人が持つ肉体的、感覚的、前世的な欲求とか欲望、目的意識を維持しつつ、探索の場に入り込むことは、いわば、他の人の探索を妨害していることと同じです。
で、わたしは上野近くのヘミシンクの集団探索の中で、主催者が、さあ、みんなで同じカフェに行こうよと行った時、行くことは行った。それが決まりだから。でも、「俺って、みんなとカフェに行くのって嫌いなんだよね」という趣味を発揮して、フォーカス21のカフェに行った直後に、みんなとは離れた席に行ったんですね。そこで、わたしのガイド、わたしがメカニックと呼んでいる男から、今後の計画としての地図を見せられていた。
で、主催者のミーさんから、ヘミシンクセッションが終わった後で、わたしに「なんで、途中から離脱したんですか」と聞かれた。

集団セッションとして、個の意識がなくなるような体験の中で、自分なりの個人としてのβ波的こだわりを持ち込むのは、実は間違っているんですね。みんなとカフェに行くの、嫌い。というのは、わたしのβ波的な姿勢です。ヘミシンク体験の中でそれをやってしまったので、ミーさんからすると、目立つ行動であり、それは非難するべきことであるよ。

で、このβ波、個人が孤立して、それぞれ自分のアイデンティと主張を持つというのは、地球的なもので、どこの宇宙も、どこのetも体験したことのないオリジナルなものです。えっ、個人て、集団から孤立して、それぞれ勝手に行動するのかと驚かれます。この個人が孤立するということのためには、個人は極端に物質的な存在でなくてはなりません。つまり振動密度が低く、物質密度が濃い金属鉱物の含有量を増やして、ものとして重い肉体を持ち、しかもこの肉体に自己同一化するという努力をしなくては、実現しません。

ベティ・アンドレアソンが出会ったクアズガは、ジェンカみたいに、前の人の背に後ろの人が手を乗せて、筒になって、部屋に入ってきた。これはゼータ・レティクルも、またエササニ星人も同じ。つまり、ひとつの生物は、より大きな次元においての部品であるという認識があると、つまり人間の例で言えば、内臓や細胞は人間の中にある部品であるという認識があれば、結果的に、ジェンカは避けられません。存在の正しい位置を見つけ出すと、近隣の存在と、ジェンカを組むことになるのです。
でも地球的人間は、そこから離れて、独自な自分を主張することができると妄想している。それは不可能です。できるとしたら、自分を近視眼的範囲に閉じ込めることです。歩いていくと新宿駅に着くのに、下を向いて歩くと、どこにでも自由に歩くことができると思うことができる。自由意識とは、実は知覚を閉鎖することで実現できるのです。

そういうわけで、精神宇宙探索講座においても、それぞれの個人の持つ欲望、こだわりなどを、一時的に捨てることになります。もしそれを最後まで持ち込む人は、その場を壊し、ほかの参加者に心理的に傷を与えるということにもなるでしょう。つまり「開かれなくてはならない時に、浮かばれない何かがあって、開くことができなかった」という姿勢が、他の人にも染み込んでいき、他の人も、θ波に入りにくくなるです。分析的精神は、ベータ波特有の属性であり、個の意識の死守ですから、そういうのを捨てて、馬鹿になる、というのがいいのです。

で、このような集団探索とか集団意識になると、かならず、そこに支配者とか全員を仕切るという代表者が出てきます。なぜといって、宇宙は階層構造ではないですか。七つのものはひとつになり、それは上の七つのうちのひとつであり、またそこで七つまとまると、ひとつになり、より上の七つのうちのひとつなのです。
すべての人は公平であり、みんな対等であるというのは虚偽です。ブルースなどは、「俺の言うことは信じるな、自分で体験し、確かめろ」といいますが、それは彼が水瓶座の月男で、わたしと同じタイプで、この集団的な場を集合させる、代表的な仕切り人間を、自分がやりたくない、ということに過ぎません。ブルースがしないのなら、誰かがするのです。実際、彼は講座を主催しない。呼ばれて来るだけ。たとえば蠍座に天体が四つもある雪乃さんとかが企画し、まとめ、そこに呼ばれたブルースがよたよたとやってくるのです。

ヘミシンクの時に、ミーさんが仕切って支配していたので、わたしは参加が楽でした。
つまり、精神宇宙探索講座をする時も、参加者は、集団探索になるので、個人としての独立性、アイデンティ、主張、こだわりはクラッシュの対象になり、それを受け入れるか、それとも、参加しないことを選ぶか、どちらかにしなくてはならない。そして、そこには全員をまとめて仕切る人が必ず登場する。(そう蠍座の力を持つ人ね。)ここに横並びの公平さなんかない。この集団性の力によって、個人ではとうてい得られない高みが現出する。
でも、これを長く続ける必要はないということなんです。プロジェクトが終われば、瞬間的に解散すればいい。体験のエッセンスは、ちゃんと身になっています。

アメリカ的な世界観は、自由主義を妄信する、つまり自由の女神のイメージが焼きついている世界だと思うのですが、それは現実離れしています。より上位の宇宙に接続されると、結果的に、わたしたちは細胞のひとつでしかないという自覚が生まれ、その席の位置さえ決まっていて、他の席に移動してはいけないということを知ります。その現実を忘れ、「自分の未来も、また行動も自由だ」と考えるには、地獄の暗い回廊の中に迷い込むしかないのです。

人間の一生のサイクルということで言えば、30代とか40代は、個の意識の中により強く同化します。個の意識を軸に組み立てられているのが、こんにちの社会であり、それは個人の欲望とか権利を最大限重視した法制度などを見てもわかるでしょう。誰かが土地を買うと、この権利は守られることになっています。で、わたしのように60代くらいになると、次の宇宙との繋ぎの役割に移るので、能の翁みたいな立場になり、超個的な姿勢が高まります。だから会社の社長とか、代表者とか、そういうのをしてはならないのです。超個的な要素を持つ存在が、政治的な場の中心に入ると、かならず破壊的な共同体になります。シャーマンと政治家はわけなくてはならない。シャーマンが政治家をすると、そこに狂った共同体が生まれます。

死んでしまった菊池氏が、東北から東京に来るときに、わたしは「三年くらいはわたしのところにいてもいいけど、その後は離れてくれる?」と言いました。
菊池氏は蠍座に四つくらいの天体がある人なので、しつこく張り付くのが自然な姿勢ですが、わたしは水瓶男なので、そういう根性に対しては冷たいです。
で、ある時期に、何か教祖みたいな人が、菊池氏に「松村氏のところから離脱して、自分のところに来ないか」と提言したらしいのです。それを聞いてわたしは、「えっ?どうしてそっちにいかないの?」と思いました。それはもう三年の期限が近づいていた時期でもあります。
蠍座の集合は、6ハウスなので、自立してやるのでなく、どこかのサーバントになるというのが生命感覚を充足させるのです。だから、どこでもいいので、どこかに所属したほうがいいのです。いい働き手になります。
その教祖は自分のところに来い、そうすれば、もっとうまくいくと言ってるわけですから、支配欲とか、自分が代表的な存在であるということに執着している人ですよね。地上ではそういう人は必要なので、それは何の問題もないと思います。何をしていいかさえ指示しないわたしのところにいてもしようがないと思っていたのに、菊池氏は移動しなかった。

わたしが放置主義なので、おそらく、わたしはその影を無意識に作り出してしまいます。つまり、わたしにはしつこい人が接近するのです。菊池氏は、依頼を断れない人なので、たとえば、8時間もずっとカウンセリングして、最後に、今日はお金ないので、5000円しか払えないと言って去るような、つまり人のことをまったく配慮しないようなあつかましい人たちも普通に継続的に相手にしていたために、完全に健康を壊してしまいました。そして死んでしまった。生きているときに、呂律の回らない菊池氏を見て、「ちょっと腎臓痛みすぎだ。限界を越えてる、なんとかしろ。休め」とか何度か言いましたが、バランスのとり方がわからないらしかった。というか、いま思うに、東北でのんびり暮らしている人間に、東京の息詰まるストレス生活を体験させるのは、やはり無理あったかなーと思います。わたしはそのリズムの違いをよくわかっていなかったのかもしれない。
Huluで弁護士のドラマ「スーツ」を見ていますが、マンハッタンは過酷だ。しかし、東京もほとんど変わらないでしょう。